第二十幕 さようなら

 火災を止めるために撒かれ水が、水溜りを作っていた。水鏡に映る自分の顔は、呼吸と合わせて生じる波紋で歪んで見える。


 ホシノさえいなければ世界は救われる。ダリウスはそう言っている。だがホシノには自分が死ぬことが問題の解決策になるとは思えなかった。

聞く限り天核アトリアに干渉できるもう一人の人物、終末の巫女は死んだわけではない。他世界に移動しただけだ。なら自分が死んだ後に巫女が現れれば、もう世界を変える力のある者がいなくなってしまう。


 他世界なんていうものが実在するかはこの際どうでも良い。否定したところでダリウスがあると言っているのだから、この状況の解決にはならない。


「終末の巫女がいる限り、アトリアも世界も壊される可能性は残ります」


 ホシノの言葉に、ダリウスは首を振って応える。


「巫女が戻ってくることはないだろう。物理法則の異なる他世界に行って、存在できるとは思えん。それに、今は出来ることをするだけだ。少なくとも君を生かしておけば、直ぐにでもアトリアは死ぬだろう。その為に君達は出会ったのだから」


 ダリウスは意思を変えなかった。ホシノはいよいよ追い詰められた。もう話し合いでどうにかなる問題ではない。もう逃げるしか選択は残っていない。思うと、ホシノの身体は反射的に左に逸れた。


動いた勢いを押し殺さないように、ホシノは振り向いて駆け出す。

 背後から銃声が鳴り空を切る銃弾が頬を掠めた。


「待てっ、ホシノ君!」


 ダリウスの呼びかけを無視して廊下を走る。水たまりに映る自分の顔を踏みつけにしながら、無我夢中で走る。


廊下を曲がり、爆発の影響で空いた壁の穴から外に出る。


 外は粉雪が舞い、地面に白い絨毯を敷いていた。

 新雪に足を取られながらもホシノは前に進む。背後から飛んでくる銃弾が、雪を穿つ度に、死の恐怖と生の実感をない交ぜにした不思議な感覚が体を駆け抜けた。


 溢れた汗が風に吹かれて体温を奪う。冷えていく体表面に対して、体の中は生きることに必死な心臓が血液を巡らして体温を上昇させていた。


 ホシノはただ逃げることだけで頭がいっぱいだった。足元を見る余裕も無いまま走ったせいで、正面に堀があることに気が付かず、足を取られて傾斜を転がり、水音を立てて川の中へ落水する。


 苔のついた砂利。空を飛ぶ白鳥の群れ。水中と空の風景が交互に目の前を過ぎていく。

なんとか体勢を立て直すと、腕で水を掻き上げて上体を起こす。


「ぐぷっ…………ぷはっ!」


 水面から顔を出す。腰まである水量の冷たい水が、上昇していた体温を奪った。


 近くで自分のものとは違う水音が聞こえてきた。ダリウスだ。ダリウスが溺れている差を詰めて来たのだ。


 銃声が寒空の空気を穿つ。

次の瞬間ホシノの腹部に激痛が走った。痛みでバランスを崩し、前のめりになって水の中に倒れ込む。

 腹を片手で押さえながら水の中を片腕だけで掻く。このままでは溺れ死んでしまうと判断したホシノは、Uターンして元いた岸に戻ると大きく息をした。


 荒れた呼吸を整えて後ろを向く。湖面を背にしたダリウスが立っていた。

 距離にして一メートルほど。怪我をした状態でこの距離では、もう逃げ切ることは出来ないだろう。

ホシノは背中に悪寒が走った。身体に纏わりつく水と雪とが更に寒さに拍車をかける。体が生きようと必死に熱を生むが、皮膚の表面から湯気となって体の外に放出されていく。


逃げなければ。迫られるホシノの脳裏に、ゴードン技師店の看板が過ぎる

あの店を残すのだ。そのために自分は生きている。自分の生きる意味を思い出し、力に変えようとする。


「ここから逃げても、もう行く場所はないだろう」


ダリウスが冷たい眼差しで言った。


ホシノはダリウスの言葉に力が抜けて行くのを感じた。背中から倒れて、尻餅をつく。


 そうだ、その通りだ。ホシノは思う。後見人であるダリウスに見放されたら、ゴードン技師店は取り壊されるだろう。ならば店を継ぐという自分の目的も叶わなくなる。


夢は叶わない。悟った瞬間、ホシノは肩が軽くなるような気がした。頭の中でスペースを取っていた未来に対する希望が失われ、隙間を埋めるようにして疑問が生まれた。


自分が生きる意味とはなんなのか。


 ゴードンの為に、店を残すために、そのために今まで生きて来た。ゴードンが亡くなり、店も取り壊されるなら、これから自分何を目的に生きていけばいいのだろう。


ホシノは心の中で、大事なものが削げ落ちていくのを感じた。体温が一気に下がっていくのが分かる。


 引き金に指を乗せられる音がする。ホシノは目を瞑って、死を受け入れようとした。


「ソウガ君!」


 体が柔らかいものに押される。

 瞼を開ければ必死な顔のアトリアに、肩を押しのけられていた。


 アトリアの口から漏れる白い息は、粉雪の舞う空へと消える。水面にいた白鳥の群れが、アトリアの声に驚いて空へと舞った。


吐息の色。粉雪の色。白鳥の色。真っ白に包まれた世界で、アトリアの瞳だけが蒼く輝いていた。


 刹那、時の流れを奪うようなゆっくりとした銃声が鳴り響いた。

 銃口から弾丸が発射される。弾丸は粉雪を払いながら真っ直ぐアトリアへ向かって飛んで行く。

 弾丸がアトリアの喉を抉る。ホシノの鼓動が跳ね上がる。

飛び上がる白鳥。降り積もる粉雪。真白な世界を穢す血飛沫。


 銃声と白鳥の羽音が止んだとき、三つの悲鳴が空を割る。

 喉を打たれて苦痛で喘ぐアトリアと、ダリウスとホシノの慟哭だ。


「......がはっ!」


 口から大量の血液を吐き出し、アトリアは雪の上に倒れた。息を吸おうと口を大きく開けるが、喉元から風音がするだけで一向に呼吸できないでいる。


「アトリア!」


 ホシノはアトリアに駆け寄り、喉を手で塞ぐ。しかし風音を止めることも穴を塞ぐことも出来ない。


「……アトリア、あぁ……アトリアっ!」


 ダリウスも大粒の涙を流しながら駆け寄ってきた。ホシノの手と合わせて、喉を抑えるが、アトリアは苦痛の表情のまま天を仰いでいる。


喉元に空いた穴から血が湧き出る。流れ出した血が白い雪を赤く染めた。


「アトリア、しっかり! ダリウスさん救急車を!」


 ダリウスは驚愕の顔付きで一人何か呟いている。


「何故だ、アトリアはホシノ君以外には殺せないはず。なのに何で、何で私の銃弾が当たる!」


 ホシノは混乱しているダリウスの代わりに、救急のコールを消防に発信する。

 しかし何度コール音を鳴らしても、一向に誰も出ない。


「くそっ!」


 悪態をついて、想念で消防にメールを送りつける。


 喉に穴が空いただけで即死ではないのだ。素早く適切な処置をすればきっと助かる。そう思いながら、服の袖を破き、布切れにしてから喉に当てる。

 袖は血を吸い、直ぐさま赤く染まる。


 アトリアは大きな瞳を、これ以上ないくらいに開けながら空の一点を見つめていた。


「アトリア、アトリア!しっかりするんだ!」


 何度も呼びかけると、アトリアがホシノの方を向いた。

 何かを伝えようと、ホシノをじっと見つめて口を動かす。しかし言葉にならない音が、無残にも響くだけだった。


「喋らないでアトリア!」


 ホシノは言った。アトリアがゆっくりと手を伸ばし頬を撫でてくる。そしてじっとホシノの瞳を見詰めて、微笑む。


「アトリア……」


 雪の一片がホシノの頬についた。その雪を溶かすようにして、暖かい涙が溢れ落ちる。

 涙はアトリアの喉元の穴を塞いでいる手元に雨のように降り注いだ。


 アトリアの瞳から光が失われていく。唇の小刻みに震え、瞳孔が広がる。


「アトリア!」

「逝かないでくれアトリア!」


 ホシノとダリウスは二人同時に叫んだ。意識を保たせようと何度も呼ぶ。しかし段々と青ざめていくアトリアの肌は、刻々と体の衰弱を物語っていた。


 アトリアが薄い目でホシノの方を見て微笑んだ。弱々しい笑みだったが、それでもホシノの胸を打つには十分過ぎるほどの美しい微笑みだった。

 ホシノの目の前で「バイバイ」と言いたげな仕草で手を横に振り、振られた腕が力なく雪の上に倒れた。


 アトリアは動かなくなった。


 心臓の鼓動は止まり、息が止んだ。

 喉元に空いた穴から湧き出る血の量が明らかに減り、肌が青く変色する。

 アトリアの体か冷たくなるのが、喉を押さえているホシノによく分かった。

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