第三十三幕 二つの風と新たな旋風

 家の外に出た頃には、天核ヌーメノンは目を凝らしてようやく分かる所まで飛んでいた。

 今ゼーベリオンに乗り込んでも、見失うだけだ。ホシノは天核ヌーメノンが飛んでいく方向をしかと目に焼き付けた。


『まだ勝負終わってない』


 スピカが隣で呟いた。眉をつり上げた、スピカにしては怒りの表情をしている。

 辛うじて見える天核ヌーメノンが、南東の方角ウェントンの町の辺りで高度を下げたように見える。ゼーベリオンに乗って今すぐに向かいたい所ではあるが、流石に町の上を神霊で飛び回って探すのは効率が悪い。


 ホシノは電車でウェントンに向かうことにした。駆け足で駅へと向かい、タイミング良く到着してきた列車に飛び乗る。


 車両には人一人乗っていなかったがか、居ても立っても居られないホシノはドアの前に立ちながら窓の外を睨んでいた。

 車窓から見えるのはどこまでも続く田園風景。いつもは見ているだけで落ち着く風景も、今では早く変われと焦りばかりを駆り立てる。


 ウェントンはソードブリッジ近郊の中では、比較的裕福で治安の良い町である。ゴードンの仕事の手伝いで何度か訪れたことのあるホシノには比較的慣れた土地だった。


 田園風景の中にぽつぽつと立派な屋根が見え始めたら、ウェントンの駅が近い証拠だ。ホシノは到着するまでの駅数を、指を折り確認しながら立派な屋根が現れるのを待った。


 しばらくすると田園風景の中に上品な家が幾つか見え始めた。一分ほど時間が経つと、列車は駅に到着する。


 空気が抜ける独特の音を響かせながらドアは開く。

 ホシノはドアが開くなり飛び出して、勢いそのままに駆け足で駅の改札を抜ける。


 ウェントンの町は昼下がりの陽光を浴びながら、長閑な静寂に包まれていた。

 焦り顔の人などどこを向いてもいない町。皆懐に余裕があるからか、落ち着いた顔色をしている。

 ゆっくりと流れる時間の中をホシノは駆け抜ける。

 夏も終わりに差し掛かり、涼しくなったとはいえまだ日中は暖かい。腕を大きく振れば速度は出るが、代わりに背中からドッと汗が湧いた。


 ――暑い。だが、暑いうちはまだマシだ。とホシノは思う。

 アトリアが死んだあの時、雪は痛い程に冷たかった。指先から凍り付き、心が固まるようだった。あんな思いをするくらいなら、暑さなん苦ではない。


 冷や汗が出たら終わりだ。ホシノは自分に言い聞かせながら走る。


 モイラとの戦いでもう二度と失わないと誓った。こんな形で離ればなれになるなんて、納得がいかない。いざとなれば天啓装置サブジェクトプログラムを使おうか。ホシノが頭の中で思った時、前を走るスピカが立ち止まり振り向いた。


『ソウガ、念のために言っておく。ソウガは今やこの世界の神様。ソウガの願いが、この世界に反映される。それは良いことでもあるけど、同時に危険性も秘めている』

『……危険性?』


 ホシノは走る速度を緩め、立ち止まる。


『ソウガの思い通りになる世界ではあるけれど、一人の人間の趣向で回る世界ほど理不尽なものはない。なるべく独善的にならないように意識しないといけない』


 真剣な眼差しのスピカの顔を見て、ホシノは深く頷いた。


 モイラを倒し、神の座を奪ったとはいえ、モイラと同じように自分の都合で世界を思うように動かしていては元も子もない。ホシノは心に刻み込む。


『分かった』


 言葉を聞いて、スピカの顔はいくらか弛緩する。表情の読めない顔の微々たる変化ではあったが、ホシノはスピカが安心したのだと思った。


 西の方から、子供の駆け足のような溌剌とした西風が吹いた。

 風に舞い上がった木の葉が二枚、ホシノの正面で重なり合い、一枚となって額にぺたりとくっついた。


 びゅうと鳴る風を掻き分けるようにして、小太鼓のような軽快な靴音がホシノの背中に向かってくる。

 何だろうと思っている間に、靴音がホシノの真後ろで大きく鳴ると、背中に柔らかい衝撃が走る。


『みーっけ!』


 駒鳥のような可愛らしい声が、ホシノの耳たぶを撫でた。ぞわりと産毛を逆立てながらホシノは肩越しに後ろを振り向く。振り向く拍子に額にあった木の葉がゆらりと宙を舞った。木の葉が舞う軌道に沿って、金の髪の一房がふわりと揺れる。金色の軌道を追った先に、吸い込まれそうな蒼い大きな瞳があった。


 アトリアの瞳。

 ホシノの守りたかった蒼い色。


「アトリア、体が……」


 言い終わる前にアトリアは、にへらとえくぼを作りながらホシノに抱きついた。

 柔らかい肉の感触が体全体を包み込む。ホシノの上腹の辺りに、一際柔らかい乳房の弾力が布を挟んで伝わってきた。

 ホシノの鼓動が大きく跳ねる。下腹部が燃え上がるように熱く疼くのを感じた。


「おにいちゃーん! うふふ、やっと会えたー。ずーっと待ってたんだよー」


 アトリアがホシノの頬に頬ずりする。とろけそうな程に柔らかい感触に、ホシノは顔が熱くなる。


『リアッ!』


 アトリアの声が星屑を介してホシノの頭中で響く。明らかに怒りに満ちた声。しかし頬ずりしているアトリアは嬉しそうな声を漏らしている。


 これはどういうことだろう。ホシノの頭は混乱する。体全身を包み込む柔らかい異性の感触に惑わされ、そもそも正常に思考できない。その上、抱きつかれているアトリアの声ではないアトリアの声が頭の中で聞こえるのだ。もう理解が及ばない。これは夢だ夢に違いない。ホシノはそう結論付けた。


『いきなり抱きついたりしないって、さっき約束したでしょ!』


 頭の中のアトリアか怒る。

 目の前に居る、よく見れば髪を二つ結びにしているアトリアが、渋々と言った様子でホシノの体から離れ、口を尖らせる。


「だってー、見つけた瞬間わーってなっちゃたんだもん」

『わーってなったからって、男の人に抱きついたりしたら駄目でしょう』

「ううーっ、そうかもしれないけど、お姉ちゃんはお堅いよー」


 目の前のアトリアはしょんぼりしたのか肩を落とした。

 ホシノはいい加減冷静になってきて、頭が回るようになると状況を理解する為に目の前のアトリアに尋ねる。


「あのー、状況を整理したいんだけど 君はアトリアだよね」

「そうだよ、わたしはアトリア=ベルナール。十年前お兄ちゃんに助けて貰ったリアだよ」


 リアは屈託のない顔で笑う。


「それで頭の中のアトリアも、アトリアなの?」


 ホシノの問いに頭の中で声がする。


『そうよ、わたしもアトリア。天核が埋め込まれたアトリアよ』


 西と東から風が吹く。ホシノの横でぶつかり合い、小さな旋風を巻き起こす。

 やっかいなことが起きた。

 ホシノは眉間に手をやりながら深いため息を漏らした。

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