第五幕 サーベルと貞操と意地
鋭い金属音が部屋の冷気を両断する。
「僕は何度も優しく声を掛けた。だが優しく声を掛けたところで君は僕の言う事を聞かない。なら力で教えるしかないだろう」
サーベルの刀身が、非常灯の明かりを受けて鋭利な輝きを放つ。
アトリアはその威光に穿たれたのか、体を震わせた。
ホシノも鋭い切っ先を見て身の竦むのを感じた。背中から嫌な汗が湧き、足が震える。今にも抜けそうな腰を何とか支え、ほぼ反射的に飛び出して、アトリアの前に立つ。
フレッドの憤怒を真正面から浴びる。サーベルの切っ先が鼻頭へ迫り額から汗が湧き上がる。水滴の感触が、鼻筋を伝って鼻頭へと流れる。汗はサーベルの切っ先に集まり、やがて絨毯の上に落ちた。
「どきたまえ」
「どきません!」
ホシノは震える喉を首の筋肉で縛り上げ、ぶらすことなく言い切った。
フレッドは、充血した目でホシノを睨む。
アトリアを刺しては元も子もないと分かってはいるようで、サーベルの柄を強く握り締め、刀身を鞘に戻した。
――どすん。重たい音がホシノの右頬から直に内耳に伝わって来た。
「くふっ!」
振動が、音に遅れて顔全体に激痛を運ぶ。頬に食い込む拳の一部を辛うじて目で捉えた。その拳がフレッドの左拳であると分かった時には、ホシノは殴られた衝撃で左に側倒していた。
キーンという耳鳴りが頭の中で響く。痛みは一瞬だった。だが痛みの後は、頬が焼けるように熱くなった。床、天井、床――。頭の中身まで揺さぶられたのか、視界がはっきりしない。ただ自分が、床の上でのたうち回っているのだけは分かる。
足音が駈け寄ってくる。何かが熱を奪いながら頬を撫でる。視線をやると細い指がホシノの頬を撫でていた。その奥にアトリアの心配そうな顔がある。
「たかが技術屋の息子が、この僕の邪魔をするなっ!!」
フレッドが叫んだ。叫んだ時に飛んだ唾が、ホシノの腹に掛かった。
アトリアが怒気の籠もった眼光をフレッドに飛す。
「なんだその目はっ! 町娘のくせにのぼせ上がるな!!」
フレッドは喚きながらアトリアの手を掴む。
「何するのよ! 離しなさいよ!」
「うるさい黙れ!!」
強引に部屋の隅まで引っ張り、ソファーの上に押し倒す。仰向けに倒れたアトリアに、フレッドがのし掛かる。アトリアは逃げだそうと身を捩るがフレッドの硬く引き締まった腿が、体躯を押さえ付けた。
「離しなさいよ!」
アトリアが激しく頭を振る。暴れても、華奢な身体からは大した力も生まれずにフレッドの力によって軽くあしらわれた。
「くっ」
ホシノは床を這って進む。視界は今だ鮮明とは言えない。けれどソファーを揺らす音が、腹からマグマの如き熱を湧き上がらせる。
フレッドはアトリアの両腕を右手一本で掴み、身動きを封じた。そして残った左手でズボンのベルトを外し、息を荒げる。
アトリアは背中を反り返らせて金切り声を上げた。両手両足が抑えられ、叫ぶことしかできないのだ。その声もベルトを外し終わったフレッドの左手によって両頬を圧指され、うめき声に変えられてしまう。
「まだ、そんな目をしているのか?」
フレッドが言う。
恐らくは、アトリアが外敵を見つけた獣のような目で、フレッドを威嚇しているのだろう。フレッドは口を歪めアトリアの髪の匂いを嗅ぐ。匂いを嗅いだ所から、上書きするかのように自分の吐息を吹きかける。
アトリアの耳元で、フレッドが何か呟いた。息が掛かるほどの距離だ。
「ううっ……」
アトリアが身を捩り、フレッドから目を逸らす。その瞼には涙が溜まっている。
男子生徒を投げ飛ばした時も、フレッドに食って掛かった時も、強い覇気を放っち真っ直ぐに相手を見据えていた彼女が、目を逸らした。一生かけても癒えない傷を負わされるのだと分かっていても、逃げる見込みはないと悟ったのだ。
ホシノは腹が立った。殴なれて倒れているだけの自分に。助かる見込みがないと大事な人に悟らせてしまった己の非力さに、腑が煮え繰り返る程の怒りが湧いてくる。
怒りをそのままに、腕と足の力に変えて立ち上がる。
「やめろ!!」
フレッドが冷めた顔でホシノの方を見た。視線はホシノを通り越した壁に向けられている。
「殺せ」
背後で、足音が一斉に鳴る。床を叩くような足音がホシノに迫ってくる。軍人達が履いていたブーツの音だ。振り返り、背後を確認する。
死んだ魚のような目をした男が銃身を握り、小銃を振り上げた姿勢でホシノを見下ろしている。軍人は、躊躇なく小銃を振り下ろす。銃底が背中を抉る。
「ぐぁっ!」
骨まで届くほどの激痛。痛みで、膝に力が入らなくなり、ホシノは再び床に倒れた。
肉を穿つ衝撃が何度も続く。腿を蹴られ、悶絶している間に軍靴が脇腹を衝く。内臓まで届くほどの衝撃。度重なる激痛に感覚が麻痺して、意識が薄れ始める。
ぼやけていく視界の奥の方で、啜り泣く声と布が引きちぎられる音が聞こえる。
助け、ないと……。意識の淵から、微かな意志が沸き上がってくる。
僅かではあったが、くつくつと意識を奮い起こす。やがてぼやける視界をぬぐい、煮立った意識の中で熱い意志を生成する。熱機関がエネルギーを生み出す原理と似たような方法で活力を得ると、ホシノはかっと目を開く。
不思議と部屋は静まり返っていた。
アトリアの叫び声も、全身を打っていた殴打や蹴りの衝撃すら止んでいる。
右頬には絨毯の毛の感触。柔らかい綿糸が頬を擽っている。意識が朦朧としていた間に、横に倒れていたらしい。
正面に緑色の光が見える。
ゴードンの背中や母の子守歌のような、どこか懐かしい光だ。まるで呼んでいるかのように光度を上げ下げしている。
光が気になり、光の方向に目を凝らす。
事務机の下に、石のような何かが緑色の光を放ちながら転がっていた。
石はどうやら翡翠のようで、意匠の施された銀細工の枠の中に嵌め込んである。浮き上がるようにして彫られた繊細な模様から、作り手の器用さとこだわりが窺える。銀細工を彫った経験のあるホシノは、相当腕の立つ細工師が彫ったのだろうと見ただけで分かった。
銀細工は首飾りになっているようで、アトリアが落とした首飾りに間違いないだろうとホシノは思う。
『やっと見つけた』
安堵した瞬間、静寂を割るような凜とした声が星屑から伝わってきた。
一瞬、ホシノは自分の言葉かと思った。念話など飛ばした記憶はなかったので、誰かが自分に送ってきた念話なのだと直ぐに考え直す。
首飾りとホシノの間に、ふわりと誰かが舞い降りた。
ホシノの視界に映るのは、小さな可愛らしい素足。舞い降りてきた人物こそ、先ほどの念話の送り主なのだろう。ホシノは倒れた姿勢のまま、顔を確認しようと目線だけを上げる。
すらりとした
ホシノはぼやけた意識の中で出来るだけ見ないようにして、更に視線を上げる。
ぽてりとしたお腹にすっと伸びる
そしてようやく顔に行きつく。
そこには美少女がいた。およそ人間とは思えぬ程の神秘的な美少女だ。
切れ長の大きな目に、つつじ色の瞳。軟らかそうな頬と対照的な尖った顎。
細い眉と合わさって、愛らしい顔つきの中に凜とした美しさを兼ね備えている。
何より目を奪われるのは、銀色の長い髪だ。緩くウェーブの掛かった銀髪が腰まで伸び、小柄な少女を霊妙な印象に彩っている。
この子はきっと天使か何かで、これから自分を天国へ連れて行くのかもしれない。ホシノは薄っすらそう思う。
少女の薄紅色の小さな唇を開いた。
『ずっと探していた。ソウガ、この子の名前、決めて』
機械的に言葉を紡ぎ、ダリウスの机の方に目を送る少女。
視線に釣られて机の下にある翡翠に目がいった。
いつの間にか翡翠の中には、アルファベットが浮かび上がっていた。
目に付いたアルファベットを頭の中で並び替え、一つの言葉を生み出す。
「ZEBERION?」
言葉を放つと同時に、轟音が鳴り響いた。
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