第二十七幕 寒天と少女と子守唄
波の打ち返す音がする。口の中にはざらりとした感触。血と混り合った砂が、口の中に奇妙な味を広げる。
瞼を開ける。視界の縦半分が砂に覆われていた。砂浜にうつ伏せになって倒れている状態なのだろう。気付いたものの、立ち上がることはおろか顔を上げる気力も湧かない。
視線の先には長い砂浜と森の茂り。スピカの気配はない。また、モイラに存在を否定されたらしい。
――独りか。ホシノは冷たい陸風に煽られながら思う。
結局何もできなかった。アトリアを救うことも、世界を救うことも。時空を飛び越えてまで出来たこととはただの時間稼ぎで、自分は世界を救えるんだと息巻いていた時のことを思うと笑えてくる。
拾ってくれた養父はモイラの差し金。アトリアは、世界を破壊するために送られてきた装置だった。世界は全て仕組まれていた。そんなことはうっすらと分かっていたが、指摘されただけで動揺してしまったのが悔しい。
モイラに突きつけられて迷ってしまった、自分の存在意義。自分はなぜ生まれて、何故世界に存在しているのか。ずっと考え悩み続けてきた理由が頭を過ぎる。
神には世界を破壊する為の引き金として生かされ、教徒からは蔑まれ馬鹿にされる。
――不要の子供。
周りから与えられ、自分自身が与えてきたホシノの存在価値。
運命値ゼロ。価値のない生き物。ずっと昔から抱えてきた自分自身の問題に、結局はぶつかってしまったのだ。
そして負けた。完膚なきまでに心をボロボロにされて、モイラに、運命に敗れたのだ。
世界を救えなかったのは弱かったからではない。自分自身が背負った業に、運命に抗えなかったのだ。
ホシノは目頭が熱くなるのを感じた。熱いものが頬を伝い、真下の砂を濡らす。
嗚咽が漏れて口の中に砂が入ってきた。息苦しいが砂を吐き出す気力も出ないまま、ただ苦しみに喘いだ。
胸が痛かった。生きる意味とは何なのか、モイラに指摘されて迷った自分が許せない。迷いのせいで、アトリアを、世界を救えなかった。自分の不甲斐なさに呆れて涙が止まらない。
ざくりと涼しい音がした。砂を踏む足音だと気付いた時には、足音は間近まで迫っていた。
顔を上げて確認する。小さな影がホシノの前に立っている。
月明かりが闇夜を払い、砂浜に明かりを落とす。砂に埋まる
天使の輪のように輝く、美しい髪がホシノの瞳に焼きついた。
上質の絹のようなきめ細かい肌から闇が払われ、少女の姿が露わになる。
蒼い瞳の少女がそこに居た。
おませなパジャマを着て、リボンで括ったおさげを肩から下げて立っている。
少女はどんぐり眼を瞬かせて、小首を傾げてホシノを見た。
「お兄ちゃん、泣いてるの?」
雀の鳴き声を思わせる可愛らしい声の少女。怖がらせないように、ホシノは笑みを浮かべながら頷く。
「転んじゃったの? リアもね、自転車に乗るとよく転ぶよ」
少女は辛そうな顔でホシノを一瞥して言う。
少女を心配させまいと、ホシノはゆっくり起き上がる。少女を見ていると不思議と起き上がる力が湧いた。
「痛いよね。転ぶと」
ホシノは言った。
リアが眉尻を落としてコクリと頷く。
「痛い時は、ルーシェ姉さんが魔法をかけてくれると痛くなくなるよ」
ホシノの頭に、先ほど会った考古学者の顔が浮かぶ。ルーシェとはあの人のことだろうか。だとすると痛みがなくなるのも分かる。ホシノはルーシェの不思議な懐かしさを思い返しながら、笑みを浮かべて返事をする。
「凄いね。じゃあ僕にもかけて、その魔法」
リアは困った顔をしてブンブンと首を横に振る。おさげが月光の中でふわりと踊り、銀鱗の粉を辺りに塗した。
「んーとね、魔法は異国の言葉だから、ルーシェ姉さんじゃないと使えないの」
「……そっか残念だね」
ホシノは苦笑いを浮かべた。あのルーシェの魔法なら元気を貰えるかもしれない。そんな風に思った自分が馬鹿らしい。そもそもリアに、気分を癒してもらおうなんて虫のいい話はない。自然と肩が落ちて俯いた。
足下には自分の影。月明かりは出ているというのに、自分の影のせいで足下だけは暗い。
「だから代わりに、お歌を歌ってあげるね」
ホシノは顔を上げた。
リアは大きく息を吸って空を見上げている。
リアの蒼い瞳が、月光を映して輝いている。
――眩しい。とホシノは感じた。
眩しさに、ホシノも釣られて空を見る。
満天の星空がホシノの上で瞬いていた。大きな光から小さな光まで、それぞれが主張するようにして輝いている。
こんなにも夜空に星はあったのか。ホシノは感動で肩が震えた。
――ルルル ルルル 我が子よ眠れ 卵を抱いて―――
寒空を温めるような優しいソプラノの歌声が聞こえてきた。
歌声のする方を向くと、リアが可愛らしい唇を動かして歌を唄っている。何故その歌を知っているのかとホシノは思う。だが美しい歌声に疑問は洗い流され、いつしか涙は止まっていた。
――無理に起こせば 卵は割れて 貴方はきっと 泣くでしょう――
――だから眠れ 大に眠れ 卵が孵る その日まで――
陸風がリアの髪を揺らす。空から降り注ぐ月光が、リアの髪を煌々と輝かせた。
ホシノは心地よい余韻を感じながらしばらく黙り、幻想的なひと時に身を浸した。
しばらくして、歌い終わったリアにホシノは尋ねる。
「君がどうしてこの歌を?」
リアは小首を傾げ、不思議そうな顔をする。
「この歌はリアが作ったんだよ。知ってて当然だよ」
ホシノは驚いて、自然と口が半開きになる。自分が口遊み、心の支えにしていた歌。その作者はリアだった。
ホシノは嬉しかった。嬉しくて、リアの名前が気になった。今の今までこの歌に支えれてきたのだ。作者のフルネームくらい、ちゃんと知りたい。
ホシノが尋ねるとリアは「えへへ」と笑い、まるで自分の名前を言えることが
「アトリア、アトリア=ベルナール。六歳!」
リアはエクボを作って笑った。大きな波の音がホシノの背後で、まるで背中を押すように聞こえてきた。
歌を作ったのはアトリアだった。母の思い出の歌であり、悲しい時にいつも歌って支えてくれたあの歌。その作者は幼いアトリアだったのだ。
ホシノは世界を滅ぼす為にアトリアと出会った。きっとそれは事実だろう。けれどこの歌はアトリアに
モイラの運命の外側にある歌。
この世に、運命を超えるものがある。
運命は越えられる。幼いアトリアが、ホシノに教えてくれた。
ホシノは嬉しくて目頭が熱くなった。神の意志を介さない、思いがある。運命を乗り越えて届く、願いがある。二つの喜びがホシノを満たす。
運命に抗うもの。それは小さな歌だったが、誰かを喜ばせようとするアトリアの優しさそのものだった。
「ちゃんとあるじゃないか。馬鹿だなぁ、僕は……」
ホシノは嬉しくて笑いながら泣いた。涙は止めたくても止まらなかった。
リアが心配そうな顔で肩に手をやった。
「お兄ちゃん、また泣いてる」
ホシノは笑顔で応える。
「うんうん。これはね、悲しくて泣いているんじゃなくて、嬉しくて泣いているんだよ。リアの歌が凄くいい歌だったから、涙が出たんだ」
「ほんと!? えへへー」
リアは嬉しそうにその場でクルクルと回る。
月光の粉を塗したおさげが、ゆらゆらと舞うのを見て、ホシノは冷え切っていた体が温まるのを感じた。
リアが回るのをやめて、驚いた顔で森の方を指差す。
「お兄ちゃん、あれ何?」
ホシノはリアの指が差し示す方向を見る。
森の中で、優しい光が闇夜を照らしていた。
「宝物かも!」
リアは駆け出す。
「ちょっと危ないよ」
ホシノは反射的に立ち上がり、リアを追った。さっきよりも体が幾らも軽くなっていた。
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