3.自己嫌悪

 外に出てから感情に任せて進んでいくと、犬神はいつの間にか開けた場所に来ていた。どこか見覚えのある風景に首を傾げてから、つい先日あの少女と連れ立ってきた草原だということに気づく。


「くそ……っ」


 荒れ狂う感情を制御しきれず、地面を蹴り上げる。どれだけ忘れようとしてみても、涙を流す少女の表情が脳裏に焼き付いて離れない。そのことがまた余計に自分を苛立たせた。


(一体どうしたんだ。なぜ俺が人間の小娘一人に振り回されなきゃならない。泣いてたって、傷ついてたって構わないだろう。ただ、放っておけばいい)


 自分にそう言い聞かせてみたが、それでも胸のわだかまりは少しも無くならない。それどころか、考えれば考えるほど大きくなるばかりだった。


 胸を掻きむしりたくなるような衝動に深く嘆息して、草原の真ん中に座りこむ。見上げた空はどんより曇っていて、風がどこからか湿ったにおいを運んできていた。どうやらもうすぐ雨になるらしい。そうなる前に雨露がしのげる場所に行きたかったが、あいにく今さっき飛び出してきたばかりだ。当分は戻れないだろう。


(なんだか上手くいかないことばかりだな……)


 名前を捨ててこの山に逃げてきて、殺されかけたところをあの少女に助けられて、やたら敵意むき出しの神主に殺されかけてまた彼女に助けられて――なんだか殺されかけてばかりで格好が悪い。それでも今まだ生きていられるのは、ひとえにあの少女のおかげだと言っても過言ではない。


 二回目に殺されかけたのは確かに彼女のせいだったにせよ、知り合いならばと警戒を解いてしまっていた自分も迂闊だった。普段ならこんな平和ボケした獣のようなへまはしないが、あの時の自分はどうにかしていたらしい。それもまた悔しくて、あの時余計に彼女へ当り散らしてしまった。

 少し頭が冷えてきた今になって、追い打ちをかけるようにひどい自己嫌悪と後悔の念が襲ってくる。取り消せるものなら取り消したい。そう思っても、後の祭りだ。


 なぜ、この少女はこんなにも自分の感情をひっかきまわすのだろう。いままで生きてきた中で、良くも悪くも彼女ほど心をかき乱すものに会ったことはない。そう断言できるほど、いつの間にか自分の心の中で彼女が占める割合は大きくなっていた。


 だから、自分は彼女を遠ざけようとしたのだ。制御できない感情が怖くて、それがいつか彼女を壊してしまいそうで。

 今ならまだ間に合う。深みにはまってしまう前に思い切り拒絶して距離を置いてしまえば、このわけのわからない感情からも逃げられる。

 そう思ったのだが――。


「どれだけ逃げよう思うても、到底逃げられへん。必死でもがいてみても、どんどん雁字搦がんじがらめにされて深みに落ちていくだけや。なぁ、飛焔ひえんの旦那」


 艶やかな女の声が、まるで自分の心を代弁するかのような言葉を紡ぐ。捨ててきたはずの名前を呼ばれ、犬神は弾かれるように後ろを振り向いた。


「……だれだっ!!」

「えらいご挨拶やなあ、犬神はん。危うく丸焦げにされるとこやったわあ」


 目に飛び込んできたのは、涼しい顔をしてそうのたまう女だった。太夫のように色鮮やかな着物をまとった女は、犬神がとっさに放った炎をいとも簡単に手の扇で打ち払い、目を細めて笑う。犬神に向かって放たれている妖気はとうてい友好的とはいえないが、かといって積極的に攻撃してくる気も無いようだ。


「丸焼きにされたくなかったら今すぐ失せろ、女郎蜘蛛じょろうぐも。俺は今虫の居所が悪いんだ」


 いらだつ殺気を隠すこともなく言い捨てる。だが正体を言い当てられた女は慌てることも無く、うふふと笑いながらぱらりと扇を開いた。


「ふうん、奇遇やねえ。虫の居所が悪いんはうちも同じや。実はさっき、小さいころから可愛がって育ててきたおぃさんが、何処ぞの馬の骨にえらい泣かされてしもてなあ……」


 ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。女から向けられる殺気で、ぴしぴしと空気がきしむ。女郎蜘蛛ごときに圧倒されてなるものか――そう思っても、空間を歪ませかねないほどの妖気さついが向けられていた。


「お前はあの人間の娘の知り合いなのか……?」

「知り合い、なんて薄っぺらいものやあらへん。あのは私の娘も同然の子や。それをあないに泣かせるなんて……まったくええ根性してはるやないの」


 うっそりと女が微笑む。渦巻く妖気が空気を切り裂く。気を抜いたら最後、あっという間に屈服させられそうな力に頭がくらくらした。


「ほんまやったら許しなしにこの山へ入ってきた時点で八つ裂きにしたるところを、佐京はんのたっての頼みで見逃してあげてたんや。せやけど、ちょおっとおいたが過ぎるんとちゃう? 悪い子ぉにはたっぷりお灸を据えたらなあかんなあ」


 女が言葉を紡ぎ終わると同時に、妖気が爆発した。無数の糸が四肢を絡めとり、地面へと磔にする。逃げる間もなく犬神は身動きが出来なくなった。


「ただの女郎蜘蛛ではないな。血のように紅い桜の衣に、薄紅の瞳……一体何者だ」

「さてなあ、大層な身分なんてものは当の昔に忘れてしまったさかいに、今のうちは大城山の雫石や。それ以上でも、それ以下でもあらへん」


 雫石――どこかで聞き覚えのある名を聞いて、犬神は必死で記憶を手繰り寄せた。遥か彼方、京の都の山に、女郎蜘蛛の中でも随一と謳われる戦闘部族“血桜ちざくら”が棲んでいるという。確かその若頭領は一人娘でありながら、どこか別の山を気に入って山を去ったと聞いた記憶がある。同じ若頭領としてなんと自覚の無い者だ、と聞いたそのときは笑ったものだったが。


(まさかこの山に来ていたとはな……)


 思わず牙をむいて犬神が唸ると、雫石は呵呵かかと笑った。掴めそうで掴めない女だ。いくら掴もうとしても、するりするりと逃げていく女には関わらないほうが身のためだぞ――昔、幼馴染の白澤がそうぼやいていたのを頭の隅で思い出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る