第三十五話 別れの時
「私は、今しばらく、ここへ留まります」
「司馬師が、このまま大人しくしているとは思えませぬ。きっと、まだ何か……」
「わかっている!!」
男鹿の言葉を遮るように、陛下が大きな声を出された。
その声に、一瞬ひるんだ男鹿は、不安気に眉を寄せて陛下のお顔をじっと見つめていた。
「
確かに、司馬師は以前、男鹿を戦力として手元に留めようとしていた。
陛下がもしも廃位されることになれば、皇帝の不在を理由にして、銀印を渡す時期を引き延ばし、その間彼を利用することも十分考えられる。
「しかし……」
男鹿はそう言って目を伏せ、唇を噛み締めた。
それがわかっていても尚、彼はこの国に留まり、陛下をお守りしたいと思っているのだろう。
陛下にも、その想いは痛い程伝わっているようで、彼を見つめる瞳が潤んで揺れていた。
ふと、卓の上で震える男鹿の拳に、陛下の手が添えられた。
それに驚き、顔を上げた男鹿の瞳を、陛下は目に力を込めて見つめておられた。
「お前は、
「……」
「武力によって、人が国を治めるようになれば、いずれお前たちの国もこうなる」
陛下の発せられた言葉に、男鹿の表情が固まった。
「お前を狗奴国王にと推す、王達からの書状には驚いた。これまで国とは、奪い合うものだと思っていたからな」
「……」
「しかしそれも、帝という絶対的な存在のもとでは、所詮その他の者達はただの人間であり、みな平等であるとの考え方があってのことであろう」
男鹿の手を強く握りしめる陛下の手が震えていた。
「だから、お前は何があっても帝を守れ」
想いを託すように強い口調でおっしゃる陛下に、男鹿はきつく目を閉じてうなだれた。
彼は拳を強く握りしめ、声を殺して泣いているようだった。
そんな彼の様子を、陛下はじっと見つめておられた。
しばらくして、陛下は立ち上がられると、私たちに背を向け、東屋の裏手に広がる池を見渡された。
「
(真の理由……?)
池に向かって立たれた背中を見つめ、私は陛下の言葉の続きを待った。
「それほどの能力を備えながらも、決して失わない謙虚さと、帝へ対する忠誠心だ。狗奴国が帝に忠誠を誓っていれば、その他の国はそれに追随するしかないからな。だから、お前はここから去り、帝を守ることで国を安泰に導け」
帝を守れと繰り返す陛下の言葉に、男鹿は顔を上げ、静かに立ち上がった。
それからその潤んだ瞳は、しばらくの間、まっすぐ黒い衣を纏った陛下の背中に向けられていた。
やがて彼は、その背中に向かって腕を伸ばして拳を重ね、その腕の中に深く頭を沈めた。
それは、彼がここに来て初めて見せた魏式の最敬礼だった。
翌日、陛下は正式に男鹿が狗奴国の王であることを認められた。
諸大臣や武将達の見守る中、美しく装飾が施された木箱に納められた銀印が、彼に手渡された。
私も、皇后として初めて陛下の隣に座り、その一部始終を見つめた。
それから陛下は、
今回用意された下賜品は、小国に与えるには高価なものばかりで、数も莫大なものだった。
しかしそれは、倭の帝が狗奴国奪回への協力に感謝し、心尽くしの品々を献じてきたことに対する礼であり、希少な学術書を与えられたのは、戦に貢献した男鹿を称し、彼の希望に添ってのものだった。
「あれは……?」
出港を三日後に控えた昼下がり、私は窓の向こうに立ち上る煙を目にして庭に出た。
女官に付き添われ、火元へ近付くと、そこには男鹿がいた。
背を向けて腰を降ろした彼は、傍らに積まれた薄い木の札を、ひとつずつ焚き火の中に投げ入れていた。
「それ……」
「なつかしい……」
それは三年前、彼がここへ来てまだ日が浅く、魏の言葉が話せなかった頃、筆談に使っていた札だった。
「さすがに、これまで持ち帰ることはできないからね」
そう言って彼は再び炎に向かい、木札を手にとった。
細身だけれど肩幅の広い背中を見つめ、改めて私は、彼がこの地を去ることを実感し、たまらなくせつない気持ちになった。
「あ……」
ふと、小さく声をあげて、彼の手が止まった。
私が
よく見ると、その板には墨で私の名が書かれていた。
それは、彼と初めて出会ったあの日、互いの名を書き合った木札だった。
『私の名は男鹿(おが)といいます』
あの日彼は、皇太后様から妾として私が与えられたことも知らず、屈託のない笑顔でそう言い、この札に自分の名を書いた。
『私は
私もたどたどしい
『美しい名前ですね。あなたにぴったりだ』
あの瞬間から、私は彼に恋にも似た感情を抱き、揺れる自分の心を持て余す日々を過ごしたのだ。
今でもその思いが消えた訳ではない。
生きる道は違っても、私にとって、彼は一生大切な人だと思う。
「それ、もらってもいいかしら。あなたがここにいたという証に」
私がそう言うと、彼はせつな気に微笑んで、木札をそっと差し出してくれた。
それを手にとった私は、静かに胸に押し付けた。
「綺麗だね。本当に皇后様になったんだ」
改めて私の姿を見つめ、彼はため息混じりにそう言った。
金の半襟で縁取られた赤い衣と、宝玉が散りばめられた黄金の冠。
今の私は、誰の目から見ても紛れも無く皇帝の妻だろう。
『あなたの想いを遂げさせて差し上げたい』
陛下への想いを吐露する私に、あの日彼はそう言ってくれた。
その想いはこうして叶ったはずなのに、私の心は重く沈んだままだった。
「おめでとうとは言えないよ」
押黙って俯いた私に、男鹿は小さくそう言った。
思わず顔を上げた私の目の前に、涼し気な瞳が待ち構えていた。
「でも、あなたには幸せになって欲しい」
その言葉に、私の視界が一気にぼやけた。
「以前、皇后様がおっしゃってたんだ。自分にもしものことがあれば、あなたに陛下を支えてもらいたいって。あなたたちの幸せを、あの方も望んでおられるはずだから」
『私になにかあった時は、今度はあなたが陛下の妻となってお支えしてね』
いつか、皇后様がおっしゃった言葉が、脳裏に鮮やかに甦ってきた。
その瞬間、私は木の札を抱きしめたまま、その場に座り込んだ。
「だから、あなたたちは、幸せにならなくてはならない。皇后様のためにも」
力強くそういう彼の言葉に、私は少し救われたような気がした。
これまでは、皇后様の無念を思うと、幸せなど望んではいけないと思っていたから。
この先、どんな運命が待ち構えているかはわからない。
でも、彼の話を聞いて、皇后様が望まれたとおり、どんな未来が訪れようと、陛下をそばでお支えしようと心に誓った。
「あなたも、
袖口で涙を拭き、顔を上げて私がそう言うと、男鹿は苦笑いをして目を逸らし、遠くの空を見上げた。
「どうかな。私はあの方に、何も告げずにここへ来てしまったから」
ため息混じりにそう言う彼に、私は言葉を失った。
以前陛下は、愛する者に何も告げずここへ来た彼に、彼女の人生を背負う覚悟がなかったのだとおっしゃった。
でも、壹与様は、彼が神と
きっと、彼女と運命を共にするということに対しては、私たちの想像を遥かに越える葛藤があっただろう。
それは彼にとっては、神である彼女を、ただの人へと
そしてその葛藤は、王となった今でも彼の中で渦巻いていると思われた。
「彼女もあなたと同じ想いなら、きっと待っていてくれているわよ」
無責任にも思えたけれど、私はそう口にせずにはいられなかった。
「そして、彼女があなたとの未来を望むなら、どんな立場になろうとそれが彼女にとっての幸せなのよ」
気休めにしかならないかもしれないと思いながら、私はそう言った。
でも、もし私が彼女の立場ならそう思うはずだと思ったのだ。
私も、この先仮に陛下が廃位され、皇后の立場を失ったとしても、あの方のそばにいられるなら、きっと幸せになれると思えるから。
「そうだね」
そんな私の無責任に発した言葉に、彼は目を伏せて大きく頷いた。
「ありがとう。花蓮。
そう言って、男鹿は、出会った時と同じ、屈託のない笑顔を見せた。
つられて私も笑顔になり、私たちは言葉には出さなかったけれど、心の中で別れを告げた。
結局、彼と言葉を交わしたのは、この日が最後となった。
男鹿が祖国へ旅立ってから数週間は、穏やかな日々が続いていた。
ここ最近、司馬師は、何かと理由をつけては、陛下を
陛下も、彼の行動に不穏なものを感じながらも、どこか覚悟を決めたご様子で、そんな状況に甘んじておられた。
あの日、
以後、陛下は飾りのように扱われ、私たちは宮廷の奥で、ただ生かされているという状態となったのだった。
「男鹿はそろそろ
ふと、少し高くなった空を見上げて陛下がつぶやかれた。
庭の隅に腰をおろし、
「順調にいけば、そろそろ
私が微笑んでそう言うと、陛下は「そうか」と言って、私たちのそばへ近づいて来られた。
「紅玉、勉強の方ははかどっているか?」
陛下に訊ねられ、紅玉は頬を真っ赤にして立ち上がり、薬草をのせた籠を持つ手に力を込めた。
「はい! 皇后様が丁寧に教えて下さるので、ずいぶん身につけることができました!」
緊張に全身を固くして声を張り上げる彼女に、私と陛下は顔を見合わせて笑った。
彼女は、近く実施される
以前は女に医官になる道は閉ざされていたが、私が前例になったことで、次回から門戸が開かれることになったのだ。
もともとは産婆を目指していた彼女だったけれど、かつて自分が男鹿に命を救われたように、怪我や病に苦しむ人々を救いたいとの信念から、医者を目指すことにしたらしい。
公務に出る機会もなく、時間を持て余していた私は、最近、彼女に自分の知識を伝えることに生き甲斐を感じていた。
紅玉は、陛下にぺこりと頭を下げると、再びしゃがみ込み、庭に生えた薬草の葉の形をじっと見つめ、ちぎっては匂いを確かめていた。
私はそんな彼女を見て、同じように泥だらけになりながら薬草を手にしていた、在りし日の男鹿の姿を思い起こした。
陛下も紅玉の熱心な様子に笑みを浮かべられ、私たちは並んで少女の背中を見守っていた。
そんな穏やかな時間を過ごす私たちの後方から、突然、複数の鉄がぶつかり合う無骨な物音が近付いてきた。
振り向くと、そこには無数の武装した兵が、幾重にも重なって私たちを取り囲んでいた。
「なにごとだ?」
私を背にまわして庇いながら、陛下は兵士らの顔を睨みつけられた。
すると、兵らをかき分けて、同じく鎧に身を包んだ中年の男が前へ出てきた。
「司馬師?」
兵士らを背後に従え、正面に立った鋭い目をした男は司馬師だった。
司馬師は冷めた目で、陛下と私の顔を順に見つめ、「ふん」と鼻で笑った。
「陛下、審議の間へ。諸大臣や諸将たちが既に首を揃え、あなた様をお待ちしております」
司馬師がそう言った瞬間、私たちの両腕は、兵らによって取り押さえられた。
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