9.風と運び屋

 ひとしきりついたところで銀星の相手は雫石に任せ、彩花は改めて傍らに倒れている犬神の怪我の具合を診た。

 体のあちこちにできた裂傷から血が流れ出しているものの、目立った大怪我はなさそうだ。先ほど頭に血が上っていたときには今にもこの犬神が死んでしまいそうなくらいの怪我に思えたのに、冷静になってみるとそれほどひどいものではない。 それでもいまだに失神したままで浅い呼吸を繰り返しているところをみると、相当なダメージを受けたのだろう。


(命に関わる怪我はない……でも、誰かに頼んで傷を癒してもらったほうがいいわ)


 昼間あれほど綺麗に輝いていた美しい被毛は、泥と血にまみれてくすんだ色に変化していた。苦しげに顔を歪めたまま気を失っている犬神を心配そうに見つめ、思わず彩花はその身体に手を伸ばしかける。だが傷にさわると気付いてその手を引っ込め、かわりに雫石のほうへ顔を向けた。


「雫石姉さん、犬神さんの怪我のことなんだけど……」

「ん? ああ、それなら心配せんでもええ。この青二才狐だけやと不安やったし、もう一人、運び屋を呼んどいたんよ。じきこっちに到着して、犬神はんを元のねぐらまで運んでくれるやろ。そん時ついでに怪我治すんも頼んだらええわ」

「運び屋って?」

「それはうちにもわからへん。佐京はんに頼んださかい、大丈夫やと思うけど」


 青二才とか言うなー! と噛み付く銀星を華麗に無視し、雫石はうふふと笑う。その言葉に彩花は少し間をおいて頷いた。佐京が選んだ者ならきっと大丈夫だろう。そう思ってほっと胸をなでおろした彩花の耳に突如届いてきたのは、風に乗ってやってきた木霊たちの声だった。


――ふうわりふわり、天狗様のお通りだい――

――お通りだい――

 

 地面をける高下駄の音に、白藍のものとは違う渦巻く風の音。木霊たちを従えて山を駆けめぐる天狗と言えば、木の葉天狗だ。だが彼らはうるさい高下駄を好まない上、ほとんど日中にしか行動しない。烏天狗もまた然りである。となれば、あとは白い法衣に朱面が特徴的な山伏天狗しかいない。それも、かなり高位の。そこまで考えたところで、彩花は一人の例外を思い出した。


「市伊さん!」

「よっ、久しぶりだな、彩花。相変わらずいろいろと大変そうじゃないか」

「えーとまあ、はい。いろいろ……」


 軽やかに笑いながら彩花の前に現れたのは、他の山伏天狗たちに比べると細身で長身の青年だった。彼はまぎれもなく山伏天狗なのだが、なぜか木霊たちに懐かれていたり、大城山の大神の片腕を担っていたりといささか普通の山伏天狗とは異なっている点が多い。そのためこの山ではかなり有名である。


 彩花も彼の名前は銀星から名前はよく聞いていたものの、会ったことはほんの数回しかない。それでも向こうは彩花の身に起こっていることはたいてい把握しているらしく、お前も大変だな、と苦笑されたあとぽんぽんと頭を撫でられた。


「何が起こったのかはだいたい佐京と木霊たちから聞いている。望みどおり、この犬神を運んで、怪我も癒そう。こちらとしてもちょうど良い頃合だったしな」

「ちょうどいいって何のことですか?」

「こっちの話だ。気になるならあとで佐京か銀星にでも聞くといい。今日はもう遅い。家まで送ってやるから、あとの事は任せてゆっくり休め」

「わかりました、そうします」


 低く優しい声には、なぜか素直に頷いてしまう。


(この人なら、後を任せても大丈夫。犬神のことも、ちゃんとしてくれる)


 そう思わせる何かが市伊にはあった。


「よしよし、良い子だな。俺の風は白藍ほど優しくないが、それは我慢してくれよ」

「はい」


 言われるがままに頷くと、目を細めて微笑んだ市伊はくしゃりと彩花の頭を撫でる。大きな手で撫でられるのは何だか安心するようで心地好かった。

 ひとしきり彩花を撫でた後、市伊はふところからきらびやかな扇を取り出した。天狗が持っている扇と言えば、聞いたことがある。一度扇げば千里先まで一瞬にして飛んでいける、という天狗の秘宝だ。「風」とはそういうことか、と彩花は一人納得した。


「じゃあ、いくぞ」


 ぱらりと扇を開いた市伊の声に、彩花は大きく頷き目を閉じる。実を言うと白藍の風もそれなりに荒っぽいのだが、彼の言うことが本当ならば天狗の風はそれ以上に荒いらしい。それなりに覚悟しておくべきだろう。

 そう思った彩花の思考は正しかったと十分思い知らされたのは、次の瞬間襲い掛かってきた風に押し流され、あっという間に家の前へと放り出された後だった。

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