第六幕 裸身の少女と卵

 部屋中に土煙が舞い、ホシノは反射的に音のした方を向く。

 窓のあった壁が崩れ落ち、白い物体が壁を突き破って部屋にめり込んでいた。

 ホシノの位置からは、頂点付近しか見えないが、白い物体は卵の形をしていた。

 地上から学部長室まで、高さにして百二十メートル。もし本当に卵だとするなら、随分と大きな卵だ。


『ソウガ、早く乗って!』


 少女の声が星屑から聞こえてきた。乗る?一体何に?ホシノは少女の声に疑問を抱く。しかしこのタイミングで乗れと促すものが、卵以外に考えられない。ホシノは部屋を見渡す。

 フレッドは卵を見ながら放心状態になっていた。軍人達も口をあんぐり開けて突っ立っている。


 ――今しかない。立ち上がるに任せて走り出す。筋が何本か切れた足は、意志に反して力が入らない。踏み込んだ足が前進しようとする力に耐えきれず崩れ落ちそうになる。しかし背中の力をバネにして突き進む。腿は前のめりになった上半身の後に続いて動く。床を蹴り上げる度に体が痛みを忘れていき、駆ける速度を早めていく。


「待てっ!」


 背中から軍人の声がした。軍靴の足音が戦太鼓の如く鳴り響き、迫ってくる。音に捕まらないように更に加速する。

 ソファーの側面まで突き進むと、余力を振り絞って床を蹴り上げる。手摺りを飛び越えて、真正面のフレッドに体ごとぶつかる。


「ぐぁ!」


 肉と肉、骨と骨がぶつかり合う衝撃を肩から背中にかけて感じる。アトリアの足、ソファー、天井の順に視界は駆け巡り、再び背中に傷みを感じた時には、フレッドと共に床に転がっていた。

 ホシノは素早く起き上がり、フレッドの腰からサーベルを奪う。

 抜刀した刀身をフレッドに向ける。背後から迫っていた軍靴の足音が一斉に止まる。軍人達が足を止めたのだ。


「貴様! 平民の分際で、貴族の僕に剣を向けるのかっ!」


 怒りを顕わにするフレッド。眼光を飛ばしながら、切っ先を喉元に突き立てる。

 フレッドは顔を青くして「や、やめろ、刺さないでくれ!」と懇願した。

 威嚇したままソファーの方を向く。


 目元を赤くしたアトリアが、珠のような大きな瞳を見開いて起き上がっていた。

 着ている服は無惨に千切られ下着が顕わになっている。

 頬が涙に濡れ、頭を振った拍子に入ったのであろう髪の毛を口に咥えている。

 アトリアの姿を目にしたホシノは、胸に釘が刺さったような痛みを感じた。


「もう大丈夫だから……」


 怖がらせないようにゆっくりと言い、サーベルを右手に握ったまま左手を差し出す。


「……そうがぁくん、怖かった…こわかったよぉ……」


 アトリアは顔をくしゃくしゃにして、瞳から大粒の涙を零した。

 ホシノの手をぎゅっと握り起き上がった後、何やら顔を赤くして自分の身なりを一瞥する。そして慌てた様子で、床に置いたままの紙袋を手に取った。


「立って下さい」


 ホシノの言葉にフレッドは言われた通りに立ち上がる。

 ホシノは切っ先をフレッドに向けたまま、彼の背中に周り、ゆっくりと後退する。

 崩れた落ちた壁から、雨粒が降り注ぐ。生ぬるい水滴が、肌に纏わりついた。

 後ろに下がる度に踏みしめた絨毯が吸った雨を吐き出す。びしょりびしょりとした感覚が四歩続いた後、かかとから床の感触を感じなくなった。


 目だけ向けて真下を見下ろす。

 乗れと促すように卵の一部に穴が空いている。恐らくあの中は部屋になっているのだろう。霧のせいで距離感が掴みにくいが、飛んで入れない距離ではない。しかしそれでも躊躇はする。


 アトリアも高さを確認して怖くなったのか、ホシノの胸に身を寄せた。

 アトリアの細い指が縋るようにして肩を這う。そのひ弱な指の感触にホシノは決心を固めた。

 後ろを向き、サーベルをその場に投げ捨る。


「今だ捕まえろ!」


 背中からフレッドの声が飛んでくる。

 アトリアの腰に手を回し上体を落として屈伸する。「せーの」の合図で跳ね上がり跳躍しようとしたその瞬間、眩暈を感じた。ぐらぐらと世界が揺れる感覚。昨日アトリアと出会った時に、橋の上で感じた眩暈と同じだ。


『もう修正が入った。ソウガ、しっかり!』


 少女の声で我に帰る。


「今だ捕まえろ!」


 背中からフレッドの声が飛んでくる。

 ホシノは違和感を覚えながら屈伸しようとした。


 しかし、足元に床がなかった。


「ええっ!?」


 真横からアトリアの動揺した声が聞こえた。

 一体何故?ちゃんと足元に床があったはずだ。ありえないと考えている内に、ホシノは胸にアトリアの額が当たるのを感じた。アトリアの呼吸が伝わってくる。


 分からないことを考えている場合じゃない。この状況をどうにかしないと。ホシノは落下しながら思案する。卵の表面が一部ぬるりと伸びて、落下地点で手のような形に広がる。


 ホシノはその手に降着しようと決めて、空中で身を捻らせて縦に半転する。腰に回していた手をそのままに、余った手でアトリアの足を持ち上げ、体を横にして抱き抱える。

 卵の伸ばした手に尻から降着する「ぐっ!」と思わず声は出たが、軍人の蹴りよりは遙かにマシな衝撃だった。


『中に!』


 落下中は聞こえなかった雨の音が、降着と同時に激しく鳴る。雨水が頭の上から流れ落ち、睫に溜まる。顔を流れる雨水を手で払い、アトリアの背中を押す。


 卵の穴に向かって走り出した時、ヒュンとホシノの耳元で何かが通り過ぎた。

 弾丸が空気を割る音だ。理解した時には似た音が上から幾つも降ってくる。

 その内一つが目の前で、雨粒を飛沫に変えた。この雨粒がもしも自分の体ならばどうなっていたかと想像すると、体が冷えて硬くなる。


 アトリアは、先に卵の中に飛び込んでいた。

 ホシノも頭に湧いたイメージをその場に置いていくつもりで、卵の中に飛び込んだ。


 真っ白の床に、四つん這いになって倒れる。

 雨粒が口の中へ染み込む。塩の味がする。汗だ。恐怖で汗が湧いたのだ。恐怖でまだ腕が震えている。耳の中では弾丸が掠めた音が残響している。死ぬと思った。死ぬかもしれなかった。荒い呼吸を繰り返して、恐怖を吐き出す。自分の口から出る白い息を見ると、生きている心地がじわじわと湧いてくる。


 ホシノは立ち上がり部屋の中を見渡す。周囲はモニターで囲まれていた。中央に座席があり、座席の隣には先程の少女が立っている。

 モニターと座席以外は真っ白な空間で、目に付くものは特にない。

 ホシノは少女に尋ねる。


「この卵は神霊なの?」


 少女はこくりと頷く。


『まだ羽化していないだけで立派な神霊。ソウガ、憶えてないの?』


 そう言って少女はホシノに身を寄せる。

 学部長室にいた時は意識が朦朧もうろうとしていたので恥ずかしがっている場合ではなかったが、今となっては少女の格好が気になって仕方ない。ホシノは目のやり場に困って目を逸らす。

 隣に立つアトリアと目が合う。ホシノはしまった、と思った。


「誤解なんだ、この子はほら......」

「どうしたのソウガ君、誰かいるの?」


 アトリアは首を傾げている。


『ソウガ以外に私は見えない。私はソウガの星屑を介して液晶角膜に映されてるデータ。だから触れないけど、擬似的な感触なら脊髄から脳に伝わる。試しにおっぱい触ってみる?』


 少女が慎ましい胸を張って言った。


『触らないよ!頼むから服を着て、服を!』


 ホシノは目元を手で覆いながら、アトリアに悟られないように念話を飛ばす。


『服、どうして?人間の雄は人間の雌の体に好意を抱く。現に今のソウガは私を見て性的に興奮してる。狙い通り、完璧』

『して...るけど、しちゃ駄目なの!君は、その......そう、名前!名前はなんて言うのさ?』

『名前?名前なんてない。規格番号はFK5-498』

『じゃあ......ス、スピカ!これから君はスピカだ。ほら、名前で呼ばれたら何かこう、恥ずかしくなってきたでしょ?』


 スピカは目を大きく見開いた。そして『スピカ、スピカ......』と何度も呟く。


『やっぱり裸は効果抜群。お陰で名前をつけて貰った』

『そうじゃなくて!』

『嘘。ソウガが嫌がることはしない』


 スピカの体がルービックキューブの様なドットの塊に変わる。

 ルービックキューブが色の配置が変えて元の体型に戻った時には、スピカは黒いドレスを身に纏っていた。

 大人の雰囲気を秘めた可愛らしい黒のドレスはスピカの神秘的なイメージと良く似合い、まるで夜を纏った銀の月を思わせた。一目眼にした瞬間にホシノの鼓動が大きく高鳴る。


『顕現化に成功。短い裾にソウガもメロメロ。因みにパンツは履いてない』


 スピカのしたり顔を見て、ホシノはため息を吐く。

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