第三十八幕 月明かりと少女

 寮の中は、板張りの床と土壁で出来ていた。

 壁は所々くすんでいたり欠けていたりして、濃い茶色の床板を踏むと軋む音が鳴る。

 窓から差し込む光が寮内の埃をキラキラと照らし、この寮だけが過去の世界にあるような風情を感じさせた。


 先に寮内に入った生徒が、玄関の奥に見える階段を使い二階に上る姿が見える。生徒が一段上る度に板が軋み、ホシノのいる玄関まで音が聞こえてくる。


 ホシノの部屋は三階にある。あの生徒と同じように階段を踏み鳴らしながら上る事にあるだろう。しかしその前に部屋の鍵を受け取らなくてはならない。


 ホシノは辺りを見渡す。すぐ左手のガラス窓の向うに、警備服を着た五人の男が木机に座っているのが見えた。恐らくここが受付で、中にいるのは寮監だろう。


 ホシノは近くの台座に段ボールを置いて、ガラス窓を手の甲で叩く。しばらくすると顎髭を生やした初老の寮監が、ガラス窓を開けて顔を出した。


「入寮生ですね。どの部屋ですか?」

「306号室です」

「306、306……あー、あの夢見の」


 寮監は独り言のように呟いた。


「はい?」

「あー、すみません。なんでも306号室のベッドで眠ると現実と見間違えるくらいの夢が見られるとか何とか、そんな噂が学生の間に広まってるんですよ」

「そうなんですか」


「他にも深夜の緑静りょくせい館に妖精が出るとか、まぁ、学校なんかじゃよくある怪談話の一つですよ。いい夢見れるんだから、幽霊みたいなのが出るより遥かにマシでしょうが、怖かったら言ってくださいね。とりあえず認証しますので、身分証と学生番号を送って下さい」


 ホシノは言われた通り身分証と昨日貰ったばかりの学生証のデータを寮監に想念で送った。

 しばらくすると寮監の眼球が上下に動き始める。送られてきた画像を液晶角膜に映して内容を確認しているのだろう。ホシノがそう思っている間に、確認を終えた寮監がホシノの方を見た。


「確認しました。部屋と脳波パターンを紐付けしたので、あとは部屋の前でこの番号を想念で送って下さい」


 寮監が言い終わると、ホシノの液晶角膜にショートメッセージが届く。メッセージには五桁の番号が記載されていた。

 寮監の方を見る。寮監は歯茎を見せながらニカッと笑う特徴的な笑顔をホシノに向けていた。


「ありがとうございます」


 人の良さそうな寮監に礼を言い、ホシノは段ボールを両腕に抱えて、二階の東側にある306号室に向かって歩き始めた。


 例の如く、板の軋む音を響かせながら三階に上がったホシノは、目当ての部屋の前に到着する。先ほど送られたパスワードを扉の端末に向けて想念で送る。


 鍵が開く音が鳴る。段ボールを抱えた腕を乗せるようにしてドアノブを下げ扉を開けると、中には十八平方メートル程の板張りの部屋が広がっていた。


 部屋の両サイドには二段ベット。奥には四組の机が並んでいる。一つの部屋に四人が共同で暮らすトリニティ学寮の基本的な部屋の内装だ。普通は四人一部屋だか、二日前に急遽入寮が決まったホシノは、一人でこの部屋を使う事になっている。


 遠慮する必要がない分楽だと思っていたが、実際目にすると部屋は思いの外広い。

 この広さなら、同居人が居ないのは少し寂しい気もする。ホシノはそんな事を思いながら、奥に並ぶ机に腰掛ける。


 一つしかない段ボールを机の上に置く。この段ボールを開けたところで、さして部屋の密度が上がるわけでもない。

 やはり、物が必要なのかもしれない。ホシノは床を見つめながら、アトリアとの約束を思い出す。


 一緒に服を買いに行く。言い方を変えれば、それはデートなのかもしれない。


「デート……か」


 思っていたことが口に出た。

 自分で出した言葉を耳にすると、恥ずかしさで頬が熱を帯びるのが分かる。

 掌で頬を包んで冷ます。熱は下がらず寧ろ上っている気がする。


 窓を開けて風を循環させようと顔を上げた時、正面にスピカの顔があった。

 鼻頭がひっ付きそうな距離。ホシノは慌てて背中を後ろに傾ける事で距離を取る。

 スピカは眉を釣り上げ、何か意思の篭った瞳を向けて言う。


『デートとは違う』


 ホシノは一瞬スピカの言葉を否定したい衝動に駆られた。けれど言葉が喉を通る寸前、諦めのようなものが言葉を堰き止めて別の言葉を発する。


「やっぱり?」


 スピカはコクリと頷く。


『ソウガの近くにはいつも私がいる。だからアトリアと買い物に行っても、それはデートとは呼べない。絶対に』


「そ、そうなのか……」


 ホシノは落胆して、肩を落とす。そもそもデートは恋仲にある二人が行うものだ。という印象がホシノにはあった。自分とアトリアは恋仲ではないし、その手前でもない。その上、スピカを含めて三人で買い物に行くのだ。これでは友人同士で買物に行くようなものだ。デートとは到底呼べない。


 ホシノは深くため息を吐く。デートという甘美な響きに一度心が踊った分、落差も大きい。

 気を紛らわせようと、机の方を向く。段ボールを隣の机に押して移動させ、正面の机に両肘を付き教科書の入ったアプリを起動させる。


 二日後、アトリアと買物に行く日は事前テストがある。このテスト結果は前日には貼り出され、順位付けされる。

 ダリウスの口利きで入った身としては、低い点数は取りたくない。ホシノは今年の受験問題を解きながら、二日後のテストに備えて日が暮れるまで勉強をした。



 ◇◇◇


 一センチくらいの厚さの牛ステーキが今夜の夕食だった。入寮を記念して、普段より豪華な献立にしてくれた調理師の叔母さんの心遣いに、ホシノは嬉しくなってタレまでスプーンで掬って完食した。


 夕食の後に食堂で寮のルール等の説明を聞いて、部屋に帰って来た頃には、八時を回っていた。その後勉強を二時間ほどして、消灯時間の十時になると明かりを消してベットに入る。


 消灯後も届けを出せば深夜学習が出来るのだが、今日は入学式や入寮式で慌しく、新しい事ばかりだったので精神的に疲れている。

 明日のために早めに眠ろう。ホシノは瞼を閉じて、睡魔が夢に誘うのを待つ。


 窓の外から微かに聞こえるコマドリとミソサザイの鳴き声が、子守唄のように聞こえてくる。

 二つの異なる、けれど似ている鳴き声が一つに合わさりホシノの呼吸を落ち着かせる。


 閉じたはずの瞼の裏から、濃い闇が意識に蓋をする。眠りに落ちるという自覚の無いままに、ホシノは寝息と共に意識を落とした。



 ............


 闇の奥から何かが聞こえる。形にならない音の波紋がホシノの意識を揺さぶる。


 ..................ろ


 朦朧とする意識が波紋に揺さぶられる事で、段々とハッキリしてくる。


「お......お......ろ」


 波紋の正体が人の声であると分かる。理解した瞬間に、頭が回転し始めてホシノの意識は目を覚ます。


「ほら、起きぬか」


 瞼を開ける。

 寝ぼけ眼でぼやける視界の中で、真っ赤な色をした塊がゆさゆさと動いている。腹の上には柔らかいモノがのしかかる感触。真っ赤な色の塊が揺れ動く度に、ぷにぷにとした何かがホシノの腹を摩る。


 この心地よいものの正体は何だろうか。ホシノは未だ起き抜けの意識のまま手を動かし、その柔らかい何かを撫でてみる。


「はうっ!なんじゃ急に」


 程よく温もりもあり、弾力もある。指腹で撫で回すと、引っ掛かりを感じないくらいにスベスベとしている。


 よく目を凝らして見てみる。柔らかいモノの正体は真っ白な肌の太股だった。

 両太股でホシノの胴を挟むようにしてのしかかる体。ビキニのような黒い衣装を着ていて、股の間を申し訳程度に隠す以外は生まれたままの姿を晒している。


 視線を上げてみる。こじんまりとした胸を、黒い衣装が包んでいた。包むといってもトップだけを隠す目的で付けられているようで、上乳も下乳も顕になっている。


 陰部以外は露出した体が、窓から零れる月明かりに照らされて淫靡な陰影を作る。

 女性に馬乗りにされている。思い至って、ホシノは生唾を飲んだ。


「寝起きの男は欲情しやすいと聞いたことはあったが、お主、触り方がエロいぞ」


 声のした方に焦点を合わせる。

 炎のように赤い髪を二つに結んだ少女が、したり顔を浮かべていた。

 クリっとした大きな瞳と長い睫毛。意思の強そうな太くて濃い眉とは対照的な、丸く幼い顔立ち。面立ちはまだ初潮もきていないのではないかと疑わしい程の幼い顔をしているが、ぷっくりとした柔らかそうな唇を悪巧みするように歪めている様は油断と隙を与えない。


「君は、誰?」


 ホシノは恐る恐る呟く。既にマウントポジションを取られている。もしも敵意ある者なら、例え相手が少女でも逃げるのは手こずるだろう。

 窓から零れる月明かりは、未だ妖艶に少女の体を照らしている。


 微かに聞こえていたコマドリとミソサザイの鳴き声の間に、キリギリスの羽音が聞こえてくる。二羽が奏でる子守唄に割って入ってきた虫の音は、明らかに異質でリズムを乱していた。


「妾はマリー、マリー=ヲルタ。お主がホシノ・ソウガとやらかえ?」

「そ、そうだよ」


 ホシノの心臓は破裂しそうだった。ただでさえ心地のいい圧迫感が下腹部を刺激して心底参っているのに、心の中を見抜くような鋭いマリーの目つきがホシノを見詰めてくるのだ。恐怖と幸福感で心臓が休む暇なく跳ね続けている。


「なるほどのぅ、やはりお主が......。ふーむ、見た目はそれ程豪胆には見えないのじゃが......」


 ベットに手をついて四つん這いになったマリーが、鼻をくんくんと鳴らしながらホシノの首筋の匂いを嗅ぐ。吐息が肌を濡らし、息を吸う際に生まれる風が肌を冷たく撫で回す。ホシノは擽ったくて、くぐもった息を漏らした。


「微かに雄の匂いがするのぅ。この匂い、妾は好きじゃぞ。しかしさっきから雌のように鳴きよって、さてはお主欲情しておるのか?」

「ち、違う」


 ホシノは見透かされたようで恥ずかしくなり、咄嗟に嘘をついた。


「ぐふふっ、そうかそうか欲情しておるのか。ならば良い。少々計画は狂うが、虜にすれば話も早いからのぅ。妾も経験のない身の上じゃが、書物でその辺のことは丹念に学んだから安心せい。最高の快楽をお主に与えてやるわ」


 マリーがほんのりと頬を染めながら、舌で自分の唇を舐める。

 唾液でしっとりと濡れたマリーの唇を目にした時、ホシノは下腹部が今以上に熱く疼くのを感じた。


 駄目だ。こんな事はいけないーーと思い、体を捻る。しかしマリーの両太股ががっしりと胴を捉えているため動く事が出来ない。一体この小さな体の、どこからこんな力が湧いてくるのか。ホシノは思いながらも、体を懸命に動かした。


『そこの淫乱女。ソウガから離れて』


 スピカの声が聞こえてきた。

 ソウガの近くにはいつも私がいる。スピカの言葉を思い出し、ホシノは安堵した。

 困った時にはやはりスピカは頼りになる。そう思いながら声のした方に視線を向ける。


 スピカは何故か全裸だった。


 険しい顔をして、腕を胸の当たりで組んでいるので乳房は見えないのもの、下半身は丸出しだ。


 ホシノは訳が分からなくなった。さっきまで服を着ていたはずだ。マリーに貞操を奪われそうになっていて困っているところを、助けに来てくれたのは有難い。

 有難いのだが、なぜ脱ぐ必要があるのか。皆目検討がつかない。


『ソウガの初めてを奪うのは私』


 自信満々の顔つきで断言するスピカ。

 問題はそこじゃないんだけど?ホシノは心の中で疑問を投げかける。


 スピカの登場で、事態はより混乱の一途を辿ったようにホシノには思えた。何せ自分の貞操を狙う全裸の少女とほぼ全裸の少女が相対したのだ。悪い予感しかしない。


 マリーはキョトンとした顔つきでスピカを見た後、何が合点がいったかのように頷く。


「なるほどのぅ。幻影じゃが意志を持っておるのか。送信元はこの世界じゃないようじゃのぅ。お主は、この小僧の番か?」

『そう。私はソウガ専用』


 スピカは組んでいた腕を解き、露出したままの胸を張る。


「ほほ~ぅ。お主、そういう趣味の持ち主なのかぇ?」


 マリーがジトっとした視線をホシノに向けてきた。そういう趣味とは、どういう趣味を指しているのか分からないが、ホシノは全力で首を横に振るう。


「なんじゃ、違うのかぇ。ミズホの言っておった二次元しか愛せないヲタクとやらかと思ったのしゃが......。まぁよい、何にせよ興ざめじゃ。流石の妾かて初めてを他人に見られながらするのは嫌じゃからのぅ」


 マリーはそう言いながらベットから降りる。

 自由になったホシノは早速上半身を起こして身構える。マリーの力はホシノが思っていた以上に強かった。一体彼女が何の目的で、自分のベットの上に現れたのか分からない。だが身の危険、主に貞操の危機がある今、彼女の一挙手一投足には注意を払うべきだ。ホシノはマリーの背中を注視した。


「そう睨んでくれるな。今日はお主に会いに来ただけじゃ。さっきのは勢い、取り立てて何かするつもりはありゃせんよ」


 マリーは両手をあげて、自分は危険ではないことをアピールする。だが例えマリーに悪意がないとしても、ここは三階。しかも電子錠でロックされた部屋である。容易に侵入できる場所ではない。しかも寝ていたとはいえホシノ気が付かれることなく侵入しできたのだ。只者であるはずが無い。


 ホシノの頭に、寮監の言葉が浮かぶ。

 この部屋のベッドで寝れば、現実と見間違えるくらいの夢が見れるらしい。これはホシノの夢で、マリーは夢の中の住人なのだろうか。


「一体、君は何者?」


 ホシノの言葉にマリーは肩越しに振り向いて、再び何かを企むようような笑を浮かべる。


「そのうちに分かるはずじゃ。それまで、時折お主の動向を伺いに来る。妾を幻滅させるなよ、ソウガ=ホシノ」


 その言葉の後、マリーの体は光に包まれた。柔肌がポロリと崩れるようにして、光の粒に変わっていく。ゼーベリオンが消える時と同じような事が、マリーの体に起こっていた。


 光になって消えていくマリー越しに、眉間に皺を寄せたスピカの顔が見えた。

 スピカの表情を見てホシノはなんとなく察した。マリーがこの世界ではなく、別の世界の住人であることを。


 マリーの最後の欠片が、天井に向けて舞い上がり消えた。

 静まり返った部屋の中に、コマドリとミソサザイの鳴き声だけが響く。キリギリスはどこか遠くに消えたのだろう。


 静けさの中でスピカは自分の体をドット絵に変えて、普段着である黒いワンピースを着用する。

 冗談など微塵も含まない真剣な顔付きでホシノを見て言う。


『ソウガ。あれは別の世界の超在者アプリオーン


 夜風が吹いたのか、窓ガラスがガタガタと音を立てて揺れた。

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