第三十六幕夜と紅茶と石鹸の香り
ホシノの気分を反映した筆の動きが、軽妙な
明後日から学校が始まる。
三日前に入学手続きをして書類が通るとは、それだけソードブリッジはダリウスの影響力が強いのだろう。しかし何とか入学が許されるとしても、勉強についていけなくてはやっていけない。そのため、こうして徹夜で詰め込み教育をしているのだ。
ホシノはやる気に満ちていた。
そもそも勉強が嫌いではない彼は、デネボラから借りた教材を星屑にインストールするなり早速勉強に取り掛かった。
二日続けて勉強しても、ホシノのモチベーションは衰えない。
与えられた部屋は勉強に集中しやすいような角部屋であったし、窓も大きく明るかった。何より備え付けの寝具ときたら雲の上で寝ているようにホシノを包み、一日の疲れを癒してくれる。
勉強だけに集中出来るよう、良い部屋を与えてもらったのだ。ダリウスの期待に応えなくてはならない。ホシノは今夜も張り切ってきた。
メモアプリの隣に映るのは教壇に立つ気の弱そうな男の姿。黒板に書いた図形の面積を、数式を使って解いている。
黒板に書かれた数式を頭に叩き込んだ後、動画を一時停止せて問題集を解く。基礎問題は楽々と解けるのだが、応用問題で躓く。恐らく数式の理解度が低いせいだろう。
ホシノは念じるのをやめて、筆を止める。
気づけば夜も更けていた。窓の外からはピィピィチィチィと、可愛らしい
三時間ほどは集中していただろう。軽く両肩を回して、凝りをほぐす。
柔軟を終えた時、扉を叩く音がした。
「ソウガ君起きてる?」
アトリアの声だ。呼ばれ方で瞬時に理解が及ぶ。
そういえば、今日はアトリアの日だ。
昨日アトリアから聞いた話をホシノは思い出していた。
二人の人間が一つの肉体を共有するというのは思っている以上に生活し難い。解決策を探してアトリアとリアは話し合い、一日毎に交代して活動することにした。
「プライベートを覗くのは気が引ける」というアトリアの意見と「頭の中で怒られたくない」というリアの我が儘を採用する、お互い納得した方法だ。
片方が活動している間は、もう一方は意識を落とす。本人達曰く、感覚としては寝ている状態に近いようだ。
ホシノは四時間前に夕食を一緒に食べたのは、アトリアであったことを再確認して、返事をする。
「起きてるよ」
返事を聞いたのか扉が少し開く。ほんのり頬を染めたアトリアが扉の隙間から顔を出した。
「入って良い?」
ホシノは頷く。
アトリアは一度嬉しいそうに顔を明るくすると、カートを押しながら部屋の中に入ってくる。
廊下の暗がりから一歩踏み出す毎に影が払われ、室内灯がアトリアとカートの姿をはっきりとさせる。
まず全体が見えたのはカートの方だ。装飾のついた白いカートの上には、ソーサラーに乗ったカップ。そして口から湯気が上がっているポットが置かれている。
次に明かりが照らしたのは、アトリアの体だった。身に纏うのは首回りや袖にフリルの付いた菫色のネグリジェ。生地はコットン、遠目から見ても触り心地の良さそうな可愛らしい印象だ。
髪は少しだけ濡れていて、頬もほんのり色付いている。
風呂上がりだろうか、ホシノは色っぽいアトリアを見た時に自分の体が火照るのが分かった。
アトリアはカートを部屋の中央に置いて、淑やかや歩みでホシノの右隣に立つ。
アトリアが隣に立った瞬間に、優しい石鹸の匂いがふわりと香ってきた。ダリウス邸で使わせてもらっている、男用の石鹸とは違う。花の密が混ぜ込んである、華やかな香りだ。
ホシノはアトリアの顔を見る。湿り気を帯びた首筋が、ほんのりと赤らんでいる。蒼い瞳には室内灯の明かりが映り込み、月を映す海のような輝きを放っていた。
「勉強進んでる?」
肩に掛かる濡れた後れ髪を、搔き上げるようにしてアトリアが尋ねてきた。
ホシノは反射的に首を振る。その美しさに声さえ出ない。
「どこが分からないの?」
アトリアが座っているホシノの視線に合わせるように、腰をくの字に曲げて姿勢低くした。
ちょうど目の前に、胸の谷間が迫る。
膨よかな乳房。拭き漏らした水の一粒が、なだらかな弧を描きながら谷間に吸い込まれていく。元のアトリアの体よりも二回りは大きいサイズ。
ホシノはその圧倒的迫力にゴクリと生唾を飲み、机に向き直る。
「どうしたの?」
返事のないホシノを心配したのか、アトリアが尋ねてきた。ホシノは動揺を押し殺しながら返事をする。
「数学が分からなくて」
「数学ね」
ホシノは
時折ゆっくりと閉じ、開けられる瞼。長い睫毛が、瞼の動きに合わせて動く。
「――――」
アトリアの桃色の唇が微かに動く。小さく開かれた口の中で、微かに舌先が動いているのが見える。何を考え、呟いているのだろうか。舌の動きの妖艶さに、ホシノの視線は釘付けになる。
「これはね」
柔らかそうな唇が、揺れる花びらのように変化しながら声という音を奏でた。声が聞こえた瞬間にホシノの鼓動か高鳴った。
「πを使って扇型の面積を求めた後に、正方形の面積を引くのよ」
慌てて液晶角膜に映る図形に目をやる。確かに言う通りにすれば面積が求められそうだ。
「ほんとだ、ありがとう」
アトリアはどういたしましてという風に、微笑みながら一度首を傾けた。
肩に乗っていた髪の毛が、反動でさらりと肩口を撫でて前に垂れ落ちる。
「他にも何か分からないことある?」
アトリアが優しい眼差しでホシノを見つめてきた。薄明かりの中に浮かぶアトリアの顔はどこか大人びていて、これ以上甘えると戻れなくなりそでホシノはぐっと我慢した。
「大丈夫。数学で分からないのはこれくらいだよ」
「そう。なら、別の教科でも良いのよ?私の分かる範囲でなら教えられるから」
ホシノは少し考える。分からないことだらけであったが、どれも今更勉強しても足りない。学校に行きながら、少しずつ基礎学力を上げていくしかない。
「いや大丈夫、すごく助かったよ。また分からない所があったら教えてね」
ホシノが言うと、アトリアは照れ臭そうに笑って首を振った。髪がふわり動く度、石鹸の香りが辺りに広がる。
「こんなの、ソウガ君にして貰ったことに比べれば大したことないわ。フレッドから助けて貰って、その後死んだはずの私をもう一度見つけてくれたんだから。ソウガ君がいなかったら、今頃どうなっていたのか分らない。改めてありがとう、助けてくれて」
アトリアが、真っ直ぐな瞳をホシノに向けてきた。青く澄んだ瞳。守りたかった瞳。
アトリアが目の前にいる嬉しさがじんわりと湧いて来る。
「あんまり根を詰めると、頭に入らないわ。休憩がてら、お茶でもしない?」
丁度休憩しようとしていたところだ。ホシノは喜んで頷いた。
それを見てアトリアが、嬉しそうに小走りにカートに向かう。
細い指先でポットの持ち手を握り、カップに液体を注ぐ。
カップの中に湯気が立ち、部屋の中に濃厚なミルクティーの香りを運んだ。
ホシノは瞼を閉じて、その香り一時楽しんだ。
「そういえば、確かリアは美術が得意みたいよ?」
「そうなの?」
「私もあの子と再会してまだ二日しか経っていないから詳しくは分らないけれど、部屋に描きかけの絵やスケッチが散らばっていたから好きなんだと思う。美術は単位が取りやすい滑り止めの授業だっていうし、基礎くらい教えてもらうのも良いかも。明日尋ねてみたら?」
「うん、そうだね。聞いてみるよ」
アトリアのスリッパの足音がする。甘い香りが近づいて来る。
「はい」
と、声がしたので瞼を開ける。
ホシノの正面机の上に、花柄のカップに注がれた薄香色のミルクティーが置かれていた。
「粗茶ですが」
アトリアが顎を上げて、鼻を高くして言った。
言っていることと態度があべこべで、ホシノは息を吐くようにして笑う。
アトリアもそれを見て口に手を当てて、上品に笑った。
部屋の中に二人の笑い声が鳴る。
外で吹く冷たい風を押し止めるようにして、窓がカタカタと揺れる。
ホシノはカップを手に持って、ミルクティーを口に含む
甘く華やかな味が口いっぱいに広がる。
疲れた体が癒えるようで、ホシノはほっと息を吐いた。
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