序章 眠れ卵を抱いて
開幕 白鳥と少女と一本背負い
白鳥の瞳には入道雲の浮かぶ、青空が映り込んでいた。白花色の優雅な羽が、青空の中で際立って見える。
ソードブリッジのあるブリターニャ島は、北半球にありながら海流の影響で年中暖かな気候が続く。
白鳥にとっても過ごしやすい土地で、雪国から渡って来たものが居着くようになったのだ。
温暖な気候を好むのは人間も同じで、バイトを終えたホシノも温かな陽射しに心地よさを感じていた。
石造りの荘厳な校舎を背にして、芝生が敷かれた広場を歩く。広場では数人の学生達が、三十代半ばの教師と、友達と談笑を楽しむように会話している。
ここはソードブリッジ学園。学寮カレツジ制を採用する全寮制の学校だ。
生徒は同じ学寮に在籍する教師と一緒に共同生活を送り、同じ校舎で学ぶ。
好奇心に満ちた声に混じり、小川のせせらぎが聞こえてくる。広場には緩やかな小川が流れていて、水面には白鳥達が泳いでいる。
空を飛んでいた白鳥も滑空して小川に着水し、群れの中に加わる。
ホシノは水面を眺めながら、小川に架かる石橋の上を歩いていた。
日光が水面に眩いばかりの粉を塗し、じっと見詰めていると軽く眩暈を起こしそうになる。瞼を閉じて、一度落ち着く。
トリニティの広場、石橋の上――。寸刻前の情景を思い浮かべながら瞼を開ける。
耳には小川のせせらぎと生徒達の活き活きとした声。声は小川の脇、砂利の近くから聞こえてくる。グァグァと煩わしい鳴き声を上げている家鴨が、小川の水面で群れを成していた。
ホシノはその光景を見て違和感を覚えた。教師に質問していた生徒達は、芝生の上に居たはずだ。水面を泳いでいた鳥は、確か白鳥だったはず。
不思議に思って首を傾げていると、石橋の向こうから騒がしい声が聞こえてきた。
男子生徒の上ずった声と女子生徒の落ち着きのない声。二種類の声が群れを成して、反対側の橋台から近付いてくる。学生達は一応に、私服を着た少女を囲って歩いている。
その少女は、歩き方一つとっても異彩を放っていた。
すらりとした長い足を淑やかに運び、背筋をピンと伸ばして真っ直ぐ前を見る様は威風堂々としている。容姿も、周りにいる女子生徒が霞むほどに見目麗しい。程よく肉付きのある滑らかな肌。背中まで伸びた金髪が、少女の整った顔を艶やかに引き立てている。まるで絵画から飛び出した聖騎士のようだ。とホシノは心の中で評した。
少女は手にトリニティの寮章が刷られた、紙袋を握っている。
電子教科書が記録された大容量カセットテープ《
ホシノと少女の間を、優雅な羽を広げた白鳥が空から滑空してきて通り過ぎる。白花色の羽根が一枚、ゆらゆらと舞い落ちてホシノの視線の先にいる少女を隠した。
羽が通り過ぎると、少女と目が合った。真夏の空を閉じ込めたような透き通った碧い瞳が、ホシノを目に留めた瞬間に爛々とした輝きを放ちながら大きく開かれる。
少女は大声で「あっ、ソウガ君!」と叫びながら、ホシノに駆け寄って来る。
ホシノは辺りを見渡しながら困惑する。あんな可愛らしい少女と知り合いになった覚えはない。そもそも同年代に友人知人がいやしない。一体誰だろうと思いを巡らせつつも、甘い期待が心を踊らせる。
「貴方、ソウガ君よね?」
ホシノの耳に心地の良い少女の声音が響き、吐息が耳たぶを撫でた。
少女は続けて囁く。
「私はダリウスの娘のアトリアよ。先輩達の勧誘から逃げるために、話を合わせてくれない?」
鼻の近くで金色の繊麗な髪が揺れ、清涼感のある髪洗剤の香りが鼻孔を擽る。その清涼な香りと心臓の鼓動が、ホシノを反射的に頷かせた。
「ありがとう――」
アトリアに引っ張られる姿勢でホシノは歩き出す。振り向くと、唖然としている学生達の姿が見えた。その中から、三人の男子学生が飛び出して追い掛けてくる。
「しつこいわねっ!」
アトリアは目を尖らせて、校舎の角を曲がって直ぐの所で立ち止まる。
胸を張って男子生徒が来るのを待つ。
女っ気より男っ気が勝る娘だとダリウスは評していたが、身内の可愛さを謙遜しているのだろうと受け取っていた。けれどどうやら間違いではないようだ。少なくとも、勝ち気な性格ではありそうだな、とホシノは思う。
駆け足で角を曲がってきた学生達が、闘志をむき出しにしたアトリアを見てつんのめった。真っ先に体勢を立て直したパーマを掛けた男子学生が、へらへらした顔で詰め寄る。
「ベルナールさん。そいつ彼氏?」
男子学生に顎で差されたホシノは、隣でアトリアが鼻を鳴らすのが聞こえた気がした。
「先輩には関係ありません」
「えーっ、教えてよー」
男子学生は、アトリアの腰に腕を伸ばす。
「――ああ、もう限界」
アトリアは溜息混じりに呟くと、学生の腕を掴み投げの姿勢に入った。
それから先は一瞬だった。
ホシノは後になって、この一連の出来事を男子学生目線になって想像してみた。
可愛いから声を掛けてみた少女が、いきなり飛び掛かってきたかと思うと、宙に浮かぶ感覚になり、自分は投げられているのだと自覚のないままに空を見つめ、知らぬ間に地面に背中を打ちつけて、するつもりもないのに蛙の泣き真似をして意識を失ったのだ。
後に止めればよかったと後悔したが、その瞬間は思わず一本と叫びたくなる絶技を目で追う事しかホシノには出来なかった。
「もう、追いかけて来ないで下さい」
アトリアが追撃するかのように、顔を青くしている残りの二人に向けて言い放つ。男子学生はお互い見て頷き合うと、地面に転がるパーマの男子学生を肩に担いで早々と退散した。
「全く、勧誘するにも限度ってもんがあるでしょう。ねぇ?」
アトリアはそう言った後、振り向いてくすりと笑う。
「えっ? ……う、うん」
険しい顔付きから一変、弛緩した笑みを向けられたホシノは動揺する。そしてゆっくりと落ち着くにつれて、思考が巡っていく。
「乙女の嗜みとして、護身術ぐらいは習得しているの」
そう言ったアトリアを見て、ホシノはなるべく怒らせまいと心に誓う。
◇
夕方四時を告げる鐘の音が、暮れ始める空に響き渡る。影を伸ばす
アトリアの自転車を見た時、ホシノはずいぶん驚かされた。
自動操縦が当たり前になり、子供でも自動車に乗れるようになった今となっては、自転車は趣味人が乗る旧世代の乗り物だ。技術屋として構造が気になり、チラチラと自転車を横目で伺う。
視線に気がついたのかアトリアが笑みをこぼす。
「ソウガ君も乗ってみる?」
「流石にお金がないよ」
数が少なくなった自転車は、今やコレクターの間で高値で取引されている。ゴードンが亡くなって、ただでさえ貯金を取り崩して生活しているホシノには、買えそうに無い代物だ。
ホシノはゴードンが亡くなった日のことを思い出しながら、夕日を見つめる。
忌日はブリターニャ島にしては肌寒い日で、元々心臓の悪かったゴードンは工場から帰宅する途中、心臓発作を起こして亡くなった。育てて貰った恩返しもできずに、ゴードンを亡くしてしまった。悔やむ気持ちがホシノの胸を苛む。
――ルルル ルルル 我が子よ眠れ 卵を抱いて―――
暮れ行く空に染みるような、美しいソプラノの歌声が聞こえた。
歌声のする方を向く。アトリアが桃色の唇を風で揺れる花弁のように動かして歌を唄っている。
アトリアが唄う穏やかな歌に、ホシノは聴き覚えがあった。母がよく唄っていた子守歌だ。聴くと悲しい気分が幾らかマシになる。そんな気がして、アトリアの歌声に耳を澄ませる。
――無理に起こせば 卵は割れて 貴方はきっと 泣くでしょう――
――だから眠れ 大に眠れ 卵が孵る その日まで――
風が頬を撫で歌がホシノの心を温めた。悲しい気持ちは払われて、美しい旋律の余韻だけが耳に残る。
「その歌、母が歌っていたものと同じだ」
ホシノが言うと、アトリアは驚いた様子で返した。
「そうなの?」
「子供の頃、母さんが歌っていた子守歌なんだ。顔も覚えていないのに、歌だけは覚えていて……。なんか、元気付けられちゃったな」
「うふふ、よく分かんないけど、元気になったなら良かったじゃない」
アトリアの微笑みが、夕日に照らされて朱に染まる。黄金の輝きに、ホシノはしばし目を奪われた。
「明日は制服を買いに学校へ行かないと駄目なのよね。必要なものは、一日で揃えられるようにして欲しいわ」
アトリアの言葉に、ホシノは我に返って返事をする。
「ソードブリッジの場合、入学式以外に、入寮式もあるからね」
「そうなのよ。転居の準備もしないといけないし……。生活必需品は用意してあるけど、新しい服だって必要だわ。取りあえず、ここ数日は慌ただしいわね」
アトリアは片手をハンドルから離して、溜息を吐きながら自分の肩を揉む。
「ダリウスさんは手伝ってくれないの?」
「全然だめね。ソウガ君も知ってるでしょ? お父様は今、私の事より金色の神霊に夢中なの」
「ああ……」
シミュレーションのため、ダリウスが連日徹夜してハダルを整備していたのをホシノは思い出した。
「ソウガ君が嘘でも良いから、もう神霊動かすの嫌ですって言ってくれたらなぁ。そしたらお父様も、娘の事を思い出してくれるのに……。そうだ! きっとお父様は傷心して茫然とするでしょうから、その隙にショップに連れて行って、籠一杯に欲しいものを詰めてレジに通すって作戦、どう?」
「目を輝かせて言われても嫌だよ。第一ダリウスさんは、そんな事で傷心しないよ」
「あら、そうかしら。中々に妙案だと思ったんだけど……」
アトリアは首を捻る。
「今日のシミュレーションは上手くいったみたいだし、流石に明日は休むんじゃないかな。明日制服を買った後、行けばいいんじゃない?」
「ソウガ君は明日仕事あるの?」
「掃除のバイトがあるけど、昼間までには終わるかな」
「なら、ソウガ君も一緒に行きましょう。きっと、お父様の気前が良くなるわ」
「遠慮しておくよ。折角の親子二人で一緒にいられるのに、僕が混じって水を差すような真似はしたくないし」
アトリアは口を尖らせる。
「ソウガ君は多分、勘違いしているのよ。お父様はソウガ君の事、自分の息子のように思ってるのよ。この所、家に帰ってくる度にソウガ君の話しばっかりだもの。洗脳されているんじゃないかと思うわ。実際そのせいで、私ったら会う前からソウガ君の事気になって……、いや、違う、深い意味はないのよ、深い意味は……」
アトリアが耳まで真っ赤にして、ホシノがいる方向とは逆側に顔を向ける。
しばらくすると向き直り、元の顔にもどって再び話し始めた。
「ソウガ君を使ってお父様に服を買ってもらおうと思ったのに……。あーあ、引っかからなかったかぁ」
「買い物には行けないけど、お弁当作ってくるよ。ダリウスさんと三人で、お昼を食べよう」
「あら、いいわね。料理が作れるなんて感心だわ。私も三日後には高校生になるから、スクランブルエッグくらい作れるようになりたいんだけど」
「スクランブルエッグ、作れないんだ……」
ホシノは苦笑いを浮かべる。
しばらく歩いているとを足元で、ぐちゅりと奇妙な音が鳴った。下を向くと丁度ホシノの真下だけ、二日前に降った雨水が残り泥濘になっていた。強く踏み込むと足が滑って転びそうで、ホシノは踏み出した足を引っ込めて迂回する。
一旦綺麗な土道に靴底を擦り付け泥を取り除く。
「そういうのって、幾ら技術が進歩してもなくならないわね」
「泥濘を無くそうとしたら、自然を無くさないといけないからね」
再び歩き始めると、並木道はまるでピアノの鍵盤のように影を伸ばしていた。その中に一つ、異質な人影が混じっている。ホシノはその影の根元に目をやる。
無精髭を生やした大柄な男が、夕焼けを背にして立っていた。男の目つきは鋭く、顔の骨格はがっしりとしている。黒革のいかしたジャケットを羽織り、その下に隆々とした筋肉が潜んでいるのだろうと推察出来るほどに体格が良い。幾つもの修羅場を潜り抜けてきた男の凄みだろう。ホシノは感じ取り、恐怖で身震いする。
横目で見たアトリアも顔を強張らせていた。
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