第十四幕 朝と雪とヘリと別れ
瞼を開けると丸太が並んだ天井が見える。
上体を起こせばアトリアがベッドの上で腕を回し、その腕に
ホシノはアトリアの肩に上布団を掛けてベッドから降りる。
昨晩起動させた遮光フィルムをオフにして窓の外を覗く。
空は明るく、そして灰色の雲からしんしんと雪が降っていた。
「こんな季節に雪か……」
ホシノは独り言ちる。
九月のブリターニャ島は季節でいえば初秋だ。これから冬に向けて温度は低くなっていくだろうが、雪が降る季節ではない。
『因果干渉の影響かもしれない』
スピカが隣に現れてボソリと言った。
『因果干渉って?』
『世界を修正すること。
『デジャブなら、最近頻繁に感じるようになったよ』
『モイラも焦っているんだと思う』
背中からアトリアの小さな呻き声が聞こえた。寝ながらに朝の光を眩しく感じたのだろう眉を潜めている。
ホシノは遮光フィルムを入れ直して部屋を出る。
朝飯の支度を始めようとリビングに続く廊下を歩く。九月の森、しかも雪が降っているので廊下は肌寒い。ホシノは急な尿意を覚えて、朝食を作る前に用を足そうと廊下を右に曲がってトイレに入った。
ズボンをずらしパンツに手を掛けて、さて楽になろうかという時、視線を感じる。
スピカが便座に座りホシノのパンツを凝視していた。
『スピカ、そこにいると用を足せないんだけど』
『気にしないで。私には実体がない。ソウガは普通に済ませればいい』
『そういう事じゃなくて、僕が嫌なんだよ』
『……嫌ならやらない』
スピカは残念そうにホシノの後ろに回る。
『出来れば外に出て欲しいんだけど』
スピカは渋々という顔でトイレのドアをすり抜けて視界から消える。
『スピカはもう少し羞らいを持つべきだと思う』
ドア越しにホシノは念話を送る。
『貞淑という意味の羞らいなら、宗教的戒律からくる背徳感に他ならない。私はソウガの為に作られたAI。だから羞らいなんて必要ない』
スピカの声が頭の中に聞こえる。
『だからって女の子が男の人の、その、覗いちゃダメだよ……』
『安心して、他の男には興味はない。ソウガにしか興味はない。でもソウガがあの女の様に自縄自縛する反応するのが好みなら、これからそうする。不本意だけど……』
スピカはどこか寂しそうな様子で言葉尻を濁した。
ホシノは頬が熱くなるのを感じた。突拍子のない行動や台詞が目立つが、全て彼女なりにホシノの事を思ってやっている事だ。AIだから設定された通り自分に尽くしてくれているのだとは分かってはいても、こんな可愛らしい娘に自分にしか興味がないと言われるのは理屈抜きで正直嬉しい。
困惑はするが、一人を大切に思うことは貞淑としては間違ってないし、何より彼女なりの好意の表し方を否定できるほど自分が優れた人間であるとホシノには思えなかった。
それに彼女がAIであるからこそ、ホシノはスピカの気持ちがわかる気がする。誰かに必要とされたい、役に立ちたいという気持ちは自分と似ている。ふとスピカに、まだお礼を言ってないことに気が付く。
トイレから出ると、扉の前で俯きながら立つスピカに向かって言う。
『スピカ、お礼が遅くなってごめんね。昨日は助けてくれてありがとう。けどあんまり驚かせないで欲しいかな。僕は、そういうのに耐性ないから……』
スピカは顔を上げた。熱を帯びた瞳でホシノを見詰め、ギュッと抱きつく。
スピカの細く柔らかい腕の感触がホシノの体を優しく締め付ける。
『了解。これからは驚かせない様にする』
『それ、分かってるのかな』
ホシノは少し不安に思いながら、しばらくスピカに抱かれていた。
コテージの窓が音を立て揺れ始める。
空気を叩く爆音がコテージを押し潰す勢いで上から聞こえてきた。
遮光フィルムをオフにして外を見ると、コテージ周辺の
ロープを伝い、吹雪の中から軍人達が滑り降りて来る。
「もうバレたのかっ!」
ホシノは音を慌てて廊下を走り寝室に駆け込んだ。
「なに?」
アトリアが眠たそうに目を擦りながら顔を上げる。
「フレッド達が来た」
「もう!?」
アトリアが立ち上がるに任せて上布団から出ると、ホシノの隣に駆けてくる。
ホシノは袖に小さな圧を感じた。アトリアを細い指先がホシノの袖を掴んでいた。
「行こう」
ホシノはアトリアの前腕を掴み、リビングの方へ歩き出す。前腕の柔らかな感触が昨晩決めた決意と合わさり、腕を引く力を強く、歩幅を大きくした。
相変わらず五月蝿いプロペラの爆音の隙間を縫い、頭を勝ち割られそうな程に煩いフレッドの声が聞こえてくる。
「ソウガ=ホシノくん!安心してくれたまえ、我々は君達に危害を加えるつもりはない!」
マイク使っているのだろう大音量の声が、体に伸し掛かる様に聞こえてくる。
玄関のドアから外へ逃げ出そうと思ったが、既に扉の前には人の気配がある。ばかりか「爆薬は使うな」「合図を待て」と軍人達の声が壁越しに聞こえる。
ホシノは引き返してリビングに向かう。
頭の上からまたもやフレッドの声が伸し掛ってくる。
「ホシノくん、僕は運命値ゼロの君が欲しいんだ!」
ホシノは思わず足を止めた。無意識に肩が震える。
アトリアに自分の運命値がバレた。隠していたつもりはなかったが、知られたくはなかった。
焦りが体温を上昇させ、頬を伝う汗を温める。
アトリアは今どんな顔をしているだろう。哀れみや侮蔑の目をしているのだろうか。それとも司教のように冷たい眼差しで見詰めているのかもしれない。
分からない。確かめたい。そうは思うものの怖くて首を動かす事が出来ない。
アトリアの顔を確認するだけの単純な仕草が、途轍もなく勇気のいる事のようにホシノには思えた。
「もし君が来てくれるなら、アトリアは見逃そう。返答は兵士達にしてくれ。良い返事を待っている」
リビングの方から窓が割れる音が鳴る。背後からドアが蹴破られる音もした。
音が聞こえた瞬間に、更に鮮明に聞こえるようになったプロペラの爆音に乗って、冷たい風がホシノの体を吹き抜けた。遅れて雪の一片が真横を通り過ぎる。
無数の軍靴の足音やプロペラの爆音で頭がはち切れそうになりながら、ホシノは昨晩決意したことを思い出す。
何があってもアトリアを守る。ホシノはアトリアの手を離し、ぎゅっと拳を握る。
『いかないで、行っては駄目よ!』
アトリアが念話を飛ばしてきた。
ホシノはゆっくり首を回し、肩越しに後ろを見る。
不安気な顔のアトリアが見えた。頬には水が伝った跡のある。水の跡は雪が溶けた跡だったが、そうとは知らないホシノには涙の跡のように見えた。
向き直ると軍人達がホシノの視界に入っていた。
一歩前に進み両手を上げる。
軍人達は素早くホシノの両手を拘束し、無理やり腕を引っ張り前へと歩かせる。
振り向くとアトリアが廊下からやってきた軍人達に羽交い締めにされているとこるが見えた。
やがて視界の端から布切れのようなものが現れたと思えば、ホシノは急な眠気に襲われて意識を落とした。
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