9.呼応

「——犬神!! 起きろ!!」


 犬神を眠りから覚醒させたのは、風のうなり声だった。


「なんだ、鎌鼬。何か用か」


 尋常でないほどに焦る声に、さすがの犬神もがばりと身を起こし、何事かと問う。この鎌鼬にあったのは二度ほどで、お互いにあまり印象はない。だがわざわざ犬神のところにまで来るということは、よほど火急の用なのだろう。

 ひゅうっと渦を巻いて姿を現した鎌鼬は精一杯犬神を睨みつけながら、吐き捨てるように言葉を継いだ。


「てめえのせいで、彩花がさらわれた!! 」

「何……?!」


 鎌鼬の答えは予想だにしないもので、犬神は目を見開き言葉を失った。

 なぜ。どうして。どうやって――様々な疑問が頭の中をめぐる。混乱する思考の中で、ただ一つだけわかっていることはあった。誰が彩花をさらったのか、ということだ。

 だが、彼女と犬神の接点を知られるのが早すぎる。犬神に深手を負わせた後はまったく気配を見せていなかったのに、どこから彼女のことを知ったのか。そう考えたところで、ある一つの可能性にたどり着いた。


(加護のにおいをかぎつけたのか……)


 きっと、出会いは偶然だったのだろう。この山で消息を絶った犬神の行方を捜しているところで、犬神のにおいがする少女を見つけたのだ。そうして刻まれた加護から関係性の深さを知り、犬神をおびき寄せるための罠にするためさらったのに違いない。


「連れ去ったやつは、どんなやつだった?」

「実際に連れ去られるのをみたのは、木霊たちだ。黒い犬神だった、と……」

「間違いない。黒嵐こくらんの手の者だ」


 本当なら口にもしたくない名前――犬神の命を狙った張本人であり、漆黒の被毛を持つ黒犬族の族長だ。おそらく木霊たちがみた黒い犬神と言うのは一族のものたちだろう。


「誰か奴らを追ってはいるのか」

「雫石さまと、木霊たちが行方を追っている」

「わかった。俺も行こう。においをたどれば大まかな場所はわかる」

「なら早く行け!! お前の争いに彩花を巻き込んでんじゃねェ!!」


 くわっと噛み付いた鎌鼬をなだめ、犬神はさっと駆け出した。北風に乗って微かに流れて来る黒犬たちのにおいと、甘い霊力のにおい。まだそう遠くには行っていない。やがて風に女郎蜘蛛のにおいも加わった。どうやら先に追いついたらしい。血のにおいはしないので、交戦はしていないようだ。


「あまり時間がないな……あの手を使うしかないか」


 茜色の空を見上げて、犬神がそうつぶやく。太陽があと少しで地平線と交わるところまで沈んできていた。このまま駆けて行っても日没までに間に合うかどうか、難しいところだった。

 犬神が司るのは陽の気の火であり、日が出ている時に力を増す。対する黒犬族が司るのは水であり、陰の気が強まる夜に力を増す。加えて火は水に弱く、夜になれば圧倒的に黒犬たちの方が有利だ。


 しばらくの間、犬神は迷っていた。もっと早く彼女のもとへ行く方法はある。だがその手を使うには犬神の名と、自分の正体を明かすことが必要だ。いずれはと思っていたものの、今のタイミングは早すぎる。そう思って、一度はあきらめようとした。

 

 それでもやはり、あきらめきれなかった。一度自分に深手を負わせ、死の淵まで追いやった彼らに一矢報いたい。その強い思いが犬神を支配していた。

 名を捨てたと彩花に告げたのはうそではない。生まれ育った故郷を捨て、身分を捨ててこの山へとやってきたのだ。だが、やはりこの地でも飛焔は飛焔のままでしかない。どこまで逃げてもこの名からは逃れられない。今回のことでそれを思い知った。

 タイミングが遅かったか早かったか、ただそれだけの違いだ。そう自分を無理やり納得させ、最後の手段を使うことを決めた。


「鎌鼬! 俺は別の方法で行く。時間がない」

「先に? どうやっていくんでェ?」

「加護を使う! 彩花が俺の名を呼べば、ひとっ飛びだ。悪く思うなよ」

「なっ――」


 絶句する鎌鼬をよそに一旦立ち止まり、犬神は静かに目を閉じた。加護の力には、相手と意思疎通を図る力もある。妖力の糸を彩花の加護まで伸ばし、自らの体と繋ぐ。応えてくれ――祈りを込め、犬神はそうっと呼びかけた。


『……彩花。聞こえるか。聞こえるなら応えてくれ』


 何度か呼びかけてはみたが、応えはない。この方法は彩花が眠らされていた場合、効果を発揮しなくなる。対象者の意識が覚醒しているときだけ使える方法だ。

用心深い黒犬たちのこと、ここまで想定して眠らせたのかもしれない。そう思い、犬神が半ば諦めようとした時だった。


『……いぬがみ、さん……?』


 ふいにか細い声が思考の中に飛び込んできた。半信半疑だが、こちらがだれなのかはわかっているようだ。弱っていたり、苦痛を感じている様子はない。そのことに犬神は安堵の息をもらし、気を取り直して呼びかけを続けた。


『聞こえるか! そうだ、犬神だ。無事か?!』

『私は大丈夫。何もされていないわ』

『そうか。詳しい話は後だ。お前、加護の使い方はわかるな?』


 単刀直入に用件を切り出した犬神に、わずかに彩花が息をのむ。他の三匹の加護が刻まれている彼女のこと、おそらく加護の使い方は知っているだろうと踏んでの問いかけだったが、予想は外れていなかったらしい。そうして彼女は犬神の予想した通りの答え――できれば外れてほしいと思っていた答えをさらに紡いだ。


『だめよ。来てはだめ。これはあなたをおびき寄せる罠よ!』


 響く声と同時に彩花の感情が流れ込んで来た。恐れと不安が入り混じり、拒絶の壁をつくる。きっと犬神がやられてしまう心配をしているのだろう。自分が巻き込まれてもなお他人を心配する彼女の優しさは、思い通りにことを運ぼうとする今の犬神にとっては諸刃の剣だった。


『罠なのは知っている。そちらに女郎蜘蛛がいるのもな。だがこれは俺の問題だ』

『でも……』

『たのむ。時間がないんだ。もうすぐ日が沈んでしまう。間に合わせるにはお前の力が必要なんだ』


 そう犬神が懇願すると、彩花は押し黙った。きっとこういえば、この優しい少女は犬神の願いを受け入れざるを得ないだろう。そう思ってしばらく少女の答えを待つ。恐れ、不安、迷い、あきらめ。犬神へと流れてくる感情に、様々なものが入り混じる。せめぎ合う感情はしばらく拮抗しあっていたが、やがて決断がなされた。


『わかったわ。あなたの名前を、教えて』


『いいだろう。想いを込めて呼べ。我が名は飛焔ひえん。火を統べし赤犬族の一族が長――決して絶えぬ永久とわの焔の使い手ぞ!!』


 決意をにじませた彩花の声に応えて犬神がえる。その声を追うように涼やかな声が犬神の名を呼び、風が渦を巻く。きいん、という耳鳴りとともに体が風と一体化し、竜巻はまるで磁石のように彩花の元へと引き寄せられて飛んでゆく。


 やがて開けた視界の先にいたのは、言霊ことだまを紡ぎ終わった少女と女郎蜘蛛、そしてうごめく黒犬たちの姿だった。

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