6.学校にて

「……は、1582年本能寺へ攻め入り――」

 

 静かな教室に、教師の声が響く。合間には黒板にカツカツとチョークで書き込む音と、教室の外から聞こえてくるかすかな喧噪。ただそれだけが、延々と繰り返されていた。

 窓辺の席に座る彩花は外の様子をぼんやり眺めながら、今日何度目かのため息をつく。物憂げな視線の先にあるのは、一週間前に手首へ刻まれた紋章だ。何度見返しても消えることなく存在する印に、彩花は複雑な思いを抱いていた。


(どうして、あのひとは私に印をくれたのだろう)


 『犬神は一度受けた恩を決して忘れない』――彼の声が脳裏に再生される。確かに犬神の命を助けたのは確かだが、それだけで「妖の加護」を渡したりするだろうか。


 大城山の妖たちに贈られた加護は、以前彩花が命の危機にさらされた際に贈られたものだ。加護を送られた者は、願いを込めて名を呼べば加護を送った妖を呼び出すことができる。以前銀星を呼び出すことができたのもその力のおかげだ。銀星の印はうなじに、佐京の印は左足首に、雫石の印は右鎖骨下に刻まれている。


 白藍は先ほどの三妖に比べ加護を送れるほどの力はない。だがその代わりに妖力を込めた小さな牙を送っていた。その牙は彩花の手でイヤリングにされ、右耳でいつも揺れている。


(あのひとのことを、もっと知りたい。何を考えているのか、理解したい)


 印をもらった後はお礼を言うのがやっとで、ほとんど何も話すことはできなかった。なにより、雫石から言われた言葉が彩花を立ち止まらせていた。


 『一度進んだらもう、後戻りできへん。あんたに、アヤカシの世界で生きる覚悟はあるか?』


 妖の世界で生きる覚悟、すなわち人の世を捨てるということ――今まで何度も言われてきたことだった。妖と共に生きよう、と。

 彩花にとって人の世はあまり良い思い出のない、わずらわしいものだった。家のことばかりを気にして権力者にこびへつらう両親。彩花の力だけを欲し、まるで自分の所有物のように扱う優。見られるのはうわべばかりで、だれも本当の彩花を見ようとはしない。必要とされるのは、その力ばかりだ。


(だれも私自身を必要とはしていない。ただこの力を利用したいだけ)


 そのことは十分に分かっていた。しかし生まれ育ったこの世をはなれ、妖の世で人として生きていく勇気はなかった。

 結婚すればさらに優に行動を制限され、自由は減るかもしれない。だが牢屋に閉じ込められるわけではない。優は大城山の大神の使いである銀星たちを無碍むげにはできないはずなので、まったく会えなくなることもないだろう。自分が少し我慢すればいいだけの話なのだ。いつもそう自分に言い聞かせ、雫石たちの誘いを断ってきた。


(いくら雫石姐さんたちが温かく迎えてくれても、やっぱり私は人間だもの。居場所なんかないに決まってる。本当の自分を受け入れてくれるところなんか、どこにもないのよ)


 『自分のすべてを受け入れてくれる世界』――そんな甘い幻想は抱くだけ無駄だと、彩花は遠くに見える大城山を見やりながら首を振る。期待をしなければ、裏切られることもない。だから、期待を抱いてはいけないのだ。


 そこまで考えたところで、授業の終わりを告げる鐘が彩花の思考を現実へと引き戻した。これで今日の授業はすべて終わりだ。いつも通り早く帰ろうと後片付けをし、早々に席を立つ。

 今日はどこで日が暮れるまで過ごそうか。そんな風に考え事をしていたからだろう、前を全く見ておらず、足元に突き出された足に全く気付かず転んでしまった。


「……っ!!」


 思い切り手足を机にぶつけ、ひざを床ですりむく。同時に上から降ってきた嘲笑に、うつむきながら唇をかむ。衝撃と痛みとその声に、彩花はなかなか立ち上がることができなかった。


「無様な格好ね、彩花。いい気味だわ」

「ほんと。アバズレ女にはお似合いのかっこうよ」


 くすくす、くすくす、と笑い声が響く。この声は、鍔木春花つばきはるか坂木里花さかきりかのものだ。


「何の用?」


 精一杯の虚勢を張って、彩花は二人を睨みつける。その様子を見て、また二人が笑う。この二人は彩花とともに優の婚約者候補だった。選ばれなかった腹いせに彩花へ嫌がらせをし、憂さ晴らしをしてくるのだ。もっとも嫌がらせは婚約者として選ばれる前から続いており、今に始まったことではなかったが。


「今日も大城山へ行くの? 毎日暇ねえ」

「あらあ、春花、違うわよ。大城山の神様に取り入って、優さまの婚約者に選んでもらったんだもの。毎日媚を売るのに忙しいのよねえ」


 きゃはは、と笑う声はいつしか三人、四人と増え、いつの間にか春花と里花とその取り巻きの子たちに取り囲まれていた。完全に退路を断たれ、逃げ場がなくなっている。いつもなら黙ってその場から立ち去るのだが、どうやらそれも無理らしい。


「何か言ったらどうなの? いつも暗い顔してうっとうしいんだけど」

「何も言えないわよねえ。ずるしてその座を勝ち取ったんだものね」


 とげとげしい言葉が彩花の心をえぐっていく。何も聞こえないふりをしようとしても、いやおうなしにその言葉を理解できてしまう。いっそ痛覚なんかなくなって麻痺してしまえばいいのにと、何度願ったことだろうか。


(私はずるなんかしていない。婚約者になんか、なりたくなかった)


 そう声を上げようと思っても、あげる勇気はない。彩花がずるをしていない証拠など、どこにもありやしないのだ。まだ彼女らが妖が見えるくらいの力を有していれば話は違っただろうが、彼女たちにはそれすらない。神様の話も、霊力の話も、みな形式上のことで、建前の話だと思っている。だから、通じないし信じないのだ。


「用がないなら帰るわ」


 やっとのことで起き上がり、制服についたほこりを払う。できるだけ毅然とした態度に見えるよう、痛みや悔しさは表に出さない。感情を表に出せば出すほど、彼女らは面白がりはやし立てるのだから。


 取り巻きの一人をぐっと睨みつけると、たじろいだ顔で少しだけ身を引いた。そのわずかな隙間を見つけ、無理やり体を割り込ませる。割り込まれた二人が小さく声を発したころには、彩花の体は間をすり抜け、包囲網を脱していた。


「逃げるの? 弁解があるなら、ちゃんと言いなさいよ!」

「いつも逃げてばかりの卑怯者!」


 そうよそうよ、と同意する取り巻きたちの声を振り切って教室を飛び出し、ただひたすらに走った。階段を駆け下り、靴をはきかえ、校門を走り抜ける。後ろから先生の声が追いかけてきたが、それすらも振り切って走り続けた。


「はあ、はあ……」


 どれだけ走っただろうか。気づけば山のふもとまで来ていた。風にあおられて髪はもつれ、ひざは擦りむけてひりひりと痛む。めちゃくちゃに走ってきたので、とても息が苦しい。こけた時にひねった足首が今になって主張を始め、ずきずきと脈打っている。乱れた息を整えながら、彩花はいつもの大岩へと向かった。

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