7.思案
とぼとぼと足を引きずりながら山道を進む。考えなしに歩いていたので、山のどこを歩いているのかさっぱりわからないまま、ふらふらとあてどなく彩花は歩いていた。
実は山へ入ってすぐ、白藍がそばへ来たのだ。だが一人になりたかった彩花は彼を振り切り山の中へと入った。人も妖もいない場所で、落ち着く時間がほしかった。
気づけば山道からそれ、けもの道へと入り込んでいた。枝や下草が頬や足に小さな擦り傷を作ったが、その痛みを無視して先へと進む。ずっと進んでいけば、やがて少しだけ開けた場所へ出た。
(あの
思わず大きな木の下で立ち止まり、初めて出会った時のことを思い出す。
血に濡れても失われない生命力にただ打ちのめされ、ひどく心惹かれた。自分とは違う、意志の強い瞳。死に瀕してもなお生にしがみつく強さ――もはや執着心といっていいほどの、生へのこだわり。
彩花にはそこまで生へ執着する理由がない。だから犬神がとてもうらやましかった。どんな手段を選んででも生きたいと思えるほどの理由がほしかった。
犬神のことをもっと知れば、その糸口が見つかるかもしれない。この世で生きていく理由を手に入れられるかもしれない、そう思った。あと彩花に足りないのは、自分の望みに正直になる勇気だ。
雫石には『人に迷惑をかけまいとしている』と言われたように、素直になるかわりに他人へ迷惑をかけることが怖かった。迷惑をかけて、もし嫌われてしまったら。期待をして、裏切られたら。何度もそれを経験してきたからこそ、彩花は前へ一歩踏み出すことを恐れていた。
『うちはあんたにもっと素直になってほしい。そのためやったら、どんだけ迷惑かけられてもかまへん』
少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、優しい笑みを浮かべる雫石の言葉がよみがえる。その言葉を信じたい。でも信じるのが怖い。そのはざまで彩花の心は揺れていた。
同じように犬神の言葉もまた、信じるか信じないかの間で迷っていた。
『助けが必要なときは俺を呼べ。いついかなる時でも、風に乗ってお前のもとへと駆けつけよう』――彼は確かに、印を送った時にそう言った。加護を送られたものは、確かに名を唱えればその妖を呼ぶことができる。しかし、それは互いに信頼感で結ばれていてこその話だ。信頼するには彩花は彼を知らなさ過ぎたし、呼ぶべき名も彼から明かされてはいなかった。
名はただ呼べばいいというわけではないのだ。以前銀星を呼んだ時も、彩花が「銀星」という名に込められた意味を理解し、彼の性質や本質をつかんでいてこその呼応だった。それゆえ、今仮に何かの拍子に人づてで犬神の名前を聞いたところで、加護の力が使えるわけではない。犬神から信頼のあかしとして自らの名を明かされ、どのような妖なのかを告げられない限り、それはただの印でしかない。そういう点では、まだ彩花は彼の信頼を得られるに至っていないのだろう。
そこまで考えて、以前彼に名を聞いた時には「名は捨てた」と言われたことを思い出す。呼ぶべき名を捨てたはずの犬神が、彩花に印を送った意味。そこに、かすかな信頼を見出すのは自分のおごりであろうか。
まだすべてを明かす心づもりはできていないけれど、時が来ればいつか――そんな意味が込められているような気もした。
すべては彩花の勝手な空想だ。ただの気まぐれかもしれない。それでも何か、彼のことを信頼してみたい、そう思わせる何かがあった。その直感は雫石や銀星、佐京、白藍と出会った時と同じようなものでもあり、どこか違うものでもある。小さな差異が何なのか今の彩花にはわからなかったが、決して悪いものではないように思えた。
(きっと、何かきっかけがあれば信じられる気がする)
なんとなくそう思った。
引き返せる距離ならば、ほんの少し踏み出してみてもいいかもしれない。結局、どれだけ裏切られたところで彩花は信じること、希望を持つことをやめられないのだ。それが心優しき少女の強さでもあり、弱さでもあるのだった。
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