5.謝罪
ざり、と砂利を踏む音に、彩花ははっと顔を上げた。涙はすっかり乾いたが、目のあたりが熱を持っていてとても腫れぼったい。きっと今自分はとてもひどい顔をしているに違いない。
雫石か、犬神か、どちらが戻ってきたのだろうか。犬神であれば、こんなひどい顔は見せたくない。また苛つかせてしまうだろうから――そう考えて、ひとりでに体がこわばった。どこか逃げ場は、と思っても、一本道の洞窟ではどこにも逃げ隠れする場所はない。せめてあまり見えませんようにと願いながら、できるだけ銀星と佐京の陰に隠れる位置に体をずらし、そっと息をひそめた。
「おい、犬! お前どのツラ下げて戻ってきたんだよ?!」
同じように気配に気づいた銀星が、さっと立ち上がって身構える。どうやら、帰ってきたのは犬神のほうだったらしい。彩花を守るように立ちふさがり、洞窟の入り口をにらんで尻尾を逆立てる。いさかいを好まない彩花がやめてと声を上げようとした時、ふいに砂利を踏む音が止まり、洞窟に犬神の声が響いた。
「先ほどは、すまなかった」
「そうだ、今すぐ謝れ――って、え?」
「彩花といったか、人間の娘。きちんと詫びがしたい。どうか顔を見せてはくれないか」
あっけにとられる銀星をしりめに、犬神の声が彩花を呼ぶ。縮こまるように後ろを向き、銀星の背に隠れている彩花には見えなかったが、声の大きさを聴く限りすぐ近くまで来ているようだ。
(侘びがしたい、って。でも、悪いのは私のほうなのに)
混乱と恥ずかしさが入り混じり、体がなかなか動かない。早く姿を見せて、謝るのは私のほうだと言いたいのに、喉がからからに乾いてしまってうまく声が出なかった。
一縷の希望を抱き、助けを求めるように佐京のほうを見たものの、どうやら彼は様子見を決め込むつもりらしい。目を細めて笑うその表情は明らかに面白がっている。助ける気は一切ないようだ。それどころか銀星から二歩ほど離れ、彩花が前へと出やすいように道を作った。
「彩花。こいつはこう言っているが、どうする」
まだかすかに険のある声で銀星が問いかける。先ほどまで逆立っていた尻尾の毛は随分とおさまっているので、これ以上犬神と争う気はないようだ。そのことに少し安心をし、そっと息をつく。深呼吸をすると、わずかながら気持ちが落ち着いた。
(逃げてばかりじゃだめだ。しっかり向き合わないと)
ふう、ともう一度息を吐き、目を閉じて自分を落ち着かせる。この場から逃げ出してしまいたいという気持ちは大分と少なくなり、ようやく決心がついた。
そうっと立ち上がり、銀星の肩の横から半分ほど顔をのぞかせる。目の前にいたのは、深く首を垂れる犬神だった。
「改めて、すまなかった。お前は二度も俺の命を救ってくれたのに、ひどいことばかり言って申し訳なかった」
「いいえ……二回目は、私の責任だわ。私がもう少し気を付けていれば……」
「いや、油断していた俺の問題だ。悪いのはあの神主で、お前じゃない」
犬神の言葉が、ふわりと胸の内へと広がっていく。ほかの誰に言われても自分が悪いと思い込んでいた彩花の心に、彼の言葉は抵抗なく届いた。もしもの可能性を何度も繰り返していた後悔がすうっと溶けていくのがわかる。
(この
何かはわからないが、じわりと温かいものが胸へと広がっていく。どうして、犬神の言葉でこんなにも一喜一憂してしまうのだろう。今まで感じたことのない気持ちの変化は少し怖いが、嫌なものではない。言葉の余韻に浸る彩花と、それを見守る妖三匹。事はそれで収まったかのように見えた。
「侘びとは言ってはなんだが、一つお前に贈り物をしよう」
しかし柔らかく微笑む犬神がそういったとき、洞窟の中の空気は一変した。彩花は大きく目を見開き、銀星は尻尾を最大限まで膨らませた。あまり驚くことのない佐京でさえ、あっけにとられたような顔をしている。
「おい、犬、お前黙って聞いてりゃ――」
「銀星、少し黙っておけ。これはお前が口をはさむ問題じゃない。彩花が受けるかどうかだ」
今にも犬神に殴り掛かりそうな勢いで詰め寄る銀星を、あわてて佐京が止めた。
妖の贈り物。それは特別なものを意味している。『妖の加護』――それが、妖の贈り物の正体だ。相手に決して危害は加えないと誓い、仲間として認めるしるし。ここにいる妖二匹と雫石も、昔彩花へ送ったことがあるものだ。
それゆえ彩花もその言葉の意味は知っている。受け取るか拒むかは彼女の選択であり、ほかの誰も言葉をはさむ権利を有してはいなかった。
「犬神は一度受けた恩は決して忘れない。お前が命の危機にさらされるとき、必ず俺はお前を護ろう」
紡がれる言霊に呼応して、犬神のからだがぼうっと紅く光る。ゆらゆらと立ち上る陽炎は、彼の妖力が視覚化されたものだ。ぼおっ、ぼおっと二つの焔が陽炎から離れると、犬神は彩花へと右手を差し出す。思わず反射的にその手へ左手を重ねると、手のひらを返されて手首の内側があらわになった。
「お礼の印だ。助けが必要なときは俺を呼べ。いついかなる時でも、風に乗ってお前のもとへと駆けつけよう」
ぼう、と怪しく光る火の玉はしゅるしゅると小さく縮み、やがて彩花の手首へと吸い込まれていく。あとにのこったのは、ゆるく内側へと曲線を描く牙が二本向かい合ったような形の不思議な紋章だった。
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