一時終幕 朝とパンと空の彼方

 磯の香りを運ぶ風に煽られて、柔らかい光を撫でながらカーテンが揺れる。

 ――朝か。とホシノは思う。

 寝ぼけ眼をこすり、ふかふかのベットの感触を確かめる。慣れた自分のベットの感触ではない。ここはどこだろう。思考がゆっくりと鮮明になっていく。


『ソウガ、起きた』


 スピカの声が星屑を介して聞こえてくる。ゆっくりと働き出す頭で、昨日のことを思い出す。

 モイラを倒した後、アトロポス遺跡に帰ってきたホシノは、帰ってくるなり急な眠気に襲われた。十年寝たというのに、懲りない睡魔に惑わされる形でそのまま意識を落とした。


 目が覚めると知らないベットで横になっていた。ここが一体どこなのか、ホシノには分からない。スピカに尋ねようかと思った時、部屋の向こうからスリッパの音が駆け足で近付いて来るのが聞こえた。


 部屋のドアが開く。ひょっこりとリアが顔を出した。昨晩見た髪型とは違い、長い髪を二つに結んでいる。リアはホシノを見るなり顔を明るくして脇に天核ヌーメノンを抱えて近付いてくる。


「お兄ちゃん、朝だよー。ご飯できたよ」

「おはよ、リア。ここはリアの家?」

「違うよ。お父さんの別荘。遺跡の近くにあるの」


 リアはそう言って天核ヌーメノンをベットの上に置いた。


『おはよう、ソウガ君。貴方が起きるまで退屈だったのよ。お父様の前で話すわけにもいかないし』

 天核ヌーメノンからアトリアの声がする。昨日見た淡い光は朝の光に紛れて見えない。


「おはようアトリア。ごめんね一人にして」

『いいのよ。お陰で小さい頃の私と沢山話せたし。滅多にない経験だったわ』

「それは……楽しそうだね」


 未来のことを教えたことで、変なことにならなければ良いが。どこかで読んだ小説の内容を思い出しながら、ホシノは苦笑いを浮かべる。


 リアが唇を尖らせてホシノの腕を、小さな手で握り引っ張った。


「お兄ちゃん、ご飯」

「あぁ、そうだったねリア。ごめん今いくよ」


 ホシノはベットから起き上がり、天核ヌーメノンを抱えるとリアとともに部屋を出る。


 小麦の焼けた香ばしい匂いと、珈琲の芳しい薫りが廊下の奥の方から香ってくる。

 匂いの元に向かってリアが駆けていく。二つ結びの長い髪が、床を蹴る度に愛らしく跳ねる。


 ドアの開けるとホシノの方を向いて手を振った。早く来い。そう言われているようで、ホシノは微笑ましく思いながら歩く速度を上げる。


 ドアの向こうはキッチンとリビングが一つになった広い部屋が広がっていた。部屋の中央に置かれた机には、男性が一人座っている。

 ホシノの記憶より、幾らか皺の少ないダリウスだ。


 リアはダリウスの正面の椅子を引き、ホシノを呼ぶ。ホシノはリアが引いてくれた椅子に腰掛け、天核ヌーメノンを左側に置いてダリウスの方を向いた。

 ダリウスは珈琲を飲んでいた。一口飲むと、カップを机に置く。柔らかい風が吹く部屋の中に、机を叩く陶器の上品な音が鳴る。


「娘を助けてくれたようで、君には礼を言わなければならないようだね」


 ホシノは逡巡して、モイラから助けたという意味だろうと推察した。しかしダリウスがどこまで知っているのか分からない。ホシノは答えに窮し、リアを見る。リアは口一杯にパンを頬張り、顎を動かしているところだった。


「娘の話を聞く限り、それは神霊だだったようだな。昨日この近くにある遺跡でも、神霊に襲われて沢山の被害が出た。不幸中の幸いというのか、死人は出ていないようだが一人行方不明者がいてな。今から私は彼女を探すため、奔走することになるだろ。全く、大戦が終わって世の中が平和になったといえ、危険な輩はいるものだ」


 ダリウスは眉間に皺を寄せた後、ホシノをちらりと見て一度咳をする。


「すまないな話が逸れた。何はともあれ、君が娘を救ってくれたんだ。その感謝を伝えたい。ありがとう」


 ダリウス言い終わると頭を下げた。ホシノはダリウスのつむじを目にするなり慌てて手を振る。


「あの時は自分の命も掛かってましたから、お礼を言われるほどでは……。娘さんが無事でよかったです。心からそう思います」


 ホシノは天核ヌーメノンとリアを交互に見る。天核ヌーメノンが朝の光を受けて表面を照り返らせる。リアはホシノと目が合うと、くしゃりと顔を歪めて笑った。


 ホシノは自然と顔が緩むのが分かった。二人のアトリアを救えて心の底から安堵した。ダリウスもリアを見て顔を綻ばせた。そしてもう一度ホシノに礼を言った。

 磯の香りのする風が二人の間に流れた。風の後に香ってきた濃い珈琲の香りが、ホシノの心を優しく洗った。


 風に煽られて、部屋に飾ってあるカレンダーのページがパラリと捲れる。ホシノはカレンダーを目にした時にはたと思い出す。

 自分の時代はここではない。元の時代に帰らなければならない。しかしどうやって帰ればいいものか。ホシノの疑問にスピカが応える。


『未来に行くのは簡単。ここから約五光年先に、光を超える速度で行って帰ってくればいい。そしたら十年経ってる』

『光速を越えるって、そんなこと出来るの?』


 ホシノはゼーベリオンを急発進させた時のことを思い出した。光速を超える速度で移動なんてしたら、体が持ちそうにない。


『ゼーベリオンなら余裕。移動中のGは操縦室の表面で緩和される。ある程度の重たさは感じるけど、体に支障をきたすほどじゃない。』


 スピカの説明にホシノは安堵した。

 早速食事を終えると庭の外に出る。


「本当に行ってしまうのか? もう少しゆっくりして行っても良いのではないか?」

「すみません。ここに長居してはいけない気がするんです」


 未来から来たホシノが、過去を改変した時点でどのような影響があるか分からない。これ以上過去に居座り続けると、さらに大きな歪みが生じる気がした。


 ダリウスは残念そうに頷くと、もう引き止めなくなった。代わりにリアが別れを察したのか、ホシノの側に寄って来て、腕に抱きついた。

 ホシノは天核ヌーメノンを右手に抱えながら、リアの頭を左手で撫でる。気持ち良さそうに目を細めるリアに癒された後、ホシノは呟く。


「来い、ゼーベリオン」


 瞬間、真白の神霊がホシノの前に現れた。突如として現れた神霊にダリウスが腰を抜かす所が視界の隅に見えた。


「君は一体何者なんだ?」


 ダリウスが立ち上がりながらホシノに尋ねる。


「しがない技術屋です。僕の名前はソウガ=ホシノ。十年後にまた会いましょうダリウスさん」


 ダリウスは一瞬呆けた顔をしたが、しばらくして真面目な顔つきに変わった。


「確かに覚えた。十年後にきっとこの恩は返す」


 ホシノはほっとした。このまま未来に帰っても、ゴードンとの繋がりがないこの世界で、ホシノは本当の意味で天涯孤独だ。ダリウスからの支援は絶対に得ておく必要があった。

 リアが腕に強く抱きついて、頭をグリグリと擦り付けてくる。

 いよいよ別れの時が来た、そう感じているのだろう。ホシノはリアの頭を撫でて言う。


「十年後にまた会おう」


 ホシノの言葉を聞いて、リアは只でさえ大きな瞳を期待で更に大きく広げる。

 未来への希望を抱いた瞳が、朝の光を受けて爛々とした輝きを放った。


「絶対だよ」

「うん、絶対」


 ホシノは不意に思い出す。確かゴードンから教わったが東方に伝わる約束の仕方があった。記憶を頼りに手をグーにして、小指だけを鉤形に立てる。リアもホシノを真似して、同じように指を立てた。


 二人の小指が絡み合う。

 つまりは指切り。


 掛け声を知らないホシノは、リアと指切りをした後何も言わずに手を離した。リアは頬を赤く染めて、離した指の跡をじっと見詰めている。


 ホシノはゼーベリオンに搭乗する。

 正面モニターには手を振るダリウスとリアの姿。風が二人の髪を揺らしている。きっと磯の香りを乗せた風が辺り一面に吹いているのだろう。ホシノはそう思いながら、ゼーベリオンを発進させた。


 膝に置いた天核ヌーメノンが二度光を点滅させる。光に呼応するようにして、頭の中にアトリアの声が聞こえた。


『はーっ、やっと話せるわ。お父様の前で無言でいるなんて結構大変だったのよ』

「ははは、お疲れ様」

『ははは、じゃないわ! いい加減教えてもらいますからね、昨日のこと全部!』

 

 ホシノがさてどこから話そうかと考える。考えている間に天核ヌーメノンの前に、スピカが現れた。


『それは私から教える』


『ひゃっ貴方誰?』


 アトリアの驚きに反応したのか、天核ヌーメノンの光が点滅する。

 スピカは明滅する天核ヌーメノンをじっと見詰めながら、にたりと笑みを浮かべて言う。


『ソウガの恋人』


 ホシノは操縦席からずり落ちそうになった。体制を整えている間にアトリアの低い声が飛んでくる。


『ソウガ君、これはどう言うこと?』


 ホシノは慌てて訂正する。


『恋人じゃないよ! 適当なこと言わないでよスピカ』

『適当じゃない。もうベッドで一緒に抱き合った中』

『だ、抱き合った……』


 膝の上に置いてある、天核ヌーメノンが小刻みに揺れた気がした。ついでに表面温度が上がった気がする。ホシノはこれはマズイ兆候であると察して、別の話題を持ちかける。


『す、スピカ? アトリアに姿を晒してもいいの?』

『もうモイラはいない。この世界の神はソウガになった。隠れる必要ない。さぁソウガ、堂々とエッチなことをしよう』


 両手を広げたスピカが迫って来る。膝の上にある天核ヌーメノンがジリっと音を立てて高熱を発した気がした。ばかりか見えない眼光がホシノを射抜く。


『エッチって、どういうことかしらソウガ君?』


 ホシノは声も出せず、首をブンブンと横に降る。


『ふふ、つまりはアトリアより私の方が親密という意味』


 スピカが勝ち誇った顔で天核ヌーメノンを見下ろした。

 

『わ、私だってソウガ君の体を、なっ、撫で撫でしたんだから!』

『あれはナデナデとは言わない。ただの手当て』

『な、何で知ってるのよ! どういうこと!?』


 アトリアの追求が激しさを増す。


 頭の中でスピカの甘い声と、アトリアの怒声が熾烈な権力争いを始めた。

 ホシノは頭を抱える。

 混乱が想念を乱し、動揺に応えるようにして、操縦室が赤く染まった。

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