第九幕 歯車と貴族の理由
懐中時計が時を刻む。
均一に摩耗するよう設計された歯車が、一刻一刻違う音を耳に運んでくる。それは毎秒違う乙女の吐息を聞いているような新鮮さで、フレッドの耳を擽る。
父に連れられて訪れた時計屋で、この懐中時計と出会った時は運命を感じたものだ。小さな歯車が忙しく動き、初心な一時を運んでくる。社会の縮図を形にしたような精巧な仕掛けを手の中に収められる。子供心にフレッドは懐中時計の虜になった。
それが今では自分を追い詰める音に思える。憎らしくも滑らかに進む秒針が、フレッドを高台から突き落とそうと画策する悪魔の笑い声に聞こえてならないのだ。
フレッドは耐えられずに懐中時計の蓋を閉じ、上着のポケットにしまった。
アトリアを捕らえた後で学園に踏み込んだ理由を上に報告しようと考えていた。理由は幾らでも偽証出来たが、逃したとあっては偽証した所で責任問題は追求される。さっきまで上から事情を説明せよと引っ切りなしに連絡が来ていた。その全てに対応し、時間を与えて貰ったのは一重にヴランシュバイク家の名があってこそだ。
学園から少し離れた位置にある、運命値研究所の所長室で椅子に腰掛けながら待ち人が来るのを待つ。
空を飛ぶ卵、アレは一体何だったのかと推理を巡らす。大物を逃した苛立ちと、中途半端に満たされた情欲で喉が渇く。
液晶角膜にメールの通知を知らせるアイコンが表示される。中身を確認する。しばらく呆然としたが、深く思考を巡らせると笑いがこみ上げてきた。
「これはいい発見だ」
時刻は十八時を回った所だ。もう太陽は沈み、今日という日の名残が微かに外の景色を赤く染めている。闇に堕ちる空を自分と重ねていた数分前。
しかし今は違う。高台に居残る、いや遙かな高みへ飛翔する為の手段を手に入れた武者震いで手が震える。
懐中時計は今も刻々と時を刻んでいるだろう。秒針は破滅までの道のりを刻んでいるのかもしれない。だが考え方を変えれば、高みへ飛翔するための苦難の一つのようにも思える。
これは一種の賭だ。運命の針がどちらの側に進んでいるのか、屋上付近にある所長室の窓から地面を見下ろし自分の成功を堅く信じながら薄い笑みを浮かべた。
部屋の扉を叩く音がした。
部下が待ち人を連れてきたのだ。
扉の前で敬礼する部下に顎で合図し、扉を開けさせる。
別の部下に背中を押されて、ダリウスが躓きそうになりながら部屋の中に入ってきた。
「ようこそ、ベルナール教授」
フレットは椅子に座ったまま机に両肘をつき、顎の前で両手を組んだ。
ダリウスが背中に銃口を突きつけられて、渋々ながら歩いて机を挟んだ正面に立つ。
「その様子だと二人は上手く逃げ出したようだな」
「やはり貴方が手助けしたのか。会議室に閉じ込めるだけでなく通信手段も奪っておくべきだったな。あんな神霊を突然登場させて驚かされたよ」
「神霊?何のことだ」
ダリウスは眉間に皺を寄せた。神霊など知らないと言いたげな自然な素振りだ。
「まぁいい。あの神霊も気になりはするが、今は運命値の研究を優先させたい。昨日、私の父デュークが倒れた。延命措置を施しているが、もう長くはないだろう」
ダリウスの眉を上げた。ポーカーフェイスを装っているが驚きを隠し切れていない。
デュークはダリウスの故郷ブルンデンブルグの州知事を二十年も勤めていた。四度行われた州知事選は他の立候補者を抑え、安定した得票数で当選し続けた。
何も清廉潔白の為政者だったから当選を続けたわけではない。汚職や賄賂は当然のように手を染めていたし、犯罪組織とも密接に絡んでいた。しかしその闇を一切表には出さず、手に入れた財源と繋がりを資本にして州を豊かにし、自分のポストを守り続けた。
ある意味政治家に一番必要な才覚を持っていたと言える。
ダリウスも研究資金を得る為に、ヴランシュバイクの家の門を叩きデュークに会いに来たことがある。
デュークが居なければ今の職には就けなかっただろう。父はダリウスにとって恩人と呼べる人物であるはずだ。フレッドはそう推察しながらダリウスの表情の変化を見ていた。
「病を患い、政界から去られたと聞いていたが、まさかそこまでお体を悪くされていたとはな。そうか、だから君はあんな手段で娘を攫おうとしたのか。デューク侯爵が亡くなる前に成果を上げて、家督を継がせて貰えるように」
「その通りさ。僕には時間が無い。このまま何事もなく父が亡くなれば、運命値の高い僕を差し置いて兄が当主になってしまう。しかしそんなことは許されない。何せ神が私の方が必要だと言っているのだよ? たかが数年先に産まれただけで家督を継げるなんて、古い仕来りは払拭しなければならないのだよ。そうでなければこの僕が、神に選ばれたこの僕が、その辺の平民と同じ所に落とされてしまう。そんな歪みが許されてなるものか」
「神の意志がどこを向いているのか分からんが、デューク侯爵が倒れたなら息子として見舞いに行くべきではないのか?学園に無許可で乗り込み、あろう事か私の部屋の壁をぶち壊す必要はなかろう」
「ふふ、生徒との壁をなくそうとする君らしい部屋になったじゃないか。それにあれは僕のせいじゃないよ? 上がどう判断しようと、全部卵がやったことさ。それに父の見舞いなど行くつもりはない。そもそも父が初めから長子相続なんて古い仕来りを撤廃して、あの背脂の塊のような醜い兄ではなく、この僕を当主として選んでおけば良かったんだ。毎日コミックばっかり読んで変な玩具を集めてばかりいる低能な兄が貴族で、何でこの僕が一般人に落とされなきゃならない。僕には夢があるんだよ。この世界を豊かにする夢が、責任が。その為にはヴランシュバイク家の力が必要なんだ。さぁ、分かっただろう教授。彼らの行方を教えて欲しい。これはお願いじゃなくて脅迫だよ」
ダリウスは口を結び、嘲笑のつもりか鼻を鳴らす。
「そうか……言わないつもりか、まぁ構わないけどね」
フレッドは一枚の画像データをダリウスに想念で送る。
ダリウスの液晶角膜に強制的に開けられたその画像には、ホシノの顔写真と個人情報が映されていた。
「ホシノ君を使って脅そうとしているのか?残念だが例え彼が危険にさらされても、愛娘の一生には変えられんよ」
「僕としてもその方が嬉しいけど、ちゃんと画像は下の方まで見た方が良いよ」
フレッドがそう言うと、ダリウスは眼球を上下に動かし始める。液晶角膜に展開された画像をスクロールしている時の眼球運動だ。
フレッドはダリウスが画像を確認している間、自分も同じように画像を改めて確認する。
住所や年齢、家族構成などといったフレッドにとってどうでも良い情報は飛ばし、画像の下の方を見る。
星屑のID番号やDNAの塩基配列など本人すら知りようのない記録をさらりと流した後、フレッドにとって何より重要な項目でスクロールを止め、思わず笑みを零す。
ダリウスもあり得ない数値を見て愕然としている。ばかりか口を押さえ、嘔吐いている。
ホシノに与えられた数字の滑稽さと、自分の夢へと近付くチャンスを手に入れた愉快さにフレッドは可笑しくて堪らなくなり大声で笑う。
液晶角膜に映るホシノの運命値の項目に映る《0》の数字。果てしのなく続く終わりのないゼロ。数字は今も更新されているが、幾らスクロールしても正数が現れない。フレッドは愉快で堪らなかった。
運命値は影響力を表した数値だ。そのため当人が悪人であれ、善人であれ生きているだけで正の数を与えられるはずだ。それが事もあろうにゼロ。その辺の浮浪者を引っ張り出して強引に血を抜いても九以上はあるというのに、あの少年はゼロなのだ。
アトリアの数値も十分凄いが、それよりもホシノの数字の方がフレッドにとっては魅力的だった。
フレッドは立ち上がり、絨毯の上で膝をついて嘔吐いているダリウスを見下ろしながら言う。
「素晴らしい発見だろう? この世の中に居ても意味の無い人間が存在するんだ。彼が何をした所でこの世に何の影響も及ぼさず、誰の為にもならない。蛆虫ですら死体を分解するという重要な役割があるのに、だ! 僕は彼と会話したんだ。見るからに平民然としていたが、僕は彼と会話し、あろう事か体当たりされて傷まで負わせられた。本来なら存在することすら出来ない彼が、何故僕に干渉できる? 何故体当たりできるんだ? ベルナール教授、ホシノ君の親は経歴上はゴードンという技師になっているが、出生記録が見当たらないんだ。彼の親は一体誰なんだい?」
ダリウスはじっと床を見詰めている。
「動揺して返事をする余裕もないのかな? まぁいいさ、手は打ってある。明日には彼の出生の秘密が分かるだろう。問題は運命値ゼロの彼を、誰がどうやって生んだのかって所が重要なんだが、今の教授に尋ねた所で良い意見は聞けそうにないね。だから彼の居場所について話を戻す」
フレッドは放心状態となったダリウスに近付き耳元で囁いた。
「僕はもうアトリアのことは諦めるよ。彼女も非常に興味深いけど、これからはホシノ君を調べることにする。そっちの方が運命値の研究は早く進みそうだ。なにせ彼は存在しない人間だから何をやっても新しい発見ばかりだろうし、誰からも咎められることもないしね。だから二人の居場所を教えてくれないかな? 教えてくれたらアトリアには手を出さないと誓うよ。でも教えてくれなかったらアトリアの命の保証はしない」
太陽が地平線を黄金の糸のように輝かせながら消えていく。
所長室が夜の闇に飲まれていく中、フレッドは腰に携えたサーベルの柄を握る。金属製の鋭利な音が、闇に飲まれた所長室の中に響き渡る。
ダリウスが顔を上げた。明かりはなく、最早表情は分からない。
「は、はは……はははははっ!」
ダリウスの笑い声が暗闇の中で不気味に聞こえてくる。
「……何が可笑しい」
フレッドは顔をしかめた。そしてダリウスの顔を確かめようと部屋の明かりを点した。
一瞬ダリウスの表情が見えた。充血した目をこれでもかと見開き、顎の筋肉をだらしなく緩め口を開けている。室内灯がフラッシュのようにダリウスの表情を照らし、より印象深くフレッドの瞼に焼き付けた。
眩しさで思わず瞼を閉じる。瞼を閉じても焼き付いたダリウスの顔だけが闇の中で怪しく揺れる。
「お前にはアトリアを殺せない。所詮お前は役者に過ぎない。幾ら剣を振ろうが喚こうが、舞台に幕を下ろすことなど出来はしないのだ」
「ほう、殺させないではなく、殺せないとはな。際しく聞きたいね」
「お前に話すことなどもう無い。いや話した所で無意味だ」
フレッドは光に慣れてきた目を開け、ダリウスを見る。
再び下を向いているダリウスに、フレッドは両腕を広げて肩を落とす。
「アトリアには一切触れるな」
ダリウスが一言零した。その後フレッドの液晶角膜に、メールが一通届けられた。ダリウスからの想念のメールだ。中には地図が添付されている。
「勿論、約束は守るさ」
フレッドは部下に顎で指示を出し、ダリウスを連れて行かせる。
窓の外では、夜の闇の中で建物の明かりがぽつぽつ灯るのが見える。
上着のポケットから懐中時計を取り出す。
蓋を開けると相も変わらずせっせと秒針が動いていた。
秒針の奏でる音は心地よく、フレッドは自分の未来を思い描きながら、しばらく時が刻まれる音に酔いしれた。
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