10.優しさ

 一匹、二匹、三匹――素早く首を巡らせて周りを見た限り、自分たちを取り囲んでいる黒犬は五匹いた。神経を研ぎ澄ませてあたりを探ってみるが、隠れている様子はない。おまけに彩花は特に拘束されることもなく、容易に近づける距離にいる。女郎蜘蛛にも一切手出しはしていないようだ。時間的には自分には不利な状況ではあるが、ずいぶんとなめられたものだと飛焔は薄く笑った。


『よう、飛焔。待ちくたびれたぜ。尻尾を巻いて逃げ出して、もう来ねえのかと思ったじゃねえか』

「たとえ夜になったとて、お前らごときにやられるほど弱くはない。今のうちに逃げれば、命だけは助けてやるぞ」

『馬鹿言うんじゃねえ。俺たちゃ黒嵐さまからお前を倒して来いって言われてるんだ。こんなとこで引くかよう』


 にたにた笑う黒犬に冷ややかな目を向け、負けじと言い放つ。彩花を捕まえておきながら人質にせず、盾に使うことすらしない、頭のまわらない連中。力の差を図ることもせず、正攻法でぶつかることしか知らない使い捨ての駒――黒嵐の手の者の中でもかなり格下の犬神だ。


「おしゃべりはそろそろ終わりにしようか。関係のない人間を巻き込んだこと、末まで後悔させてやる――!!」


 このぐらいの力の差なら一気にけりをつけられるだろう。そう思って一気に妖気を練り、爆発させる。ぼう、ぼう、と口から吐き出された火の玉は正確に黒犬たちへと飛んでゆく。

 これで黒犬たちはその身を焔に焼かれ、命を落とすはずだった。だが、その焔は黒犬たちの身体へまとわりつくと、しぼんで見る見るうちに消えてしまった。


「なんだと……?!」


 目の前で起こった光景に、飛焔は愕然と目を見開いた。相手が操る属性は水。だが力では圧倒的に飛焔のほうが上だ。こんな格下相手に引けを取るほど力は弱まっていない。なのに、相手はいとも簡単に自分の力を無効化してしまった。


『信じられねえって顔してるよなあ……お前、この前もそうやってやられただじゃねえか』

『自分の力を過信して、逆に半殺しにされただろ。もう忘れたのかよう』

「馬鹿な……俺の力のほうが上のはずだ。なぜ焔を打ち消せる」

『黒嵐様のご加護さあ。煙管がないお前の焔なんか、一瞬で消せちまう』

『おまけにようやく日が沈んだ。われらの時間だ』

『赤犬に勝ち目はない』


 にたりと笑ってじわじわと距離を詰めてくる黒犬たちに、飛焔は一歩後ろへと下がる。焔は効かないならば、肉弾戦で組み伏せるしかない。一対五はさすがに少しばかり負担が大きいが、それ以外に方法は思いつかなかった。


「女郎蜘蛛、お前は彩花を連れてここを離れろ」


 じりっともう一歩下がった飛焔は、少し離れたところで様子を見守っていた雫石へと声をかけた。なぜさっさと逃げずにこの場にとどまっているのかはわからないが、これ以上人間を争いに巻き込むわけにはいかない。雫石とて彩花に危害が加えられるのは、本望ではないだろう。だが意図に反して、彼女はその場から動こうとはしなかった。


「悪いけど、うちはここを動く気はあらへん。よそ者らをよう見張れ、いうて柚良ゆらさまからお達しがあるさかいになあ」

「だが、こいつはどうする」

「お犬はんが原因で連れてこられたんや、自分で何とかしよし」

「なっ――」


 雫石の予想外の返答に、飛焔はあんぐりと口をあけた。柚良――この山を統括する大神からの命令が最優先なのは理解できる。それでも雫石なら彩花を守りながらこの状況を見守ることもできたはずだった。だが、彼女はそれを放棄したのだ。

 もちろん雫石には彼女なりの理屈と意図があってそう答えたのだが、今の飛焔には完全に理解の範疇はんちゅうを超えていた。


「今は状況が不利なんだ。こいつにかまっている余裕はない」

「へえ。勝手に加護つけといて、距離縮めるのだけに使うて、礼も言わずに用がなくなったらどっかいけやて? えらい都合ええなあ」

「それは……緊急事態で――」

「はあ? 緊急事態で何でも許される思っとるんか? こっち丸無視で勝手にドンパチ初めて、自分の力が及ばんようなって邪魔やからどっか行け、て馬鹿にするにもほどがあるわ。この子をなんやと思っとるんや!」


 しどろもどろの飛焔にかみつかんばかりの気迫と剣幕に、何やら内輪もめかと様子を見ていた黒犬たちまでもが脅えて後ずさった。当事者の彩花ですら、かたずをのんで雫石の様子を見守っている。


 ここまで言われて、また自分は雫石の地雷を思い切り踏んづけたのだと、ようやく飛焔は理解した。

 彼女は彩花を守ることを放棄したわけではない。彩花をただの便利な道具だとしか見ていない、そう思われても仕方のない行動をした飛焔に対して怒っていたのだ。実際自分は黒犬の事しか考えておらず、巻き込まれてさらわれた彩花に礼どころか謝罪すら言っていない。その事実に気づいた飛焔は冷や水を浴びせられたようにすうっと我に返り、自分の勝手な行動を深く後悔した。


 何か言わなければ――そう思って彩花のほうを振り向いた飛焔だったが、先に口を開いたのは彼女のほうだった。


「雫石姉さん、いいの。勝手にさらわれて、連れてこられた私が悪いの。さんは何も悪くないわ」

「せやけど――」

「私の力で使えるのはそれぐらいだし、使えるものは使わないとね。もうすぐ白藍が到着するみたいだから、犬神さんが気にしなくても大丈夫よ。足手まといは消えるわ」


 二人の間に割って入ったのは、静かだがどこか感情を欠いた声音だった。飛焔を呼ぶ前に抱えていたような不安や迷いは一切なく、ただ諦めだけが瞳に浮かんでいる。

 何より、彼女は。そのことが、明確な拒絶の意を表していた。


「違う、そういう意味で言ったわけでは……」

「いいのよ。慣れているから」


 にこり、と笑って見せた彩花は、飛焔に二の句を継がせない。気弱そうにさっきまで成り行きを見守っていた時とはうって変わってしっかりと立ち上がり、服についた砂を払ってこちらへと向き直る。なんだ、と身を引く間もなく、柔らかな声音があたりに響き渡った。


『――猛き焔に土と風の加護があらんことを』


 彩花が言霊を口にした途端、飛焔のからだに新たな力が流れ込んできた。土は水に勝ち、風は焔を強くする。彼女はそれを願って、力を託したのだ。彼女を利用するだけ利用し、足手まといだと言ってのけた自分に。


(なぜ、お前はひどい仕打ちをした俺にそんなに優しくできる?)


 それ以上は何も言わずに去っていく彩花の背中を見送りながら、飛焔は心の内でそう問いかけた。以前もひどい言葉をかけたのに、彼女は変わらず優しかった。どうしてそこまで優しくできるのか、飛焔には全く分からなかった。


 ぐるぐると思考する飛焔の施行を現実に引き戻したのは、黒犬たちのうなり声だった。雫石のけん制が解け、いよいよ反撃せんと距離を詰めてきたのだ。彼女は彩花が去ってから一切なにも言葉を口にせず、ただ離れたところで成り行きを見守るばかりだった。


「いいだろう、まとめてかかってこい――」


 飛焔が闘志を宿らせ挑発的に吼えたのを皮切りに、犬神たちの戦いが始まった。

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