第三十五幕 珈琲とスコーン

 静けさの中で風が木の葉を揺らす。

 さわさわという優しい音が風の軌道に沿って鳴り、合奏のような音色を周囲に響かせた。

 街の喧騒から離れ、静寂の中で奏でられる草木の演奏会は、時にここが人の住む住宅街であることを忘れさせる。


 ホシノはふいに足を止めた。

 草木の音色が特に左側から多く聞こえて来たのが気になったのと、その左側に白地の壁が幾ら進んでも途切れないのが気になったからだ。


 まず振り向いて、自分がどれだけ歩いて来たのかを確かめる。三十メートルは歩いただろう。

 次に前を見て壁の果てを探る。壁は遠くまで続いており、自分はまだ半分にも至っていない場所に立っているのだと気が付く。


 顔を左に向けて壁の内側を望むと、丁寧に剪定された形の良い木々が陽の光を浴びながら葉を揺らしていた。

 まだ微かに残る朝露が光を受けてプリズムを放ち、風が吹き抜ける度に樹冠がキラキラと輝く。


 綺麗なところだ。ここは何かの会社か、施設であろうか?

 ホシノはそう思いながら歩みを進める。


「ここだよ」


 前を行くリアが立ち止まるのを見て、ホシノも足を止めた。


 豪華な門扉の前だった。

 門の向こうに見える噴水には威風堂々とした彫刻が置かれ、噴き上がる水のアーチ越しに白煉瓦の建物が聳えていた。

 門から建物までの距離は目算で百メート程。

 大凡個人の邸宅とは思えない外観と大きさだ。


 ここが家なのか――。

 ホシノは建物の偉なる外観に嘆賞たんしょうの声を上げる。


 ゴードンの手伝いで立派な家を幾つか見てきたが、ベルナール邸の装いは群を抜いる。これがアトリアやリアの家なのかと感心する反面、自分の家の装いを思い出して空しい気持ちになる。


 今更ながらアトリアは相当なお金持ちなのだ。と思いながらホシノはリアを見た。

 リアは門扉を開けて、ホシノを手招きしていた。


 邸宅の敷地に足を踏み入れる。前庭には数十種類の草花が植わる花壇が左右対称に置かれている。華やかな花壇の中央を抜けて正面扉の前に立つと、まるで一つの丘を制覇したかのような充実感に満たされた。


 富豪は商談や取引で優位に立てるように、家の入口にお金をかけて如何に自分が優れているか相手に分からせるのだという。

 ならば今の自分はその前庭の効果を誰よりも強く受けていることだろう。ホシノはそう思い、駆け足で襲って来た緊張で背筋を強張らせた。


 玄関扉と思われる大きな扉、その意匠が施された取手をリアが引いた。

 瞬間、中から清涼感のある香りが運ばれてくる。

 嗅ぐだけで胸が弾む透明度の高さと、ほのかに隠れた甘い香り。何時間嗅いでいても飽きがこない魅惑的な香りだ。

 匂いが、ホシノの頭の中にイメージを誘発する。


 金色の髪の棚引かせながら、快晴の空の下、淑やかな笑みを浮かべるアトリア顔。


 この爽やかな香りは、アトリアの香りか――。


 ホシノは気がつき、さり気なく隣にいるリアを見た。リアも同じ香りである筈なのに、少しだけ異なる気がする。何が違うのだろう?確かめる為に、正面にあるリアの背中を嗅いでみる。


 ほんのりと灯油のようなツンとする匂いがする。どうしてか不思議とずっと嗅いでいたい気がする癖のある香りで、一度は嗅いだことのある香りだった。これは一体なんの匂いだっただろうか。思い出しながら鼻を鳴らして匂いの正体を嗅ぎ分けていると、大理石の床を叩く上品な革靴の音が近づいて来た。


 ホシノは音のする方に目をやる。


 癖のある錆色の髪をショートボブにした女性が背筋をピンと立てて立っている。

 身に纏うのは黒と白のエプロンドレス。頭にはフリルのついたカチューシャ。服装を見ただけで、女性は所謂メイドであると看破出来る。

 可愛らしい部類の服を着ている筈なのに、その立ち姿とアーモンド型のやや尖った目が、如何にも厳しそうな雰囲気を醸し出していた。


 件の尖った目は、冷たい眼差しでホシノを見下ろしている。女性にしては長身の位置から降りてくるプレッシャーが、ホシノを萎縮させリアから距離を取らせた。


「デネボラ、ただいまー」

「おかえりなさいませ、お嬢様」


 デネボラと呼ばれたメイドは、リアの挨拶に軽く頭を下げて応答すると再びホシノの方を向く。


「時にお嬢様。この使いパシリが似合いそうな少年は一体どなたですか?」

「使いパシリじゃないよー。この人は私の命の恩人、ソウガお兄ちゃんだよー」


 リアは言いながらホシノの左肩に抱きついた。峻険な胸の谷間にホシノの左腕が飲み込まれる。

 ――むにゅり、むにゅり。如何わしい感触にホシノの顔は沸騰する。


『ちょっとリア、やめなさい! あんっ!』


 頭の中で響くアトリアの悶絶が、更にホシノの興奮を高めていく。

 ゴクリと唾を飲んだ瞬間に、左腕の心地良さを吹き飛ばすような凄まじい殺気が飛んでくる。


 恐る恐る殺気のする方を見上げる。

 デネボラが目を細くしてホシノを見下ろしていた。

 蔑みという言葉では些か足りない氷刃のような眼差しに、ホシノは心臓が止まりそうなほどの恐怖を感じる。


「リア、ごめん離れて」

「うん……」


 リアは胸を押し付けるのをやめると、名残惜しそうにホシノの腕を手で撫でてから距離を取った。


「ホシノ様、我が主から貴方様がきたら丁寧に迎え入れろと言われています。言われていますので……どうぞ、中へ」


 デネボラに連れられて、赤絨毯の上を歩く。

 天井には豪華なシャンデリアが下がり、壁には学生達に囲まれたダリウスの写真が飾ってある。

 正面を歩くデネボラは、上半身だけ糊付けされたように体幹を振らすことなく前に進み、時折肩越しに振り返ってはホシノの顔に殺気の篭もった視線を飛ばしてくる。


 ホシノはデネボラに睨まれる度に、猫に見つかった鼠の気持ちがよく理解できた。隙あらば首根っこに鋭い牙を突き立てようとするその眼光とかち合うだけで、今宵は眠れそうになくなる。


 なるべく赤絨毯と睨めっこしながらしばらく歩いていると、デネボラが立ち止まり、すぐ隣の扉を手の甲で二度叩いた。


「旦那様。お嬢様がソウガ=ホシノ様を連れてお帰りになりました」


 扉の向こうから物音がした後、ダリウスの嬉しそうな声が聞こえてくる。


「ついに来たか! 中に入ってもらえ!」

「了解しました」


 デネボラは左手で扉を開けて、右手でホシノに中に入るように促した。扉から顔を出し中を覗く。


 高級感のある落ち着いた色の書棚と艶のある黒革のソファー。部屋の奥には、洗練された作りのデスクが置かれ、その後ろに椅子から立ち上がった姿勢のダリウスの姿が見えた。


「おおっ!! なんと、本当にあの日の姿のままだね、君は!」

「お久しぶりです。ダリウスさん」


 ホシノはダリウスに歩み寄ると、ダリウスもまた両手を広げながら小走りに近付いてきた。ソファーの前で向かい合うと、軽くハグをする。


「あの後、君を探してみたが痕跡すら見つからなかった。夢でも見ていたのかとも思ったよ。娘も随分君を想い、寂し思いをしていた。こうして再び会えて嬉しいよ」


「すみません、事情がありまして……。その辺も含めて、今から全てをお話しします」


「分かった。珈琲でも飲みながら、ゆっくり話を聞こう。デネボラ、先日貰ったスコーンがあっただろう。あれと珈琲を二杯」

「畏まりました」

「はいはーい、私はミルクティーが飲みたいです!」


 挙手するリアをデネボラは優しい眼差しで見つめてから頷く。


「砂糖を多めにお入れしますね」

「うん!」


 洗練された動作で反転すると、デネボラは扉の外へ出て行く。

 ホシノはダリウスに促される形でソファーに座り、今までのことを説明した。


 前の世界でゴードンに拾われ育てられたこと。アトリアと出会ったこと。スピカと出会い、ゼーベリオンを召喚したこと。モイラのこと、そして世界の終末。


 自分の経験したことを全て伝える。

 世界崩壊前のダリウスが、ホシノに銃を向けたところで、デネボラがカートを引いて帰って来た。カートの上に乗せられた珈琲と紅茶、二種類のスコーンをそれぞれ正面の机の上に並べる。


 湯気の立つ珈琲の香りが、ホシノの前でふわりと香る。喉の渇きを覚えたが、正面に座るダリウスが、身を乗り出して耳を傾けている姿を目にして、ホシノは手を付けずに話を続けることにした。


「世界はモイラの企みによって崩壊し、僕はスピカの存在するビナー宇宙に飛ばされました。そこは、この世界とは時間の流れ方が異なり、ビナー宇宙で十年過ごすと、この世界の十年前に戻ることになる。この原理を使って、僕は時間逆行タイムスリップをしてアトロポス遺跡にやって着たんです」

「なるほど、そうして君は未来を書き換えたというわけか。いや、正確には別の未来の新しい世界を創造したということだな」


 ダリウスは自分自身を納得させるように何度も小さく頷いた。ダリウスが頷く度に、ボリボリと何かを噛む音がホシノの左手から聞こえてくる。噛む音が鳴り止むと、スプーンが陶器製の皿を叩く涼しげな音が鳴る。音のする方に顔を向けると、スコーンを食べ終えたリアが満足そうに紅茶を啜っていた。


「にわかに信じられんが、十年前の君が、昔のままの姿でここにいることが何よりの証明だろう。それに君は娘の命の恩人だ。私は、君の話を信じることにするよ」


 一連の話を聞いたダリウスは、珈琲を一杯啜った。

 ホシノも釣られて啜る。苦味の少ない軽やかな味が、乾いた喉を潤した。


 モイラとの戦い。改めて人に話すと、客観的事実としてホシノの頭の中に入っていった。一部始終を語った喉は、カラカラになっていた。珈琲をゴクリゴクリと胃の中に流し込む。

 戦いの記録と共に得た経験が、体に染み渡るようだった。


 カップをソーサラーの上に置く。振動で中の液体が揺れる。しばらく待つと液体の表面は平らになり、ホシノの顔を鏡のように映した。

 相変わらずパッとしない顔だ。自分の顔がよく出来ているとは思わなかったが、モイラとの戦いを経て少しでも男らしくなっていたら嬉しいとホシノは思う。


「時に、そのスピカという娘は今ここにいるのかね」


 ダリウスが辺りを見渡して尋ねてくる。

 ホシノは自分の左隣に立つスピカの方に目配せを送る。スピカはホシノと目が合うなり頷いて、ダリウスを見た。


 ダリウスは目を大きく見広げた。ダリウスの隣に立つデネボラも、小さいながらも驚いた表情をする。二人の液晶角膜ウィジャドにもスピカが映されたのだろう。表情を見るだけでホシノには想像する事が出来た。


「なるほど、君がスピカ君か。にしても実体のある人間と見間違うほどの精巧さだな」


 ダリウスは目を細めてスピカをよく観察する。スピカは何も言わなかったが、その様子を見ていたリアが声を上げる。


「パパ、女の子をジロジロ見るのは良くないよ!」

「おお、確かにそうだな。これはすまない。レディに失礼だったね」


 スピカは涼しい顔で首を振った後、ホシノの方を向いて何故か不敵な笑みを浮かべた。ホシノは一体何の意図で笑っているのか理解出来ずに首を傾げる。


「それで、もう一人のアトリアというのはどこに居るんだ?」


 ダリウスは再び辺りを見渡した。


「それが、厄介なことになりまして……」


 ホシノはアトリアに合図を送るつもりでリアの方を向く。


『ここに居るわ』


 アトリアの想念が飛んで着た。ダリウスやデネボラにも届いたのだろう、二人はピクリと眉を動かした。


 リアの座っている場所から寸分違わぬ位置で発信された想念。全てを知るホシノは、感覚として隣にアトリアがいるような気がしてくる。しかし何も知らないダリウスやデネボラは、リアから発信された想念にしか思えないだろう。二人は不思議そうな顔をしている。


「これはリアの念話じゃないのか?」

「違うよー。お姉ちゃんのだよ」


 リアが口頭で説明しても、二人は理解できないでいるらしい。当然だとホシノは思う。全ての出来事を実体験した自分ですら理解できないのだから。


『お父様。寝る前のウィスキー、飲みすぎに注意してくださいね。この間なんてせっかく帰ってきたのに二日酔いでなかなか起きなかったんですから』


「うむ、確かにアトリアとは少し印象の違う声だが……」


 ダリウスは眉間の凝りを指で解しなが応えた。そしてしばらく仏教面で俯いていた。


 ダリウスが今何を考えているのかまで分からないが、すんなり理解する方がおかしい。頭を整理するくらいの時間は必要だろう。とホシノは思う。


 デネボラもまた状況が理解できないようで、リアやダリウスの顔を見ながら自分がどういう反応をしたらいいのか対応を探っている様子だ。


 ホシノは二人が考えている間に、スコーンを食べようと視線を落とした。陶器製の皿の上にマーマレードとイチゴジャムの乗った二種類のスコーンが盛られていた。


 陽気な色のマーマレードを頬張れば、口一杯に爽やかなか風が吹きそうだ。愛らしい色味のイチゴジャムを頬張れば、口の中で濃厚な甘酸っぱさが踊るだろう。どちらも真っ白なホイップクリームが添えられていて、同じくらいに可愛らしい見た目だ。


 ホシノはどちらを先に食べようか迷い、伸ばした手を右左に揺らす。どちらも魅力的だが、やはり一口目の印象は大きい。料理好きのホシノとしては始めに食べるものは吟味して選びたい。


「時にホシノ君。これから、君はどうするつもりなんだい?」


 ダリウスの言葉を聞いて、ホシノは手を止める。

 これから、どう生活していくつもりなのか?

 ダリウスはそう尋ねているのだろう。


 世界を再構成して、天涯孤独になった今、ゴードンの家や遺産を受け取る資格がホシノにはない。何故か技師店には入る事とがものの、そもそも不法侵入だ。長居はできない。


 明日食べる飯もないのが今の状況なのだ。過去から戻ってきてから今まで余裕がなかったので深く考えていなかったが、よくよく考えてみればゆっくりしている場合ではなかった。


 ダリウスは続ける。


「君は娘の命の恩人だ。何か助けになれるのならなんでも言ってくれ。私の力で出来ることなら、協力しよう」


 ホシノは考える。別に恩を売ったつもりはないので助けを借りるのは申し訳ない気がするが、ダリウスの力を借りずに生きていくのは難しい。だったらせめて少しでも迷惑をかけずに、一つの願いでこの状況を打破したい。


 頭の中で案を出す。

 一番初めに浮かんだことをホシノは口に出した。


「ソードブリッジ学園に行かせてください」


 願いはホシノの夢でもあったし、現状を打破する最善の方法だった。ソードブリッジ学園に入学できれば、学寮に入れるので食住は与えられる。空き時間にバイトでもすれば、貯金も出来るだろう。


 ダリウスは顎に手をやり何かを考えている。

 ホシノはこめかみに汗が伝うのを感じた。


「条件がある」


 ダリウスは顔の前で拳を握り、人差し指を立てる。


「学園でアトリアの面倒を見てやってほしい。君のいう事が本当で、今のアトリアに二つの人格が入っているなら大変だ。生活するにしても何かと不便もあるだろうし、色々助けてやって欲しい。その代価として学費諸々の経費を私が負担しよう。また私のコネで入学の枠を与えよう」


 ホシノは頷く。

 学校に行ける。今まで見ることも諦めたいた夢が叶うのだ、こんなに嬉しいことはない。


 太陽が雲に隠れたのか、窓から差し込む光が薄くなった。部屋が少し暗くなる。


 ホシノはダリウスに向けて頭を下げる。


「よろしくお願いします」


 ホシノの返事に、隣にいるリアが嬉しそうに一度手を叩いた。


「話し込んでしまって碌に食べられなかっただろう。どうか気にせず食べてくれ」


 ダリウスに促されて、ホシノは再び机の上に視線を落とす。目の前には二つのスコーン。そして飲みかけの珈琲。

 もう一度珈琲を飲んでからスコーンを食べよう。ホシノはそう思い、カップの中を覗き込む。部屋の光度が下がった為か、自分の顔は珈琲の濃い色に溶け込んで歪んで見えた。


 輪郭を失った自分の顔を見て、ホシノの恐ろしくなった。


 何故か恐怖を感じたのか、ホシノ自身理解できなかった。ただ見たくないものを見ないようにするため、黒々とした珈琲と共に杞憂を胃に流し込んだ。

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