第二十六幕 運命と空の輪舞曲

 誰かに呼ばれた気がして、ホシノは背後のモニターを確認する。人影のようなものは写っていない。ホシノはスピカの方を見る。スピカは何故見られたの分からない様子で目を瞬かせている。いったい誰に呼ばれたのか。ホシノは首を傾げる。


 正面モニターに映るハダルが海面上で停止した。ハダルの足元の海が円状に波を立てている。


 まさか飛行機能まで付いていたのか。とホシノはハダルが飛んだ時に驚いた。空中で静止できるということは、ゼーベリオンと同じ何らかの方法で重力を制御しているのだろう。自分の知らない機能をハダルは備えているのかもしれない。未知数なスペックに、ホシノは額に汗が沸くのを感じた。


〈何故諦めようとしない。今我を倒したところで、お前の知る世界はもう壊れたはずだ〉


 モイラの声を星屑が拾う。


「例えみんなが忘れても、僕はみんなのことを覚えている。みんなを助けて世界を取り戻すためなら、僕は忘れられたって良い!」


 ホシノは真っ直ぐにハダルを見る。激情は胸の中で渦を巻いていたが、頭は落ち着いている。以前とは違う。ホシノは確かな手応えを感じた。

 雑念のないクリアな思考の中に、不気味な音が沸いて出る。

 低音と高音を引き延ばしてかき混ぜたような音。頭の中で響いている。


――不協和音。

 

 耳を傾けて集中して聞くと、頭が変になりそうな気味の悪い音色。耳を塞いでも音は鳴る。ホシノは意識をモイラだけに集中し、音を意識から隔離した。

 音が聞こえなくなると、モイラの声が頭の中に響く。


〈おめでたい奴だ。我の干渉がどこから始まっているかも分からぬのだから〉


 モイラの言葉一つで、ホシノは何故か苛立ちを感じた。恨みのある相手の声だからではない。感情が意図せず揺れてしまうのだ。

 モイラの言葉一つがホシノの心を乱す。たった一つの言葉で、心拍数と脈拍が弧を描いた。

 ホシノは息を吐く。落ち着けと、念じながらモイラに返す。


「どういう意味だ」


 頭の中で集団に嘲笑されているような声がする。ホシノは頭に血が上ったが、これも不協和音と同じものだと気付く。

 これはモイラの策に違いない。ホシノの心を乱して、想念の精度を落とさせる狙いだろう。

 落ち着く為に息を吐く。呼吸する度に冷静になる思考。代わりに体は熱くなった。


 酸素が循環し、心臓が大きく脈打つのが分かる。体が焦っても、心ばかりは焦らない。そう思いながら、額から湧く汗を手で払った。


 ムッとする操縦室。朦朧とし始める意識の中で、モイラの声だけが鮮明に聞こえる。


〈所詮、この世の全ては我が傀儡。お前の大事にしている娘もその親もな〉

「だからなんだ。そんなことで意思が変わると思うな」


 ホシノは正面モニターに映るハダルを睨んで言う。


〈ならばどこからが我の意識が働いたと思う?〉


 ホシノは逡巡した。逡巡して、考えさせることこそモイラの狙いだと踏んだ。

 案の定警報が鳴った。


『ソウガ、上!』


 スピカの声がする。

 見上げると、無数の光の槍が空から降ってきた。


「くっ!!」


 ホシノはゼーべリオンを急発進させ、横に避けることで光の槍を躱そうとした。しかし光の槍は避けた軌道に沿って追尾してくる。


 ホシノはかけよと想念する。ゼーベリオンは指示通り、薄暮の空を翔けた。槍はまだ追ってくる。ホシノは舌打ちした。


〈お前はあの娘を殺したのは我だと思っているだろうがそれは違う。我は天核ヌーメノンに干渉出来ない。干渉出来ないものは、どうやっても殺すことなど出来ない〉


 光の槍がゼーベリオンを追尾する。いくら逃げようとも追ってくる槍に、ホシノは歯がゆい思いがしてきて奥歯を噛み締めた。どこまでも追ってくるのか。逃げることは出来ないという切迫感に迫られる。


 ホシノの焦りに気がついたのか、モイラが人差し指を天に向けた。指の先に閃光が生じると、ゼーベリオンが大きく揺れる。

 けたたましい警報音が鳴り響く。ホシノは体は揺さぶられ、左右に揺れる。ぶれる視界の中モニターを見ると、遷移確率を示すウィンドウが数値を急上昇させていた。その数値、五二。残り半分しかない。


「一体なんだ!?」


 焦りが声を大きくした。眉を潜ませたスピカが直ぐさま返答する。


『亜高速兵器。避けるのは無理』


 背後から光の槍が追ってくる。

 ハダルが人差し指を天に向けようと腕を上げた。


 同時に二つの情報がホシノの視界に入ってきた。脳神経シナプスが危険を知らせるドーパミンを分泌させる。体が燃えるように熱くなり、背中は死の恐怖で冷や汗を掻いた。温度の違いに体細胞は混乱する。混乱はホシノの頭の中に、焦りとなって伝わってきた。


 ホシノはひゅっと息を吐く。吐ききっていない状態で直ぐさま止める。息を止めたと同時に時間が止まっているように、ゆっくりと動き出した。集中力が極限にまで達した時に起きるゾーンと呼ばれる現象だ。


 ホシノはまず向かってくる光の槍を、ゼーベリオンを上下左右に回転させることで躱した。槍の一本一本が、ゼーベリオンの表面すれすれを掠め、通り過ぎていく。通り過ぎていく槍を目にする度に、肩の強ばりが緩む。

 続いてハダルの人差し指に注意を向け、天を向く瞬間に機体を横移動させようとした。ハダルの人差し指から閃光が走り、ゼーベリオンに向かってくる。光の刀のような閃光を見出したその刹那――


〈お前が殺したのだ〉


 モイラの声が頭の中に響いた。


 集中力が霧散する。白亜の輝きが真正面からぶち当たる。

 操縦室は左右に揺れ、警報音がホシノの聴覚を麻痺させた。


『ソウガ、モイラに集中を乱されちゃダメ』

「分かってる。でも……」


 聞かないように意識を逸らそうと試みるも、念話を遮る術はない。堪らずホシノは顔を顰める。


〈例え娘と貴様を出会わせても、それ以上の干渉は出来ない。だがあの娘はお前を守るため死地に飛び込んだ。それはお前があの娘に干渉し、あの娘の心を変えた結果だ〉


「くっ!」


 動揺がモニターに映る心拍数に現れた。峻険な山を描く心拍数が、操縦室を赤く染める。


〈お前は娘の中で大事な存在になったのだ。だから命を賭してお前を守った。娘が死んだ理由は我の意図ではない。貴様が殺したのだ。貴様が娘と出会い、不幸を選んだ。貴様の選択は不幸を生む。貴様の誤った選択が、技術屋も、娘も、両親も失わせるのだ〉


 モイラの言葉がホシノの胸に突き刺さる。冷静な状態ならば、これも動揺を誘う罠と受け取れただろう。しかしモイラの指摘はホシノが密かに、自分で思っていることでもあった。


 自分の選択がアトリアを殺した。


 あの時生きることを投げ出さなければ、アトリアは死ななかったのかもしれない。

 そんな思いが棘となり、ホシノの胸に刺さったまま今でも心に痛みを与えていたのだ。

 モイラはその棘を見破り、必要に攻めてくる。弱みを突いた精神攻撃なのだ。分かっていても、否定できない。

 その上、鳴り響く警報音と、油断した瞬間に聞こえてくる不協和音のせいで、ホシノの感情は乱れ、思考は冷静さを失っていた。


 怒りと焦りで荒れた声を飛ばす。


「僕はただ普通に生きたかっただけだ! あの世界で普通の日々を! それをお前が台無しにしたんだ!」

〈お前に普通の日々など無い。貴様はこの世にいるべき人間ではないのだ。本来誰からも愛され、意識される人間ではない。それを貴様の欲望で破滅の道を選んだのだ〉

「違う違うっ!」


 自分の選択が悪い未来を引き起こした。運命値ゼロの自分が、そもそもアトリアと仲良くなること自体可笑しな話だったのではないか。

 自分は誰からも愛されない。それなのに、アトリアの為、世界の為だと言って人の輪に入ってしまった。自分が手を伸ばしたせいで、運命が変わり、世界は破滅した。

 モイラの言葉が頭の中で反芻する。


 自分のせいではない。愛を欲して、友を欲して何が悪い。

 自分の心を守る為に建てた、自己防衛という名の城壁。その城壁を破るようにして井戸の中から毒が溢れ、ホシノの心を蝕む。


 自分のせいだ。自分がアトリアを、世界を殺したんだ。

 頭の中に浮かんだ言葉が、攻城兵器となって城壁を突き破る。モイラの言葉と感化されて、自分自身の中にいる勇者達が裏切り、ホシノという名の心を責める。


 痛い。痛い。心が痛い。

 ホシノは自分の胸を掴む。


 動揺が鼓動を不規則に変える。苛立ちと焦りが体を熱くさせた。

 五月蝿い警報音が鳴っている。アナウンスが遷移確率の上昇を刻々と喚起している。


『ソウガ、真に受けないで! モイラはソウガの動揺を誘ってるだけ!』

「わかってる!わかってるんだ!」


 分かっていても、モイラの指摘した点をホシノは拭いきれなかった。自分が生きているからこそゴードンもダリウスも、アトリアも世界も不幸になった。自分がいなければ天核ヌーメノンに干渉できる者もいなかった。ダリウスの言葉が過ぎる。


――アトリアと世界のために死んでくれ!


 ホシノは瞼をきつく閉じて、頭を振った。しかしいくら振り払おうとしてもダリウスの言葉が頭から離れない。


〈存在を否定しながら、滅びるがいい〉


 頭の中にこびりつく、ダリウスの冷たい顔がモイラの声でそう言った。

 ホシノは瞼を開ける。

 閃光がホシノの正面で爆発した。


 真白な光がモニターを埋め尽くす。放射能マークが画面に現れ、モニターに薄いフィルターを掛けた。


『核攻撃!?』


 スピカの叫びと同時に、操縦席が今まで以上に大きく揺れる。ホシノの体は揺さぶられ、衝撃で集中力が摩耗した。

 集中が乱れたことで動悸が不規則になり、心拍数が蛇の畝りのような軌道を描く。


『遷移確率、九十パーセントを超えました。三十秒後に量子系遷移を開始します』


 冷酷なアナウンスが響く。


「くそっ!!」


 ホシノは叫んだ。己の未熟さのせいでチャンスを不意にしてしまった。悔しさで自分の唇を噛む。唇から血が滲み、鉄っぽい味が口の中に広がる。

 痛みで幾分か冷静になると、思考を加速させた。全力の思考が可能性を模索する。

 激しい爆風の最中、ゼーベリオンを突貫させる。せめてモイラを遠くに追いやり、少しでも時間を稼ぐ作戦だ。


 モニターは爆炎しか表示していない。姿の見えない中で、記憶だけを頼りにモイラに迫る。

 紅蓮の炎を掻き分けて、爆炎を抜けた先にモイラがいた。

 アナウンスが残り十秒を宣告する。宣告を頭の隅に追いやりながら、ホシノは想像する。

 ゼーベリオンの全身全霊を持って体当たりする。そしてモイラを宇宙の果てまで吹き飛ばす。大雑把なイメージだったが、ゼーベリオンはホシノの願いを受け取った。


 ――パキリパキリ。卵の殻にヒビが入る音が鳴る。音は警報音に掻き消され、ホシノの耳には届かない。けれども確かに音は鳴る。卵の表面、そしてホシノの心の中で。


 ホシノは真っ直ぐハダルを見据え、臆することなく衝突した。

 轟音が操縦室に響き、凄まじい揺れを感じてホシノはたまらず目を瞑る。左右に大きく揺さぶられながらも、瞼の裏を睨みながら願う「モイラよ遠くに行け」と呪文のように想念する。


〈ぐおっ!〉


 モイラの叫びが聞こえた。瞼を開けるとまず見えたのは、モニター右側に映る鉄拳だった。卵の表面から伸びる見せ掛けの腕とは違う、ゼーベリオンの本物の拳だ。


 拳はハダルの腹を突いていた。拳と腹の接触点。ちろりと銀色の炎が瞬いた。殴られる形で吹き飛んでいくハダル。吹き飛ばされる速度は凄まじく、二度瞬きする間に空の彼方に消えていく。


『遷移確率が100パーセントを超えました。本機は本世界線より転移します』


 ゼーベリオンが光の粒子に変わる。ホシノは海に投げ出され、海面に当たると同時に衝撃で意識を失った。

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