第三十四話 因果応報

 白い布の塊のようになった皇后様の体を、私は涙で霞む瞳で呆然と見つめていた。

 戸口から吹き込む柔らかな風に、黒髪が微かにそよぐことはあっても、再びその体が意思を持ち、立ち上がることはなかった。


『……どうすれば、陛下にふさわしい女性になれるのかわからないのです』


 初めて言葉を交わした時、皇后様はそう言って顔を赤らめ、膝の衣を握りしめられた。

 まだ幼かった少女は、初めての恋に戸惑い、陛下のために自分に何ができるのかと思い悩んでいらっしゃった。



『陛下はあなたのことを誰より愛していらっしゃるのに……。私はあなたを絶対に許さない』



 男鹿おがに惹かれる私のもとを訪れ、涙ながらに怒りをぶつけてこられたのも、陛下を愛するがゆえのこと。

 陛下を心で裏切り続ける私を、どれだけ憎まれたことだろう。



『本当は、私がお支えして差し上げたかったけど……。陛下はあなたでなくてはだめみたいなのよ』



 それでも皇后様は、こんな私に陛下のおそばにいて差し上げて欲しいと言ってくださったのだ。

 ご自分のお気持ちを押し殺し、その想いにいたるまで、どれだけの涙を流してこられたことだろう。


 そこまで想いを巡らせて、私は堪えきれずその場に身を崩した。


『陛下にふさわしくないのは、私の方です……』


 兵士らに肩をつかまれ、上半身を折り曲げるようにして私は首をうなだれた。

 それからしばらく、私はそのままの体勢で泣き続けた。


 不意に、手首を縛っていた縄がほどかれ、両脇を抱えるようにして二人の兵士が私を立ち上がらせた。

 口元を覆っていた布も取り払われ、私は物陰から玉座の前へ引きずるように連れ出された。

 無理矢理ひざまずかされ、玉座を見上げると、そこには、縄から解かれた陛下がいらっしゃった。

 突然目の前に現れた花嫁衣装を身に纏う私に、陛下は怪訝な顔を向けられた。

 布で顔を覆われているため、目の前にいる女が私であることに、陛下は気付いていらっしゃらないご様子だった。

 

「陛下、これより新しい皇后の戴冠式を執り行います」


 背後から、子元しげん様の声が聞こえてきた。


「なん……だと?」


 目を見開き、陛下は小さくそうつぶやかれた。

 そしてその大きな瞳は、私の頭上を越え、その向こうに倒れる皇后様の亡骸なきがらに向けられた。


「何を考えているんだ。たった今……!」


 陛下は憤怒の形相でそう叫んで立ち上がられた。


「お喜びください。長年陛下が皇后にと熱望されていた、ちょう花蓮ファーレンですよ」


 子元様が私の名を口にされると、陛下は息をのまれた。

 目の前にいる女が私であることを知り、陛下は激しく動揺されているようだった。

 そんな陛下のお顔を横目に、子元様は、私の腕を掴む兵士に目で合図を送られた。

 すると、居並ぶ大臣達からは死角となる方向より、私の喉元に小刀が突きつけられた。

 それをご覧になった陛下の表情が、にわかに固くなられた。 

 子元様は、陛下の態度によっては、私の喉を切り裂くおつもりなのだろう。

 陛下もそれを悟り、身動きがとれなくなられたのだ。


「さあ」


 にやりと笑いながら、子元様が視線を横にずらし、顎を振ると、赤い布を両手で掲げた役人が、左手から陛下のそばへ進み出てきた。

 その男が手にする布の上には、銀製の宝冠が載せられていた。

 それは、皇帝が自ら妻となる者の頭上に載せ、皇后と認めたしるしとするものだ。

 陛下は、ごくりと喉を鳴らし、冠と私の顔を交互に見つめられた。


「い……や……」


 私は陛下の瞳を見つめ、小さくつぶやいて頭を振った。

 たった今、皇后様が命を奪われたこの場所で、しかもまだそこにある亡骸を目の前にして、皇妃になどなりたくない。

 小さく頭を振り続ける私の前で、陛下は震える唇を噛み締めておられた。


「さあ」


 再び、子元様の少し苛立ちを含んだ、煽るような声が室内に響いた。

 それと同時に、銀色に光る刃が、薄絹を突き破って、私の首筋へあてがわれた。

 その瞬間、陛下はきつく瞳を閉じ、一旦首をもたげられた。

 そして、再び顔を上げられると、玉座から立ち上がり、ゆっくりと私のそばへ近づいて来られた。


 私の正面に立たれた陛下は、思い詰めた表情のまま、ゆっくりと両手を差し出してこられた。

 布越しにも、その手が震えていらっしゃるのが見て取れた。

 陛下は、私の顔を覆う布の裾を握ってそれをめくり上げると、そのまま背中の方へ落とされた。

 そこにあった陛下の瞳は、涙に濡れ、お顔は怒りと哀しみに赤く染まっていた。


「い……や……です」


 力が入らず、弱々しくなった声で私はそう言い、首を左右に振り続けた。

 首を振ることで小刀の刃が肌を傷つけ、生温い血が首筋を流れた。

 不意に私から視線を外された陛下は、そばに立つ役人の方へ体を向け、布の上に置かれた宝冠を両手で持ち上げられた。


「張花蓮を皇后とする」


 陛下は噛み締めるようにそうおっしゃって、私の結い上げられた髪に冠を載せられた。


 直後、室内には沈黙の時が過ぎた。

 さすがにこの状況に、誰もがどう反応すればよいのか、戸惑っている様子だった。


「おめでとうございます!」


 そんな沈黙を破ったのは、子元様の大きな声だった。

 彼は満面の笑みを浮かべ、わざと大きな音が鳴るように手を叩いて見せた。

 すると、彼に続いて、室内にいる大臣や役人達が次々と手を叩き、声をあげていった。


「おめでとうございます!」


「おめでとうございます!」


 口々に投げかけられる祝いの言葉に、私はたまらなくなって、耳を手で塞ぎ泣いた。


「あまりの嬉しさに涙を流しておられるぞ!」


 そんな私の様子に、子元様がそう言ってからかうと、他の者達も声をあげて笑った。




『きっといつか、そなたを皇后にする』



 陛下は、幼い頃から、いつもそう言って下さっていた。

 それは、私たちの長年叶わなかった夢でもあった。

 でも、こんな形で想いを遂げたいなど、私は一度も思ったことはなかった。

 陛下もきっと、同じお気持ちのはずだ。

 誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなどあり得ない。

 皇后様の死を踏みつけるようにしてこの地位を得るくらいなら、死んだ方がよっぽどましだった。

 向かい合って涙を流す私たちの周りで、拍手と歓声がいつまでも鳴り響いていた。





 この日、私たちは夫婦として初めての夜を迎えた。

 寝室にいらっしゃった陛下の姿を目にした瞬間、私はその場に泣き崩れてしまった。

 そんな私を抱き起こし、陛下は寝台へと運んでくださった。

 そのまま私たちは、しとねの上で強く抱き合い、言葉も情も交わすことなく長い夜を過ごした。

 共に過ごす夜は久しぶりであったけれど、皇后様の死によって自分たちがこの場にいるのだと思うと、肌を重ねる気分になど、とてもなれなかった。



 

「なぜ、もっと愛してやれなかったのだろう」


 東の空が白み始めた頃、初めて陛下が小さくつぶやかれた。

 壁にもたれかかる陛下の胸に頬を寄せていた私は、そのつぶやきに思わず顔を上げた。

 そこにあった横顔は、どこか遠くを見つめ、これまでに見たことがないほど哀し気だった。


「わざといつまでも子ども扱いして。ずっとちんは、香蘭こうらんの気持ちから逃げていたんだ」


 そう言って陛下は、手で目元を覆い、嗚咽を漏らし始められた。


「そなたへの想いを抱いたままでは、あの子を傷つけてしまいそうで。でも、あの子は逆にこんな朕にいつも気を遣ってくれていた。子ども染みていたのは、きっと朕の方だ」


 肩を震わせてうなだれる陛下を、私は胸元に引き寄せた。


「それは、私も同じです。いつも皇后様には守っていただいてばかりでした」


 そう、子元様に審議にかけられ、皇太后様に追いつめられた時。

 そして、陛下の妾でなくなり、宮廷から去らなくてはいけなくなった時。

 いつも皇后様は、私を救ってくださった。


 私たちはいつもそうだ。

 自分たちの愛を貫くことで、周りの方々を不幸にしてしまう。

 陛下の最初の妻であったしん皇后様も、愛情を注がれることなくお亡くなりになられた。

 今回もそう。

 私が自分の本心に気付かず、男鹿を慕い続けていたなら。

 時を経ていつか、陛下と皇后様は真の夫婦になられていたかもしれない。


「なぜ……私たちは出会ってしまったのでしょうか……」


 思わずこぼれ落ちた私の言葉に、今度は陛下が私を胸に引き寄せ、抱きしめてくださった。





 それから数日後、宮廷内の庭を私は陛下と並んで歩いていた。

 あの悪夢のような一日から、気味が悪い程平穏な日々が続いていた。

 私も陛下も、あの日のことにはあえて触れないようにして、心して穏やかに時間を過ごすようにしていた。


 夏も盛りを迎え、私たちは照りつける日差しから逃れるように石造りの東屋に入り、椅子に腰を降ろした。


「陛下」


 背後から声をかける者があり、私たちは同時に振り返った。

 そこには、長身の男が立っていた。


「男鹿か」


 陛下が小さく微笑んで手でいざなうと、男鹿は東屋の縁をぐるりと回り、私たちの正面から入ってきた。

 そうして、並んで座る私たちと向かい合うように腰を降ろした彼は、私と陛下の顔を順にじっと見つめた。

 その顔は、私たちに最初にかけるべき言葉を探っているようだった。


「あの時は監禁されていたらしいな」


 眉に皺を寄せて陛下がそうおっしゃると、男鹿は目を伏せて唇を噛み締めた。


「肝心な時にお役に立てず、申し訳ありませんでした」


 後で聞いた話では、皇后様が殺害されたあの日、彼は子元様の兵によって、別室で自由を奪われていたらしいのだ。

 そのため彼は、私たちの力になれなかったことを、悔いているようだった。


「いや、謝らなくてはならぬのはこちらの方だ。一国の王に対し、手荒な真似をさせてすまない」


 頭を下げ続ける男鹿に、優しくそうおっしゃると、陛下は何か考えごとをするように、じっと遠くの緑を見つめられた。

 ようやく頭を上げた男鹿は、そんな陛下のお顔を不思議そうに見つめていた。


「なあ、男鹿」


「はい」


 不意に名を呼ばれ、男鹿は身を正し直した。


「倭国のみかどは、何代目の大王おおきみだ」


 突然の質問に意図が掴めず、男鹿は一層首を傾げた。

 大王とは、倭国最大の連合国、邪馬台国を治める王に与えられる称号だ。

 倭国内各国の王の頂点に立つ者であるため、大王と呼ばれていると聞いたことがある。

 朝廷が開かれ、その呼び名は帝と改められたが、邪馬台国を治める皇家の者が、今も受け継いでいるという。

 別名、親魏和王しんぎわおう

 彼を狗奴国王に推す書状を送って来られた、あのお方だ。


「わかりません」


 思いがけない男鹿の返答に、私は思わず息をのんだ。

 あらゆる分野の知識を網羅する彼の口から、このような言葉が出てくることは珍しいことだった。


「倭国には大陸と交流を始めるまで、文字がありませんでした。ですから、正確な記録が残っていないのです」


 なるほどと、陛下は真剣に語る彼の顔を見つめて頷かれた。


「倭国を生み出した神の末裔が皇家だと言われておりますので、我が国がこの世に存在したその日から続いているのでしょう」


 普段論理的な彼が、大真面目に神の存在を語る様子に、私は意外な一面を見たような気がした。

 同様の疑問を感じられたらしく、陛下が続けて訊ねられた。


「本気で帝は神の末裔だと信じているのか?」


「はい。もちろん」


 迷いなく即答する彼に、今度は陛下が言葉を失われた。


「あの方々は存在するだけで、我々に生きる力や喜びを与えてくださるのです。それが神の持つ不思議な力であると私は信じています」


 一瞬呆気にとられていた陛下は、何かを思い直したかのように、今度は身を乗り出して彼に問いかけられた。


「お前程の能力があれば、帝に変わって倭国を治められるのではないか?」


 本心を探るような陛下の問いに、今度は男鹿が大きく目を見開き、言葉を失った。


「とんでもありません。私のようなただの人間が、神に変われるはずがありませぬ」


 恐れ多いというかのように、青ざめた顔で両手を胸の前で振る彼に、陛下と私は首を傾げて顔を見合わせた。

 しばらく、そんな男鹿の様子を見ていた陛下は、大きなため息をついて微笑まれた。


「朕が魏の何代目の皇帝か知っているか?」


「……」


 答えを知らぬはずはないのに、男鹿は口ごもった。


「気を遣うことはない。まだ三代目だ」


 陛下はそう言って、頬杖を付き、再び遠い緑を見つめられた。


「初代魏王である曹操そうそうが、漢王朝からどのようにして権力を奪ったか、当然お前なら知っておろう」


 陛下の問いかけに、男鹿は今度はゆっくりと頷いて見せた。


「漢の皇帝献帝けんてい傀儡かいらいにし、実質的に朝廷を掌握した。その過程で当時の皇后も殺害している。朕は祖先が漢の皇帝に行ったことをそのまま司馬家から受けているのだよ」


「……」


「力で奪ったものは、その力が衰えれば、より力のあるものに奪われる。だからこの国では、お前の国のように長きに渡って続き、現存する王家はない」


 陛下は握りしめたご自分の拳を見つめ、絞り出すような声でそうおっしゃった。


「神や占いに頼るお前たちの国を、これまで野蛮だと見下していたが、見方によっては、我が国より成熟しているのかもしれぬな」


 意外な陛下の言葉に、男鹿は再び大きく目を見開いた。

 そんな彼の顔を見て、不意に真顔になられた陛下は低い声でおっしゃった。


「明日、銀印を渡す。だからお前は一刻でも早く祖国へ帰れ」


 いつになく真剣な表情でおっしゃる陛下に、一瞬で男鹿の顔から表情が消えた。

 ただならぬ様子に、私も胸騒ぎを感じて、ふたりの顔を交互に見比べた。


「早く帰れ。朕が皇帝であるうちに」

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