3章 自覚と覚悟

1.覚醒

 ぼんやりと揺らぐ意識の中、遠くで声が聞こえる。柔らかな少女の声音――なぜかそれを聞くたび、ひどく心が安らいだ。


 息をするたび、みしみしと骨が軋む。息は細く、十分に呼吸するのもままならない。泥の海に沈められたように体が重い。どうやら、あの男がかけた結界は自分が思っていたよりも深く身体を痛めつけるものだったらしい。妖力が完全に回復していたらあんな男ごとき遅れは取らなかったのに、と今更ながらに悔しかった。


 そんな悔しさを和らげるように、身体へ優しく触れる感触があった。それが体の上を通り過ぎるごとに少しずつ重い身体は軽くなり、不思議と痛みも薄くなっていく。まるで母犬の舌のような温もりは心地好く、どこか懐かしい。

 やがて体全体を包み込むように広がる優しい温もりは、とろとろと少しずつ意識を溶かしていった。






 次に目覚めたとき、体の痛みはほとんどなくなっていた。目を開ける前にまわりの気配を探ると、馴染み深いものがひとつ、甘い香りを放つものがひとつ、嗅ぎなれないものがふたつある。たかが手負いの犬神一匹になんて大層な数だ、と痛む頭の端で思う。


「また死に損なったね」

「相変わらず口が減らないな。全くこの土地に来てから災難続きだぞ、佐京」

「半分はお前が引き寄せた災難だろう? こっちに責任転嫁をしないでほしいね」

「ふっ、それもその通りか」


 薄く目を開けて笑うと、ぼんやりと視界の端に映った佐京も続けて笑った。相変わらずの皮肉げな笑みだ。その隣の少女はといえば正反対で、今にも泣きそうな顔をしている。理由は聞かずとも知れていた。残りの半分の災難は、彼女が引き寄せたものなのだから。


「あ、の……」

「何だ、人間の娘。謝りの言葉ならいらんぞ」

「……で、でも私のせいで……!」


 弱々しい声が言葉を紡ぐ。それがどうしてか酷くかんに障った。きしむ身体を無理矢理起こし、ぴたりと少女を見すえて口を開く。


「くどい! 少しでも悪かったと思うなら俺の前に二度と姿を見せるな。それが一番の償いだ」


 そこまで言い切ると、少女の表情が強張った。すぐに目線を逸らして下を向き、必死に唇をかみ締めて泣くのをこらえている。だが、涙腺が決壊するのは時間の問題だろう。あともう一押しすれば、この少女はきっとここから出て行く。


「傷を癒してくれたことには感謝する。が、罪滅ぼしの治療ももう十分だ。これ以上は必要ない。早く目の前から消えてくれ」

「……っ!!」


 くしゃっと少女の顔が大きく歪む。目尻にせり上がる涙がとうとうせきを切って零れ落ち、少女の衣服に大きな染みを作った。カタカタ震える唇は何か紡ごうとするものの、うまく声が出ないらしい。

 ここまで傷つければ狙い通り人間の娘はもう二度と姿は現さないはずだ。そうすれば、きっと安寧が訪れる。訳の分からない感情に翻弄されることもない。妖と見れば見境なく攻撃を仕掛ける神主に狙われることもない。自分にとってはいいことずくめだ。


 だがゆっくりと顔を上げた少女と目が合った瞬間、胸をかきむしりたくなるような感情に襲われた。


(何だ、これは……?!)


 荒れ狂う激情が渦を巻く。自分の意思で少女を傷つけたのに、胸の奥がひどく痛む。まるで、少女の痛みがそのまま自分に跳ね返ってきたかのように。


「早く去ね、人間の娘!」


 耐え切れず、胸の痛みを振り払うように大きな声で吼えた。こんなものはただの八つ当たりだ――そう分かっていても、止められない。心にもない言葉をどんどん紡いでしまう。


 それでも少女は動こうとしなかった。涙に濡れる瞳は傷ついた色を浮かべながらも、まだ一縷いちるの希望を探していた。ひどく透明でもろい双眸には力などないはずだった。だがその瞳に射抜かれたような錯覚に襲われ、思わず少女から目を逸らしてしまう。


 わけのわからない感情に振り回されて、頭が痛い。すべてから逃げたくて目を閉じたものの、必死で嗚咽をこらえる少女の声はいやおうなしに耳へ入ってくる。すべて自分が招いたことなのに、犬神はこの場から逃げ出したくてたまらなくなった。


(頼むから、そんな声で泣かないでくれ。お前の泣き声を聴くと、俺は――)


 そこまで考えてから愕然とした。一体、彼女を泣かせたのは誰だ。こんなにもひどく傷つけたのは誰だ。すべて、自分がやったことではないか。

 はらはらとただ涙をこぼす少女を前に、あらためて自分が何をしたのかを思い知らされた。


「……っ、外の空気を吸ってくる」


 やがて耐えきれなくなった犬神は、他の二人の刺すような視線を振りほどくように身を起こし、掛け布を蹴立てて走るようにねぐらの入り口を目指した。

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