第二十一幕 崩壊と終末
瞬きのしないアトリアが、じっとホシノを見つめている。花弁のような唇をだらし無く半開きにして、息を止めている。青くなるアトリアの頬をホシノは手を当てて温めた。
頬がまだ暖かかった。温もりが手に伝わって来た。ホシノは体が浮き上がるほどの喜びを感じて声を掛けた。
「アトリア、冗談はやめようよ。ほら、ちゃんと息しないと」
声を掛けたが返事はない。体を揺さぶってみたが、ピクリとも反応しない。
ホシノはアトリアの目を見て話す。
「もうやめよ。これ以上やったら僕でも怒るよ」
アトリアの鼻に手をやる。息をしている様子はない。瞳孔が萎んだ瞳には、涙でくしゃくしゃになった自分の顔が映っている。
ゆっくりとアトリアの肌から温もりが消えていき、身体が冷たくなっていく。完全に冷え切ってしまうと戻れなくなりそうで、恐ろしくなった。
原因はきっと雪だ。ホシノはそう思ってアトリアの周りの雪を手で掻く。
鮮血に染まった雪に、指を突き立てて押しのける。悴んた手を土が切りつけた。
雪に血が滲む。この血が誰の血なのかは分からない。自分の涙と溶けた雪との違いくらいにホシノにはどうでも良いことだった。
汗だくになりながら雪を掻いていると、視界の端でダリウスが拳銃を握るのが見えた。
はっと顔を上げる。
銃声が鳴った。ダリウスが倒れた。辺りに血が飛び散り、ダリウスの頭から飛んできた肉片がホシノの頬に付着した。
触れるとぶよぶよとしていて、気色が悪かった。
胃の中身が上ってくる。ホシノは嘔吐き、内容物を吐き出す。ツンとした刺激臭が、ようやく意識を現実に引き戻した。
アトリアは死んだ。
ダリウスも死んだ。
目前に二つの死体。どちらもホシノにとって掛け替えのない存在だった。それが今では二人とも、肉塊になって転がっている。
「あぁ、あぁぁ、あぁぁぁぁっ……」
胸が刺されたように痛かった。心が臼ですり潰されるほどに痛かった。頭の中が壊れそうで、上手く叫ぶことも出来ない。
嘔吐くような慟哭を繰り返す。
涙を幾ら流しても慟哭を繰り返しても、胸の中で蠢く言いようのない絶望感が拭えない。
ホシノは堪らずに、自分の左胸を鷲掴んだ。
〈どうやら上手くいったようだな〉
背後から声がした。振り向くと、頭に穴が空いたフレッドが立っていた。
目はギョロギョロと動いているが、まるで生気を感じられない。
〈防火機器を動かされた時、計画の失敗も視野に入れていたが、成る程こんな結末になるとはな。馬鹿な娘だ。自ら死地に飛び込むとは。いや、これも一重に貴様のおかげか。礼を言うぞソウガ=ホシノ〉
ホシノは殺意を込めてフレッドを睨む。
「今なんて言った」
〈礼を言うと言ったのだ〉
「その前だ!」
〈馬鹿な娘だと言った〉
ホシノは怒りと憎しみがカッと湧き上がるのを感じた。産毛が逆立ち頭に血がのぼる。
理性をかなぐり捨て、フレッドに飛び掛かる。しかし既の所でフレッドの体は宙に浮かび上がり、ホシノは雪上に転がった。
フレッドが口を動かす。よく聞くと声はフレッドの声ではない機械的な声だった。
〈今周期は予想外のことが多すぎた。アトロポス遺跡の件といい、多元宇宙全体で何やらが起きているかもしれん。他の越在者と会っていないことが災いしたか。まぁよい、次はこんな事にはならないように気を付ければ良いだけのこと〉
空に浮かぶフレッドにホシノは睨むような視線を送る。
「……お前は誰だ」
フレッドは冷たい視線でホシノを見下げる。
〈我はモイラ。この世界の越在者。今はこの男の器を借り、お前に礼を言いにきた〉
「お前が……モイラ。おまえがっ!」
ホシノの頭に、アトリアとダリウスの笑顔が浮かぶ。
二人の死で空いた傷口から憎しみが湧いてきて、ホシノは奥歯を噛み締めた。
ダリウスの手から銃を奪い、モイラに向けて発砲する。発砲音が鳴るものの、銃弾はモイラの前で静止し、雪上に落ちた。
〈言ったであろうは礼を言いにきただけだと。貴様を相手にしにきたのではない。我は創生に備え、原初の生物達の種を選別する重要な役目がある。貴様と遊んでいる暇はない〉
「待てよ!」
ホシノは銃を乱発はする。何発撃とうとも弾丸は雪上に落ちるだけで、モイラには届かない。
銃を投げ捨て、拳を強く握る。爪が皮膚に食い込み、血が滴る。しかし痛みなど感じないくらいに、怒りが腹の底からわき上がっていた。
〈さらばだ。礼として最後の時を、その目に焼き付けさせてやろう。喜べ、ソウガ=ホシノ〉
モイラは空へと飛び立つ。
モイラが飛び立つ瞬間に地面が大きく揺れて地割れが起きた。
割れたところから、砂つぶのように細かな光の粒子が浮き上がる。
ホシノは転ばないように腿に力を入れた。
足元にある雪が、光の粒子となって空へと浮かび上がっていた。
何が起きているのか。ホシノは周囲を見渡す。木々や川の水も光の粒子に変わっている。
分解。そんな言葉が頭を過る。
アトリアの死体を見る。アトリアとダリウスの死体は指の先から綻び始め、光の粒子として空を舞い上がっていた。
ホシノ腰を落とし、アトリアの死体を抱き寄せた。まだ柔らかい感触と僅かな温もりがホシノを包んだ。
「アトリア……」
光に包まれていく死体をぎゅっと抱き寄せる。アトリアの死体は腰から二つに折れた。折れた先からさらに粉々になり、ホタルの大群のように光を放ちながら空へと舞い上がった。
「待って、逝かないで!」
ホシノは手で、アトリアの体だったものを追いかけた。最後のその一片を、なんとか手で掴んだ。
アトリアの欠片だ。ホシノは一片を持つことでアトリアを蘇らせられる、そんな気がした。
掌を目の前に持ってきて、開く。
光はそこになかった。
崩壊していく世界の中で、咽び泣く。
最早、鳴き声を聞く生き物すらいなかった。
欠片さえも与えてもらえないのかーー。モイラの仕打ちに怒りに震え、立ち上がる。
飛び立つモイラの足元を睨みつけながら叫んだ。
「来いっ、ゼーベリオン!」
巨大な卵が、ホシノの背後に突如として現れた。ホシノは直ぐ様ゼーベリオンに搭乗し、発進させる。
「返せ……返せっ!」
怒り任せてゼーベリオンに飛べと想念を送る。ゼーベリオンは命令通り飛び立つが、殺意で濁った想念に反応し五月蝿い警報を鳴らした。
ホシノは聞こえないふりをした。モニターでは心拍数が跳ね上がり体温も急上昇していたが気にも留めない。
意識にあるのはモニターの中央に映るモイラの足元だけだ。
「返せっ、返せ返せ返せ返せ!」
遷移確率が物凄い速さで上昇していたが、ホシノは殺意に飲まれて見向きもしなった。
鳴り響く警報の中でアナウンスだけが静かに告げる。
『遷移確率が50パーセントを超えました。残り五分で量子系遷移を開始します』
ホシノは頭の中に、五分という単語だけが残った。残り五分でケリをつけなくてはいけない。焦りが、なおも想念を乱す。
「返せ、ダリウスさんを、アトリアを返せっ!」
怒りが
『遷移確率が八〇パーセントを超えました。残り二分で量子系遷移を開始します』
「なんで、なんでだよ!ゼーベリオン、俺に仇を打たせてくれ!」
汗が体に絡みつく。蒸された操縦室のせいで更に怒りが増す。
上空にいるモイラまであと少し。もう少しのところで報復できるのだ。憎しみが呼吸を乱した。息を吐き出しても吐き出しても憎しみが減ることはなく寧ろ増える一方で、ホシノはただ一矢報いるための獣と化した。
アトリアとダリウスの恨みを晴らす。そのための矛になるつもりで、ゼーベリオンを飛翔させる。
接近してくる巨大な卵を見てモイラが笑みを浮かべた。
〈笑止〉
ホシノは体当たりして、モイラの内臓を破壊させろと想念を飛ばす。憎しみ、怒り、悲しみ、苛立ちをごちゃ混ぜにしたような感情がゼーベリオンに悲鳴を上げさせる。パキリパキリ、殻が割れる度に遷移確率が上昇する。
『遷移確率が九十五パーセントを超えました。三十秒後に量子系遷移を始めます。30…29…28…』
ホシノは急いた。思考を加速させ、ゼーベリオンの速度を上げる。モイラまであと少し、もう少しで報復できる。
快感に打ち震えた時、センサーが後方に敵機の出現を知らせる。
ホシノは振り向く。
ハダルだ。ハダルが凄まじい速度で接近していた。
「くっ!」
ホシノは回避運動を取るように想念を飛ばした。しかし時すでに遅く、ゼーベリオンはハダルの体当たりをもろに受けて大きく揺れる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」
操縦室は揺さぶられながら、冷徹なアナウンスを響かせる。
『遷移確率が百パーセントを超えました。本機は本世界線より転移します』
ゼーベリオンが光の粒に変わる。ホシノは宙に投げ出され、闇の中に落ちる。
「くそっ、くそっ!モイラァァァァァァ!」
ホシノの叫びなど聞くそぶりもなく、モイラはハダルの中に搭乗する。ハダルの色が黄金から灰色に変わり、闇の中へ溶け込むようにして消えた。
「ちくしょぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
ホシノは叫びながら崩壊する世界の中へ落ちた。
足元で地球が割れ、光の粒に変わっていた。
周囲を見渡せば、太陽系の星々がバラバラになりながら光の粒に変わっていた。
ホシノは浮遊しながら世界の終わりを見た。
宇宙にいる筈なのに不思議と息が出来る。今見ている風景は、宇宙であって宇宙でないのかもしれない。ホシノはなんとなく思った。
ホシノは光になる地球を見ても悲しくはなかった。既にアトリアとダリウスを喪い、故郷であるソードブリッジを無くした今、何かを失って流す涙は枯れていた。
圧倒的な喪失感に、ホシノは呆然とする。
落ちる速度は加速し、やがて光の速度に到達する。星々が光の線に見え始め、全てが光に包まれた頃、長い闇が訪れた。
闇の中でしばらく漂う。遠くの方で光が見えた。
光の方に目をやると、闇の中で色とりどりの
計九本の光柱。光柱はそれぞれの色で光っている。
ホシノは自分の真横を見た。
巨大な灰色の壁から、自分の体がはみ出しているのが見える。
壁は一つ一つが細い糸でできており、それがいくつも並ぶことで柱に見えているようだ。
壁を見上げてみる。果ての方で九本の光柱が一つになり、神々しい光を放っている。
壁は遠くから見ると柱に見えるのかもしれない。ホシノはそう推察した。
次に光柱の根元を見る。
この世のあらゆる黒を混ぜ合わせたような漆黒がそこにあった。
漆黒の果てに誰がいる気配がした。ホシノはその気配を感じた時、途端に
気配がこちらに気が付いた。強烈な殺気をホシノに向けてくる。あまりの恐怖に眩暈を起こすと、そのまま意識を失った。
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