第二幕 教会と運命値と夜の始まり
「ジョンソンさん……」
アトリアが男の名を呼ぶ。
ジョンソンと呼ばれた男は、顎を引いて応える。
アトリアは続けた。
「一体何の用ですか? 私はもう貴方達とは何の関わりがないはずです」
ジョンソンは懐から封筒を取り出してアトリアに突き出す。
「どうせフレッドから……ですよね」
ジョンソンが頷いたのを確かめてから、アトリアは自転車を脇道に寝かせ封筒を受け取った。そして受け取った封筒を掴み直して二つに破り、その二つを重ねて何度も破り、細かくなった紙切れを地面に撒いた。
ホシノはその様子を少し離れた位置から見ていた。アトリアが封筒を破った時にジョンソンが、口を薄く開いて笑ったのが見えた。そのあと背広のポケットから煙草を取り出して、破り終えるまでずっと煙草を吸っていた。千切れた封筒が空に舞う頃には吸い殻を足下に捨て、革靴で踏んで土の中に埋めていた。
「確かに、封筒は受け取りました」
アトリアは両手を叩いて、手についた紙切れを払いながら言った。
「俺は封筒を渡すように頼まれただけだ。中身まで読ませろとは言われていない。ただ……」
「何ですか?」
ジョンソンは並木道の先を歩き始めた。四歩進むと立ち止まり振り返る。
「フレッドは早急に研究成果をあげたい、退っ引きならない事情が出来たらしい。強引な手を使ってくるだろう」
「強引な手?」
「言う義理はない」
「そうですか、分かりました。ご忠告ありがとうございます」
「礼はいらない。俺もその強引な手に加わるかもしれないからな」
ジョンソンはそう言って、道の向こうへ去って行った。
「あの人は?」
ホシノはアトリアに尋ねた。
「傭兵よ。今は運命値研究所で、警備や調査の仕事をしている」
「あぁ、運命値か……」
ホシノは運命値と聞いて、頭の中に嫌なイメージが浮ぶ。
「ソウガ君、どうしたの?」
俯くホシノを下から見上げるようにしてアトリアが尋ねた。
「あぁ、ゴメンちょっとね」
ホシノは作り笑いを浮かべ、重い空気にならないように続けて問い掛ける。
「運命値研究所が、アトリアとどういう関係があるの?」
アトリアは頭の痛そうな顔をして、ホシノに背中を向ける。
「実はあんまり言いたくないんだ、ごめんね」
アトリアは拳を強く握っていた。ホシノの位置からでは顔は伺えないが、何かに怒っているのだと察する事は出来る。
アトリアが視線に気がついたのか、振り向いて微笑む。そして苛立ちを空に逃がすような素振りで顔を上げる。
ホシノも釣られて、空を見上げた。
梛木の葉が一枚、空から舞い落ちて肩に乗った。
「入学準備しないといけないから、先に帰るね。明日、広場で」
アトリアはそう言うと、倒していた自転車を起こして、サドルに跨がりペダルを漕いだ。
ホシノは遠ざかるアトリアの背中をしばらく見つめ、肩に乗ったままの梛木の葉を手に取る。
東洋では神木とも称される木の葉の裏側には、何本もの真っ直ぐな脈が分岐することなく葉の根元から葉先まで伸びていた。
ホシノは再び空を見上げる。
日の光が途絶え、空は闇に包まれ始めていた。
◇
教会の粛々とした空気の中で、人の視線に射抜かれる。
痛い――と、アトリアは思う。
注射針を刺されて血を抜き取られる感覚は何度やっても全く慣れない。しかも入学前準備が終わって暇を持て余している学生や教師やらに、血を抜かれてる所を期待の眼差しで見つめるのだ。気分が良いものでは無い。
昨日の教科書販売からずっと色んな生徒に追い掛け回されている気がする。アトリアは糸車の前に座りながら、横目で教会堂の中を見る。
円錐状に建てられた教会堂の壁や柱には壮大なレリーフが彫られ、床や天井には神話のワンシーンが重厚な筆使いで描かれている。教会堂の内部を外縁と内縁の二つの空間に分ける様にして柱が円状に並び、内縁は顎を上げなければ天井が見えない程に高い。
教会堂の中央には象徴である紡錘をモチーフにした彫刻が置かれ、彫刻を取り囲んで座席が並ぶ様は天井から見下ろせば車輪の形になるように配置されている。
――ラケシス教ソードブリッジ聖教会。世界人口の三割が入信する、最も一般的な宗教の施設だ。
この場所は神聖な場所である。それなのに何とまぁ野次馬が多いこと。アトリアは密かに溜息を吐く。
自分の割振りの番を待つ者や既に割振りは終わっているのに興味本位で残っている者、皆一様に珍獣ショーでも見に来たかの様な顔をしている。
これから彼、彼女らと学友としてやっていかなければならないかと考えて、アトリアは頭痛すら感じた。
割り振りが終わる。ワッと声が上がる。
アトリアは糸車の上にホログラムで表示された数字に目をやった。
11.45367528642581……。
九から十までの数字しか割振られない筈が、あり得ない数値が表示されている。
「前回よりも更に数値が上がっています。一重に努力の賜物でしょう」
司祭の言葉に、教会の中にいた野次馬達が一斉に色めき立つ。
「すげぇ、すげぇよな!十一って丸ごと世界を変革出来るレベルだぜ!」
「あんな高いのにまだ成長してるなんて凄いわ」
「信徒の鏡ね。我々も彼女の様に努力しなければ」
「我がトリニティに彼女が来れた事を誇りに思う」
「そうね、神に感謝しなきゃ」
教会内の司祭や生徒、教師が尊敬と羨望の眼差しでアトリアを見る。
アトリアはどうしようもなく恥ずかしくなって、自分の制服が入った紙袋を手に掴み立ち上がる。
丁度隣で割振りを受けていた生徒の数値が表示された。平凡な数値だったが、生徒は拳を握りしめ「前よりも小数点第十位が二も上がってる!」と静かに喜びの声を漏らした。
アトリアは口にして出しては嫌味に聞こえるだろうと思い、心の中でひっそりと生徒に謝辞を送る。
小数点第十位が二も上がるなんて凄い事だ。何処かの小さな町一つを変えられる程の影響力がある。きっと入学する為に必死に受験勉強をし、努力が合格という結果以上の成果を彼に与えたのだろう。それなのに私は、大した変化がない。努力の賜物という言葉は彼にこそ送れるべきだ。
アトリアは野次馬達の歓声を礼儀的に返しながら、礼拝堂を後にする。
見上げれば空は曇り。血のつながりはないものの、姉と慕っていたルーチェが行方不明になった日も曇り空だったと思い出す。あの日アトロポス遺跡でルーチェは事故に巻き込まれ行方不明になり、代わりに自分の運命値は劇的に跳ね上がった。理由は分からない。だが自分の努力の成果だとはアトリアには到底思えなかった。
何かの間違いか、偶然の産物だ。例え自分の運命値が十一を超えていてもルーチェの死体すら見つからないし、幼い頃に亡くなった母は生き返らない。運命値に価値などあるものか。運命値は所詮数値だ。アトリアはそう強く思う。
けれど同時に、自分には運命値以外に取り立てて優れたことがないようにも思う。勉強もスポーツもそつなく熟せるが、突出しているわけではない。自分が価値がないと断じた数字以外に、自分には価値がないのだ。そう思うとアトリアは気が重くなる。
気分を紛らわそうと、首筋に手をやる。しかしある筈の首飾りの感触がない。
「まさか落としたの?」
アトリアは青い顔をして、すぐ様引き返した。
◇
曇り空には似合わない晴れ晴れとした声が学園広場に木霊する。
在校生よる新入生の勧誘合戦。少しでも早く優良物件を抑えておこうする意気込みと邪念が、熱気となって広場の湿度を上げる。
清掃のバイトを終えたホシノも、蒸し暑さから逃げるように広場から外れたベンチに腰掛けてアトリアを待っていた。
それでも流れてくる熱気に堪らす手で風を仰ぎ、顔を冷ます。
空にはどんよりとしたまだら雲。今にも雨が降りそうだ。頭上に浮かぶ雲はまだ薄い方で、西の方は黒々とした雲に厚く覆われている。
このまだら雲が学生達の熱気を閉じ込めているのかと思うと、憎しみさえ湧いてくる。
暑苦しい学生達の声に混ざって、涼やかな声がする。
ホシノを呼ぶ声だ。声がした方を見ると、アトリアが制服の入った袋を手に握って駆け寄って来ていた。
「遅れてごめんなさい。ちょっと捜し物をしてて」
アトリアは膝に手を付いて息を整える。
「大事な物?」
「ええ。慕っていたお姉さんが付けいてたのと似ていたから大事にしてたんだけど、割振りをした後には無くなっていたの」
「どこに落としたのか、心当たりはないの?」
「制服の試着をした時に無くしたのかと思って、講堂の中を探したんだけど見つからなかった。学校の事務所にも寄って聞いてみたんだけど、届けられていなかったみたい。本当は事務員さんにも探すのを手伝って貰おうと思ったんだけど、みんな忙しそうだったし、雰囲気もピリピリしてたから頼めなくて……」
「朝、何処かに寄った記憶は?」
アトリアは斜め上を向いて、記憶を探るような顔をした。
「……そういえば今朝、お父様の研究室に寄ったわ。お父様は居なかったから直ぐに出て行ったんだけど、もしかするとその時に落としたのかしら」
「部屋に首飾りが落ちていなかったか、ダリウスさんに聞いてみた?」
「それがお父様ったら、朝から連絡が付かないのよ」
それを聞いたホシノは、僅かな違和感を覚えた。念話は頭の中で会話できるので、マナーが必要な場所でも利用できる。また近くにある別の星屑を伝って通信する事が出来るので、地下鉄などの電波の通らない場所でも繋がるはずだった。
「念話で連絡が付かないとなると会議かなぁ。取りあえずダリウスさんの研究室に行ってみよう。もしかするともう見つけて、分かりやすい場所に置いてくれているかもしれない」
「でもお昼は?」
「学部長室でダリウスさんと食べよう。量も沢山作ってあるし、ここは雨が降りそうだからね」
ホシノは真上の空模様を伺う。
空は灰色の雲が漂い始めていた。広場の遠くの方では既に雨が降っているのが見える。
「ちゅめたい」
隣のアトリアがおでこを擦っていた。
ホシノと目が合うと、恥ずかしそうに背中を向けた。
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