共鳴世界編
序章 二人は一人
第三十二幕 風と花壇と帰宅
猫の鼻提灯が割れた。
昼下がりの花壇を、撫でるようにサワサワと吹く風の仕業だった。
鼻提灯が割れても猫は気にしない。いつもこの辺りで毛繕いをしてくれる人間が、頭を優しく撫でてくれる。そんな滅多にない良い夢をずっと見ていたかったのだ。
夢心地の猫の髭を揺らしながら、秋の始まりを告げる涼しげな風が空から吹いてくる。
猫の正面に広がる花壇の色とりどりの花々が、風に煽られ踊り出す。
恋人を求めて胞子を飛ばし、自分だけの匂いを放つ花達。それぞれの自己主張で、辺りに甘い
花粉の一つが猫の鼻の中を擽る。猫は自分の夢が更に鮮明になるようで、嬉しくて尻尾をくるりと回した。
風が強くなってきた。
流石の猫も夢から覚める。
折角の夢を台無しにしてくれたのは一体どこのどいつだろう。そんなことを思っているのか、猫は晴天の空を見上げた。
巨大な機械の塊が、空から降りてきていた。
人間が神霊と呼ぶ機械人形。花壇の隣、芝生の上に着陸する。
腹の球体から穴を開けて、中から少年が一人出てくる。
猫は少年に向けてクンと鼻を鳴らす。
いつもこの場所で毛繕いをしてくれる人間と同じ匂いが少年から香ってきた。
猫は夢が現実になったようで嬉しくなって尻尾を立て甘えた声で鳴いた。
ホシノはゴードン技師店の敷地に入るなり、猫の鳴き声を聞いた。
辺りを見ると花壇の方から、猫が一匹ホシノの方に寄ってきて足首に体を擦り付けてきた。
猫の毛色と顔つきに見覚えがあった。ゴードン技師店に時々やってくる野良猫だ。
前の世界とこの世界は違う。だからこの猫もホシノのことを覚えているわけではなく、誰かと勘違いをして甘えているのだろう。
そうとは分かっていても、まるで帰宅を待ちわびられていたかのような歓迎ぶりに、ホシノはたまらず笑みを零す。
猫の頭を軽く撫でて、玄関の前に立つ。
当然鍵は掛かっており、ドアノブを引いても扉は開かない。試しに念を飛ばしてみる。錠が外れる音がして、扉が自動的に開いた。
ホシノは眉を顰める。この世界には自分は存在しないはずだ。けれども自分の想念に反応し錠が開いた。これは一体どういうことだろう。
『どうして開いたの?』
アトリアが言った。だいたいの事情を説明したアトリアも、不思議そうに唸っている。
ホシノはスピカに尋ねてみる。スピカでさえ不思議な顔をして首を振るう。
疑問に思いながらも家の中に入る。
機械油の匂いが、扉を開けた瞬間に香ってくる。
帰ってきた。ホシノは匂いを嗅いでそう思った。
開けた扉の隙間から見えたのは、脱ぎ散らかった何足もの革靴。物を捨てるのが嫌いなゴードンが、底が破れても玄関に置いたままにしている靴達だ。
ドアを開ける度に玄関に光が差し込み、影に隠れていたがらくた達の姿を確かにする。廊下の幅の半分を埋め尽くすがらくたの一つ一つをホシノは覚えていた。
一世紀前の家庭用コンピューターや掃除機。場所を取るだけの自動衣類たたみ機や壊れた冷蔵庫。捨てても困らない代物だが、全部にゴードンとの思い出が宿っている。
例え二度目の世界でも、間違いなくこの世界はホシノの記憶していた世界。世界崩壊と共に失ったと思っていた思い出。ホシノは家の玄関を見て、嬉しくて目が潤んだ。
『誰も居ない』
スピカが言った。
ホシノは腕で目を擦って、改めて玄関を見る。
確かに家の中に人の気配は感じない。ホシノの存在に気がついて、誰かが中から鍵を開けた訳ではないようだ。
床や棚にはうっすらと埃が積もっている。そう長い間ではないが、しばらく放置されていたのが見ただけで分かる。
スピカの計算によれば、今日は九月十一日。世界が崩壊したあの日から、二日が経った日曜日。
養父が亡くなってから半年。ここはずっと廃墟となっていたのかもしれない。ホシノは埃の積もり具合を見て察すると、工房へと向かう。
油臭い匂いのする工房の中央に、見慣れた糸編み機が置いてあった。中途半端に整備されたまま放置されている編み機を見て、ホシノはアトリアと出会う前の朝のことを思い出した。
あの日の朝整備した編み機が、この世界では整備されないまま残されている。
やはりここは元居た世界とは違う、言わば二度目の世界なのだ。改めて思いながらホシノは工房の窓を開け、家の正面に駐めたゼーベリオンを見る。
モイラを倒してから一度多世界に転移したが、ダリウスの別荘で再び呼び出してからというもの遷移確率は上昇せず、ゼーベリオンはずっと存在し続けている。
存在し続けるのはゼーベリオンだけではない。ホシノは振り返りスピカを見る。
スピカは工房にあった端末を起動させて、空中にリバーシの盤の
『アトリア勝負!』
机の上に置いてある
指を指された
『いきなり何よ。……でもまぁ良いわ、わたし結構強いのよ』
『勝った方は、ソウガの童貞を奪って良い権利を与えられる』
『どっ、童貞っていきなりなによ!?』
『知らないの? アトリアは無知。勝負は決した』
スピカは端末に干渉して、盤に黒駒を置く。
アトリアの焦りに反応してか、
『知らないんじゃなくて、何の話をしてるのかってこと!』
『知っているの? アトリアは保険体育に興味津々。これ、記録しておく』
『ち、違う! そういうのやめてよ。だ、第一ソウガ君は、どうて…い……じゃないかもしれないでしょ!』
『はっ!? その可能性は考慮してなかった。ソウガ童貞じゃないの?』
スピカがこちらを向く。心なしかアトリアの視線も感じた。
ホシノは返事に詰まる。
自分は確かに童貞である。しかし性的経験がないとアトリアの前で説明するのも、なんだか気が引ける。そもそも正直に応えても、話がこじれる気がしてならない。
『いやぁ、あの……あははは』
ホシノは苦笑いを浮かべながら必死にはぐらかそうとした。
獲物を逃さない肉食獣のような鋭い視線をスピカが向けてくる。ホシノは追い詰められた草食動物の気持ちが痛いほどよく分かった。
『隙あり』
アトリアが盤に白駒を置く。既存の白駒と挟んで黒駒をひっくり返す。
スピカは眉を潜めてアトリアを睨む。
『卑怯』
『よそ見をするのが悪いのよ』
スピカは鼻を鳴らしてリバーシに向き直る。
――気がそれたか。
ホシノはほっと胸を撫で下ろした。
空中に表示されたリバーシ盤では、白駒と黒駒の熾烈な勢力争いが起きていた。白駒がひっくり返れば次の手で黒駒が反撃し、黒駒が角を取れば負けじと白駒が反対側の角を取る。
二つの駒は干渉し合うようにして盤面を埋め尽くす。
ホシノは二人のリバーシの行く末を気にしながらも、編み機の整備に取り掛かる。
編み機の盤に油を差し、レンチやドライバーでネジを締める。
背中から聞こえてくる二人の声。牽制し合うものではあるが、声音は聞いて心地が良いくらいに仲が良さそうだ。
ホシノは耳障りの良い二人の声に耳を傾けながら、編み機を駆動させる。
――ギッコンバッタン。
子気味良いリズムが、工房の中で飛び交う二つの声と重なり合い、一つの歌のような滑らかさで辺りに鳴り響く。
音に乗せて、風がカーテンを揺らす。昼下がりの長閑な光が、部屋の影をゆらゆらと揺らす。
ホシノはしばらくその心地の良い歌に耳を傾けながら、瞼を閉じた。
『きゃ!』
滑らかな歌に異質な悲鳴が鳴り響く。
アトリアの悲鳴。ホシノは瞼を開けて机の方を見る。
「アトリア!」
『ソウガ君!』
声は届いた。しかし肝心の手は後少しで届く距離で届かなかった。指先を掠めるようにして飛んでいった
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