4.幸せ

 雫石の拘束から抜ける糸口が見つからず、一か八かで犬神は自分の推測を口にしてみることにした。自分の名を呼ばれた意趣返しではないが、少しは油断を誘えるかもしれないと思ったのだ。


「こんな犬神風情に何を期待する? お前の姫を泣かせたことは謝ろう。だが、ここへ来たのはそれだけではあるまい? 血桜の」

雫石しずくと呼びよし。さすが、焔の煙管の継承者は頭がよう回りはるねえ」


 『焔の煙管きせるの継承者』――その言葉に犬神は表情をがらりと変える。


「お前もあれを欲しているのか」

「嫌やわあ。黒嵐こくらんやあるまいし、あんな身に余るもん欲しがる訳ないやないの」


 雫石は心底嫌そうな表情で犬神の問いに答えた。黒嵐、という名を聞いて犬神の胸がつきりと痛む。彼こそ犬神が故郷を捨てて逃げて来なければならなくなった元凶であり、いまだに犬神の命を狙う妖である。

 だが、今は望郷の思いに浸っている暇はない。反撃が全くままならない今、すべては雫石にゆだねられている。それを歯がゆく思いながら、犬神には言葉を継ぐ以外の選択肢は残されていなかった。


「では、何が望みだ」

「うちが願うとるんはこの山の平穏と――あの子の幸せだけや」


 雫石は目を伏せながら、そう呟いた。それと同時に四肢を縛る妖力が少し緩む。逃げ出すには絶好の機会だったが、予想とは少し違った返答に、犬神は戸惑いを隠せなかった。


「この山の者は、なぜにあの人間を大事に扱う? 唯の人間だろう」

「うちにはあの子に命を救うてもろた恩義がある。うちだけやない、この山に居着いた妖のほとんどは、多かれ少なかれあの子に救われた経験がある。うちも佐京はんも……他の山から来た妖がようけこの山に留まる理由の一つがあの子なんや」


 そう語った雫石は、何処までも優しい眼をしていた。先ほど犬神を妖力で縛り上げ、ねじ伏せた面影はもはや何処にも無い。その表情から、犬神は大城山の妖達がどれほどあの少女を大切にし、守ってきたかが見てとれた。


 犬神とて、その気持ちがわからないではなかった。あの少女の純粋さ、ひたむきさ、それとともにある危うさ――妖なら必ず惹かれるあの清涼で甘い霊力にも一因はあるのだろう。だがそれ以外にもいくつか思い当たるものはある。それが今の犬神の感情を揺さぶるものの一つであることも、理解していた。だからこそ、先ほどの雫石の言葉が気になった。


「あの人間をお前達が大切に扱う理由はよくわかった。だが、お前が願うあの人間の『幸せ』とは一体何を指している?」


 犬神の言葉に、雫石はぐっと押し黙る。その表情には、迷いがありありと浮かんでいた。継ぐ言葉を何度も選び、口にしようとしてはやめる。そうしてしばらく逡巡を繰り返したのち、彼女はようやく意を決して話し始めた。


「あの子が、笑って過ごせる毎日――それがうちの思う『幸せ』や。許婚も、あの子の家も、いつもあの子から笑顔を奪ってゆくばかり。お家に縛られて、好いてもいない相手と婚姻を結んで、うちはそれがあの子の幸せにつながるとは思えへん」


 ほたほたと、いつしか雫石の瞳からは涙が零れ落ちていた。その涙を見て、犬神はぎょっとした表情で身を引く。その拍子に四肢を拘束していた妖力はほぼ崩れて消えたが、彼女がそれを気にする様子は見られない。


(女郎蜘蛛は情の深い妖だと聞くが、ここまでのものだとは。女は恐ろしい)


 目の前の女に思考が読まれたらもう一度半殺しにされてしまいそうなことを考えながら、犬神はもっとも簡単であろう解決策を口にする。


「ならば、お前たちであの娘をさらってしまえばいい。そのほうが、あの娘も息がしやすかろう」

「――ヒトはヒトの世に、アヤカシはアヤカシの世に。それがこの山の掟や。あの子が自ら望んで行動せん限り、うちらは黙ってみていることしかできんのや」


 流れる涙を隠そうともせず、雫石はぽつりとつぶやいた。山の掟――大城山の大神は、人間たちと共存するための様々な掟を妖たちに課しているという。それがあったからこそ、他所ではほとんどなりゆかなくなってしまった、ヒトアヤカシの共存が成り立っている、と佐京に聞いたことがあった。


「妖返りの人間でも、か」

「お犬はんは物知りやねえ……あの子の力の源は妖と人が契ったなごりや。もともと霊力の高い巫女の家系ではあるけど、妖返りでさらに強うなっとる」


 ふふ、と雫石は笑って裾を翻し、犬神から顔をそむけた。美しく結い上げた髪の後れ毛が風に揺れ、簪がしゃらりとなる。


「可哀そう娘や。人にも妖にもなりきれない、憐れな子。それでもあの子は、人間としての生き方から離れられない」

「それは、あの神主のせいか」

「それもあるけど、自分で自分を縛りつけとるんはあの子や。やと、信じ込もうとしとる」


 ぎりっ、と唇をかみしめて、雫石は悔しげな表情をうかべる。だが、犬神はその言葉に同意はせず、むしろ冷ややかに見つめていた。

 あの娘の、本当の幸せ。人間としての「幸せ」を選ぶのであれば、一定の地位と権力を持った伴侶を得て子をなす、それ以上の幸せはなかろう。あの神主はそれを満たしているように見えた。あの娘が、人間としての幸せを信じているならば。


「なら、それがあの人間にとっての幸せなんじゃないか。妖がいろいろと手出しをするのは、それこそ筋違いなもんだろう」

「霊力が強い――ただそれだけの理由で、好いとらん相手と子を産むことを求められる。それのどこが幸せなんや!」


 振り向いてこちらを睨みつけてくる雫石の言葉に合わせてぶわり、と風が渦巻いた。どうやら、犬神の言葉は地雷を踏んだらしい。せっかく収まりかけていた激情が、再びこちらへ向いてしまった。まったく、これだから女はよくわからない。そうため息をついて、犬神はやれやれと頭を振った。


「それは、お前の主観だろう。あの娘が、そういったのか」

「それは――そんなことは、絶対言いよらん……。あの子は優しすぎるんや。ヒトにも、アヤカシにも……」

「まあ、そうだろうな……見ず知らずの俺にすら、あれだけ惜しげもなく手を差しのべられる娘だ。いろいろと生き辛かろう」


 雫石の言葉に同情の意を見せてやると、少し落ち着いたらしく、風がわずかに緩まった。この女とて、本当はわかっているのだろう。誰が決めることでもない、「本当の幸せ」は、あの娘自身が決めることなのだということを。

 こんなものは、ただの八つ当たりだ。先ほど、犬神自身があの娘にしてしまったのと同じ。自分の手に負えないものをどうにかしたくて、当り散らしているだけ。 それが、犬神には痛いほど感じ取れた。


「俺があの娘にしてやれることがなんなのか、俺自身にもわからん。だが――」


 犬神が言わんとしていることを感じ取ったのか、雫石はじっとこちらを見つめ、言葉の続きを待つ。女郎蜘蛛は情に弱いが、犬神は義に弱い。一度受けた恩は決して忘れない一族なのだ。



「あの娘は二度俺の命を救った。その礼の分ぐらいは、きっちり返してやる」


 そう言い放ち、踵を返すと、犬神はもといた洞窟のほうへ歩き始めたのだった。

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