2.覚悟
「あンのクソ犬、彩花が助けてやった恩も忘れて……!!」
「まあ落ち着け、銀星。悪態ついたってどうにもならないだろう」
「今すぐ追いかけて、カタつけてやらぁ!!」
犬神が出て行った洞窟では、吠える銀星とそれをいさめる佐京がすったもんだをしていた。今にも犬神を追いかけていきそうな銀星を、佐京が前に立ちふさがってとめる。これで雫石も銀星を止める側へ加わればまた違っただろう。しかしそばに控えている雫石は何も言わず、ただ洞窟の中のなりゆきを眺めているだけだ。もともと戦闘向きではない白澤が怒り狂った狐を抑えきれないのは、だれが見ても一目瞭然だった。
「……私は大丈夫。ありがとう銀星。全部、悪いのは私だから」
とうとう佐京の押さえも聞かなくなり、いよいよ銀星が洞窟を飛び出そうとした時、ぽつりと彩花が言葉を零した。消え入りそうな少女の声に、もみ合っていた二人が動きをぴたりと止める。助かったとへたり込む白澤を横目に、狐はぐっとこぶしを握りしめ、何か言おうとしては口を閉じた。
「でも彩花……あんなにお前、一生懸命介抱して……それなのに……」
「ううん、いいの。そう思われても仕方ないことを、私はしたのよ」
「あれは、あのバカ神主が勝手にやったことだろ!」
「いいえ。私の不注意だわ。そうなるとわかっていたのに、気づけなかった私の責任」
半ば自分に言い聞かせるように話す少女に、銀星は何も言えなくなり、ぐっと押し黙る。あんなにひどいことを言われてもなお、彩花は犬神を責めない。それがこの少女のいいところでもあり、同時に弱さでもあった。銀星、佐京が言葉に窮する中、洞窟に沈黙が落ちる。その静寂を破ったのは、一人の女の声だった。
「――あんたはほんとにそれでいいん? 彩花」
「雫石姉さん……」
「中途半端にかかわるんやったら、これでもう終わりにしとき。あのお犬はんが抱える闇は、私らの時とは比べもんにならんくらい、ごっつう根の深いもんや」
これまで静かになりゆきを見守っていた雫石が放った言葉に、彩花は初めて顔を上げた。戸惑いと、迷いが顔に浮かんではいたが、その眼はしっかりと雫石を見ている。その顔をまっすぐ見て、雫石は厳しい表情のまま言葉をつづけた。
「今やったらまだ間に合う。お犬はんのことからすっぱり手を引くか、覚悟を決めたうえでかかわるのか。この際はっきりさせておいたほうがええ」
「おい、雫石! 彩花をこれ以上深入りさせるのは……」
「そうだ、これは妖の問題だ。彼女が関わるべき事ではないと思う」
「二人とも黙って聞き! これはあんたらが決めることやない、彩花自身が決めることや」
焦った様子で声を上げる銀星と佐京を一喝し、雫石はひたと彩花を見据える。前に進むか、見なかったふりをして引き返すか。その選択は、一人の少女が今すぐ選び取るには重すぎる。そんな二匹の妖たちの思いを知ってか知らずか、少女は固く唇を引き結んだまま答えを返せないでいた。
「一度進んだらもう、後戻りはできへん。あのお犬はんに関わるには、それだけの覚悟が必要や」
「覚悟……」
「――あんたに、妖の世界で生きる覚悟はあるか?」
冷たい洞窟の中に、雫石の声がこだまする。何度も問われ、そのたびにあきらめてきた選択。大城山の妖の多くがこの少女に望み、彼女自身がつかみ取れないでいる未来――それを改めて雫石は問うた。
彩花は是と答えることはなく、ただ口を閉ざし、地に視線を落とす。その様子に、佐京と銀星は内心ほっとした面持ちで、二人のやり取りを見ていた。
この二匹とて、優とこの少女の結婚を望んでいるわけではない。好いた相手と添い遂げる、それが一番の幸せだとは思っているし、
思い思いの感情に黙る一同の中で、さっと立ち上がったのは雫石だった。その意図が分からず何事かと見上げる佐京には目もくれず、洞窟の入り口をひたと見据えてすたすたと歩きだす。だが数歩進んだところで彼女はなぜかぴたりと足を止めた。
「うちはお犬はんと少し話をしてくるさかいに。後は任せたで、佐京はん」
「え? ああ……あまり叱ってくれるなよ、あいつもいろいろ複雑なんだ」
「だから彩花をいじめていいわけはあらへん。そこはしっかりわかってもらわななぁ……」
着物の袖で口を押さえながらくつくつと笑う雫石に、佐京と銀星は心の底から震え上がった。怖い。怖すぎる。この顔をしている雫石は、とてつもなく怒っている。佐京はこれから彼女にたっぷりとお灸をすえられるであろう幼なじみの行く末をひそかに憐れんだ。
すっかり縮み上がった二匹に一瞥をくれると、雫石は彩花のほうへと向き直る。その表情は、先ほどとは打って変わって柔らかな、けれどどこか寂しげなものへと変わっていた。
「彩花。あんたは優しい子や。人に迷惑をかけまいと、そればっかり考えとる」
「……雫石姉さん」
「でもな、うちはあんたにもっと素直になってほしいんや。そのためやったらどんだけ迷惑かけられてもかまへん。そう思っとるんよ」
それだけ言い残して、雫石は外へ向かってさっと駆け出して行ったのだった。
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