第十二幕 月明かりと氷水と昔話

 桶に氷の詰まった袋が入っていた。アトリアはハンカチを敷いてから氷袋を赤痣に当てる。


「冷たいっ」


 ホシノは思わず声を出す。


「我慢して。放っておくと酷く腫れるんだから」


 じっとしていると赤痣の放つ熱が、氷に吸い取られていくような感覚をホシノは感じた。やがて全ての熱が吸収され、凍るような冷たさを感じた頃、アトリアは袋を赤痣から離して別の赤痣に当てる。

 経験豊富だと言っていた通り、その処置の仕方は慣れたものだった。


「アトリアは何処で打ち身の処置の仕方なんて覚えたの?」

「自転車で転けた時に腫れないように自分で処置してたから.....。他にも軽いマッサージみたいなのも出来るわよ」


「凄いね。マッサージや散髪が出来る人が近くにいると、色々楽だって養父さんが言ってたなぁ」

「まぁ、あくまで素人だけどね。よくお父様にやってあげて喜んで貰っていたけど、多分あれはおだてていただけだろうし、仲の良いメイドにやって上げたら反対に疲れたって言われたわ」


 雇われている家の娘に、マッサージをされるメイドの気持ちをホシノは想像してみる。きっと気が張って余計に疲れるだろう。


「自転車はね、慕っていたルーシェ姉さんに教えて貰ったの」


 ホシノは首に掛けていた首飾りを手に取った。


「この首飾りとよく似ている首飾りをしていた人だよね」

「そうよ。似ているのは首飾りじゃなくて、嵌め込んである翡翠の方だけど。子供の頃、お母様を早くに亡くして寂しかった私は、お父様の仕事場によく遊びに行っていたの。ルーシェ姉さんとお父様は発掘現場が一緒になる機会が多かったから、よく面倒を見て貰ったていたわ」


「ダリウスさんの奥さん。セシルさんだっけ。確か飛行機事故で……」

「私が三つの頃だった。だから、お母さんの事はあんまり覚えていないの。親不孝な娘よね。血の繋がったお母様の事は全然覚えていないのに、ルーシェ姉さんと過ごした記憶はちゃんと覚えているなんて」


「そんな事ないよ。僕だって、本当の父さんや母さんの顔を覚えていないんだ。でも育ててくれた養父さんの事は、ちゃんと覚えている。生みの親には悪いけど、それだけ大事な人だって事だよ」

「……そうね」


 アトリアは何処か遠い目で壁に掛かっている絵を見つめる。絵には淡い色使いで、青空と麦畑が描かれていた。


「私が五歳になった時、ルーシェ姉さんが補助輪付きの自転車を買ってくれたの。今乗っているロードバイクと同じ、真っ赤な自転車だった。昔の子供は補助輪無しで乗る子もいたのよって言われて、ムキになって補助輪を外したの。乗り慣れていないのに二輪で走ろうとしたせいね。何度も転んで泣いて、その度にあやして貰ったわ。優しくて綺麗で良い匂いがして、私はルーシェ姉さんが大好きだった」


 アトリアは何処か悲しい気な表情を浮かべて続ける。


「自転車に乗れるようになったら、ルーシェ姉さんと草原を走るんだって決めてた。でも、乗れるようになった時にはルーシェ姉さんはもう居なかった。九年前、アトロポス遺跡で起こった事故に巻き込まれて、行方不明になってしまったの」


 ホシノもその事故については耳にした事があった。ハダルが発見されたクロト遺跡で見つかった古文書の一文が始まりだ。

 ――メギドの丘アトロポスの祭壇にて、終末の巫女が世界の楔に触れる時、世界は終わる――


 メギドの丘はラケシス教会の神話にも登場する重要な場所で、終末の巫女はラケシス教が数億を超える信徒の中から一人だけに与える称号だ。ラケシス教会は古文書の調査に意欲的に資金提供し、当時の遺跡発掘ブームもあやかり、すぐさま太平洋に浮かぶクリシマフ島にあるメギドの丘の調査が行われた。


 何世紀もの間何回もの調査が行われたメギドの丘だったが、終末の巫女を連れていくと別の遺跡がすぐ近くの海の中から現れた。


 初めて発見された遺跡だった。これこそアトロポス遺跡に違いないと発掘準備を急いだのが災いして、原因不明の火種によって遺跡の中に充満していたガスが爆発し、アトロポス遺跡は崩壊してしまう。死者は数十人、行方不明者は数百人に上り、ルーシェという女性もその中に含まれているのだろう。


 ネットやニュース番組で度々話題に上がる大規模な事故だった。ホシノも何度かTV番組の特番で当時の映像を見た事があり、悲惨な事故であったと記憶している。


「当時、アトロポス遺跡には私やお父様もいたの。丁度非番の日だったから、直接事故に巻き込まれなかったけど、宿舎には大勢の怪我人が運び込まれていたから、私も子供ながらに出来る事をしていた。夜中になっても宿舎に運ばれてくる怪我人は増える一方で、私は疲れてウトウトしながら井戸で水を汲んだりしていたわ。


風に揺れる枯れ枝がお化けみたいに見えて、怖い思いをしたのを覚えてる。次の日ルーシェ姉さんが、まだ見つかっていない事を聞かされたの。それからずっとルーシェ姉さんは行方不明のまま。きっとあの枯れ枝のお化けは、死神か何かだったのね」


 アトリアは腕で目を擦った。一通り話しをするとすっきりしたのか悲し気な面持ちは幾らか晴れていた。

 ホシノはほっとしながらアトリアに尋ねた。


「フレッドが運命値を使って管理社会を作るって言った時、アトリアは怒っていたでしょ。あの時思ったんだ。アトリアは何か譲れない思いがあって、フレッドの考えを否定しているんだって。もしかしてアトリアが運命値に携わったのはルーシェさんの事があったから?」


「そうよ。私の大切な人はみんな事故に巻き込まれて運悪く亡くなったから。もう、そんな悲しい終わり方で大切な人を失いたくないの。運命値の研究が進めばその人の死地がいつか分かって、事故や事件を未然に防ぐ事が出来るようになるかもしれない。そう思って運命値の研究所を手伝っていたのよ。でもフレッドが来てから研究所の目的が変わってしまって、お父様と一緒に去る事にしたの。それが原因でこんな事になってしまって、ソウガ君には本当に申し訳ないと思っているわ」


「気にしないで、僕も自分で助けようと思ってやった事なんだから」


 アトリアは恥ずかしそうに頬を掻いた。


「ソウガ君ってさ、何処かルーシェ姉さんに似てる。優しいそうな目元とかそっくり」


 アトリアはホシノの顔を上から覗きこんだ。


「ねぇ、しばらく見てても良い?」


 濡れた碧眼の中には、ホシノの顔を揺れながら映っている。瞬きもせずに真っ直ぐに送られてくる眼差しに、ホシノは顔を紅潮させて明後日の方向を向いた。


「ふふっ、ソウガ君って可愛いのね」


 ホシノは横目でアトリアを確認した。

 艶のある上下の睫を重ねて、アトリアは笑っていた。制服の袖で口元を隠してはにかみながらの笑みだった。


「からかわないでよ」


 ホシノは顔が熱くなった。笑われて怒ったからではなく、アトリアのはにかみの方が何倍も可愛らしいと思ったからだ。

  上気した顔を見られたくないので、仰向けになって枕に顔を埋める。


「あら、背中も痣ができているわね。冷やすからじっとしてて」


 氷袋が背中の痣に当てられる。ひやりとしてホシノは反射的にピクリと動く。

 氷が熱を奪っていき、皮膚の裏側で疼いていた傷がアトリアの手で癒えていくのを感じた。

 ホシノは温かい気持ちになって次第に瞼が重くる。


 ウトウトする意識の中、純粋な心で考える。

 運命を変える大掛かりな目標は大事だ。けれどまずはアトリア一人の命を救う事を目指そう。それはきっと、世界の終焉を防ぐことに繋がるはずだ。

 ホシノは起きた時に気持ちがブレないように、寝る前に心に芯を打ち付けてから睡魔に身を委ねた。

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