風の歌がきこえる

さかな

序章

白の花嫁


 まだ夏の名残を残す朝日が差し込む部屋の中、少女は立っていた。


 憂いを帯びた表情を浮かべる彼女は、周りを取り囲む年かさの女たちの手で着せ替え人形のように飾り立てられていく。唇の紅を除いて、少女を彩るのはただひとつの色だけだった。身に纏う着物も、打掛も、そのほかに用意された様々なものも。

 そうして少女のほっそりとした身体は瞬く間に白一色で塗りつぶされた。


「さあ、これでおしまいですよ」


 そう言って一人が結い上げた黒髪の上に綿帽子をかぶせる。あっというまに、純白の花嫁が出来上がった。手伝いの女たちはその仕上がりを満足そうに見つめたあと、どうだといわんばかりに部屋の真ん中にたたずむ花嫁の前に大きな姿見を運んでくる。


 だが、しばらくそれを見つめたままで少女は何も言わない。


 「とても似合っていますわ」

 「きっと、婿君も喜ばれますよ」


 唇を引き結んだまま言葉を紡がない少女に、女たちは少しばかり不安そうな顔をしながら口々に賛美の言葉を述べる。すると、それに答えるかのように鏡に映った少女も笑う。それを見て、女たちはほっと安堵の息を漏らした。


 だが実際のところ、決して少女は自分の花嫁姿に満足していたわけでも、衣装の美しさに微笑んだわけでもなかった。白粉で塗り固められた顔はまだ幼さが抜けきらないものだったが、浮かべている笑みは年不相応に大人びていた。


 (――これは、花嫁衣裳なんかじゃないわ。戦装束よ)


 少女は笑う。血とも見まがうほどに鮮やかな紅をひいた唇をつり上げ、勝気な瞳を輝かせて。

 まるで誰かに宣戦布告をするように。

 しかしその表情は白粉と共に顔の下に塗り込められていて、彼女が胸に秘める決意に気付くものは誰もいなかった。


 「さて、準備も出来たことですし、移動しましょうか」


 あらかた部屋を片付け終わった女の一人が少女にそう呼びかけた。だが少女は首を盾には振らず、少しだけ目を伏せて出来るだけ気弱げに見えるように言った。


 「お願い、少しだけ一人にして欲しいの。心の準備が出来たら、すぐ行くわ」

 「……分かりました。終わりましたら、お呼びくださいませ」

 「ありがとう」


 少女の願いは少し躊躇われたのちに受け容れられ、手伝いの女たちはその言葉に従って部屋を出て行った。きっと、結婚を目前にして不安になってしまったらしい少女に同情し、気遣ってくれたのだろう。

扉が閉まる音と同時に、少女はためていた息をふうっと吐き出す。その表情に、先ほどの気弱さや儚さは欠片も見当たらなかった。


 しんと静まり返った部屋の中、身じろぎをするとかすかに衣擦れの音だけが響く。動きにくくなった身体をようやっと動かして、小さくまとめられた手回り品の中から幾重にも布で包まれたものを取り出した。


 触れれば、柔らかな布越しから微かに伝わる温かな波動が指を包み込む。布に施された封印のせいでこの包みを開くことは出来ないが、少女にとってその温もりだけでよかった。


 (彼が、私に残してくれた、たった一つのもの。これだけが、私の武器よ)


 まるで祈りを込めるようにそれをぎゅっと抱きしめた少女は、泣きそうな表情をしていた。だがそれは一瞬のことで、愛しいものに触れるときのようにそっと目を閉じ、包みへと唇を寄せる。身を護るものはたったこれだけ。彼との絆をつなぐのも、これだけだ。


 しかし、少女にはそれで十分だった。それまでの思い出が、彼のくれた言葉が、彼女を強くしていた。きっと大丈夫。そう思えるだけの自信があった。

 しばらくののち、目を開けた少女は手の平に乗るほどの大きさの包みをそっと胸の間へと差し込んだ。誰にもこれを身につけていることを決して悟られないように、慎重に隠しておく。最後に乱れた胸元を手早く直し、さっと顔を上げた少女の瞳にもう迷いはなかった。


 さあ、これで準備は整った。

 ――これから、戦いが始まる。

 その想いを胸に刻み、少女は一歩を踏み出したのだった。

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