8.襲来
それからしばらく彩花は物思いにふけりながらその場へたたずんでいた。このあと大岩へ行ってもよかったのだが、もうすぐ日が傾く時間だった。
(帰ろう。なんだかとっても疲れた)
疲労感の増す体を引きずり、元来た山道を引き返す。今日はやけに山が静かだと、山道を降りながらふと思った。鳥の声があまりせず、妖の気配もあまりしない。普段なら、害のない小さな妖たちがいる気配が少なからずするはずだが、まるで山の者たちが皆息をひそめているように静かだった。
(嵐でも来るのだろうか……?)
たまに天候が荒れるとき、こんな風に山が静かになることがあった。あともう一、二週間もすれば梅雨入りする時期なので、ひどく雨が降るのかもしれないと彩花は思った。
だが、その考えは全く違っていたのだとすぐに思い知ることとなる。
前触れは全くなかった。異変は息をひそめて近づき、彩花の周りを取り囲んでいた。何かに守られているようにその力の源すら隠されていて、彼女が気配を感じることはできなかった。
パキリと枝を踏みしめた音と、何かが低くうなる声がして、彩花はようやく異変に気付く。そのころには完全に周りを取り囲まれており、逃げることができなくなっていた。
(どうして? まだ日暮れまでには時間があるのに……!!)
普通妖は夜に力が増し、活発になる。本能や欲も強まるため、夜に彼らの住処をうろつくことが危険なのはよくよく承知している。だがよほどのことがない限り、この山の妖は彩花を襲わない。妖の加護があるものを襲うということは、加護を授けた妖へも喧嘩を売ることになるからだ。
何匹いるのかはわからないが、完全に囲まれているのは彩花にもわかった。息をひそめれば、四方から荒い獣のような息遣いが聞こえる。ただし、獣ではない。この山に狐以上の肉食の獣は棲んでいない。
彩花は迷った。まず間違いないく妖たちの狙いは自分だ。だが、これだけの妖の相手をするのに白藍は力が足りないし、下手をすれば共倒れだ。銀星か雫石か、はたまた犬神か――ほんの迷った数瞬が命取りになった。
どん、と背中に衝撃が走る。体当たりされたのだと理解した時には、地面に倒れていた。息が詰まり、体に激痛が走る。顔を上げようとすると、頭を殴りつけられて地面へと強く押さえつけられた。
『動くな。これ以上抵抗するとひどい目に合わせるぞ』
うなるような低い声に、小さく悲鳴を上げて彩花は身を固くした。耳元へかかる生暖かい息と、なにか体を嗅ぎまわられるような感覚。どうやら抵抗しなければ、これ以上危害を加える意思はないらしい。そっと薄目を開けると、黒い体の妖が何匹も周りにいるのがうっすらと見えた。
大きさは狐よりもはるかに大きく、ふさふさとしたしっぽ、つんととがった耳がふたつと、細長い鼻づら。口からのぞく大きな歯は人ひとりくらいなら楽々と引き裂けそうなほどにとがっている。
(いぬがみ……?)
体が黒いこと、幾分か小さいことを除けば、その姿かたちはあの犬神によく似ていた。同じ種族といってもいいのかどうかはわからない。同じ妖の中でも犬神は様々な群れに分かれていると聞く。見た目だけで彼と同じ種族なのかは判断できなかった。
『飛焔のにおいのする人間。あいつは今どこにいる』
「ひえん……?」
『知らないとは言わせない。つい最近この山に来ただろう』
犬神らしき黒い妖の一匹が、彩花に向かって問いかけた。聞きなれない名前に首をかしげると、前足で地面をひっかき、いらいらとした様子で低くうなった。
「紅色の犬神のこと?」
『そうだ。やはり知っているのだな。あいつは今、どこにいる。答えろ』
「あなたはあの犬神を探しているの。一体、何のために……?」
飛焔、とはあの犬神の名前らしい。あまり穏やかでない様子に、彩花は思わず疑問を口にした。言ってしまってからよけなことだったと後悔したが、目の前の妖は思ったより分別があるようで、新たに危害を加えるようなことはしなかった。
『ある方の命でその者を探しているのだ』
「ある方……?」
『あまり無駄口をたたくな、人間よ。われらはあまり気が長くない』
なかなか問いに答えないことにじれてきたのか、うろうろと周りを歩き回る犬神が増えてきた。だが彩花は簡単に答えるつもりはなかった。この妖たちはあの犬神を探している、といった。十中八九、許可なくこの山へと入り込んだはずだ。これだけの数で山へ入り込めば、いずれはなわばりを侵された妖たちが気付く。時間を稼げば、助けも来るかもしれない。
今この状況では到底加護を発動させることは難しく、それだけが唯一の頼りだった。だが、次の犬神の言葉は予想だにしないものだった。
『――気が変わった。娘、お前を連れていく』
『あの飛焔が加護を授けるほどの人間だ、何か利用価値もあるだろう』
『いらなくなったら、喰っちまえばいいだけの話だしな』
犬神たちの言葉が彩花のたった一つの希望を打ち砕く。どうやら彼らは自分を人質にすることを選んだらしい。胴を口にくわえて運ぶつもりなのか、一番体の大きな犬神が近づき、口を大きく開く。何とかして逃げなければと思うものの、体は全くいうことを聞かなかった。おまけに何か頭がくらくらするような煙をかがされ、だんだんと思考が鈍くなっていく。
『悪く思うなよ、人間。あの犬神に関わったのが運の尽きだと思え――』
最後に聞こえたのは、リーダー格の犬神のそんな言葉だった。
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