8.結界と力

「ごめんなさい……っ!!」


 犬神が失神していて意識がないとは分かっていながら、彩花はそう叫ばずにはいられなかった。

 どうやって謝れば許してもらえるのだろう。いや、許してもらえないかもしれない。せっかく心配して街まで送り届けてくれた犬神に、こんな仕打ちをしてしまったのだから。


「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめ、なさい……っ!」


 一つ、二つ、涙が転がり落ちる。それをきっかけに、あふれてくる涙が決壊した。滲む視界の先に、浅い呼吸を繰り返す犬神がいる。跪いてそっと手を伸ばすと身体にはあちこち裂傷があり、ところどころ血が流れ出していた。逃げようとしたときに妖力を使い果たしたのか、傷を癒すための妖力は全く残っていない。そのため本来なら考えられないくらいに傷の治りが遅くなっていた。


「ごめんなさい……今すぐ――」

「彩花、駄目だ。お前がここで霊力を使うと、力が強すぎて結界が綻びちまう」


 印を結んですぐに犬神の傷を癒そうとしていた彩花の後ろから、銀星の静かな声が響いた。その言葉にびくっと肩を震わせたが、組んだ手はかたくなに下ろそうとしなかった。


「……そんなの、知ったことじゃないわ。もともとこのひとを傷つけたのはあっちのほうでしょう。せいぜい慌てたらいいのよ」

「あのな、だからといって結界を壊して良いというわけじゃ――」

「いやよ、知らないわ! 何度も何度もあなたたちを傷つけて、今回こそ許さないんだから……っ!!」


 利かん気を起こした子供のように彩花は首を振った。この狐は自分に甘い。涙で濡れた顔で睨みつけると、銀星もそれ以上強いことは言わなくなった。遮るものがいなくなった彩花は印を結んだ手に力を込め、祈りの言葉を紡ぎ始める。


「伏して願い奉る。全てを癒し、不浄を取り除く雨よ――」

「やめぇ、彩花!!」


 祝詞のりとを半分も唱え終わらないうちに、突然鋭い恫喝どうかつがあたりに響き渡った。鋭く走った頬の痛みと衝撃に思わず彩花が祈りを中断すると、言霊で力を増していた霊力はあっという間にしぼんでいく。驚きに目を見開き、頬の痛みに呆然としている少女の目の前に立っていたのは、鮮やかな紅色の着物を着た一人の女人だった。


「雫石姉さん……!」

「何やっとるんや! あんたの今やろうとしてたことは、子供の駄々っ子みたいな我が侭や。一般の人まで巻き込むつもりなんか!?」

「一般人を……巻き込む……」

「そうや! 結界が綻びて一番迷惑かかるんはあの馬鹿神主やない、街に住んどる一般人やろ。そんなんも分からんのやったら、霊力なんか使いなや!!」


 豊かな黒髪を振り乱し、鬼女もかくやという形相で叱り付ける女の言葉に、彩花は弾かれたように顔を上げる。今、自分は何をしようとしていたのだろう。


(わたし、なんてことを……!)


 街を護る結界なんて知らない。むしろ、自分の力に引きずられて綻びた結界にせいぜい慌てればいい。頭に血が上っていた彩花は先ほどそう口にした。今、雫石に頬を張られて我に返り、改めてそれが引き起こす事態を改めて想像してみる。自分がどれほど馬鹿な真似をしようとしていたのか、嫌というほど理解できた。


「少しは頭が冷えたみたいやな。自分がどれだけ馬鹿なことしようとしてたかよう分かったやろ」

「はい……よく、わかりました」

「分かったんならええ。これからも霊力使うときはまず考えるんやで。ここで使うても大丈夫か。誰にも影響ないか。それを考えられてこその力や」


 膝をついて彩花と同じ目線になり、雫石は真剣な目でそう言った。その言葉に、彩花は深く頷く。小さいときから叩き込まれていたはずの、その教え。自分だけはそれを見失わずに力を使えると思っていたのに、これほどまであっさり揺らぐとは思わなかった。

 もし、雫石が止めてくれなかったら、彩花の霊力に惹かれてやってきた下級の妖達が大量に街に流れ込み、一般人を襲っていたかもしれない。そうならなくて良かった。少女はほうと安堵の息をつき、自分を止めてくれた雫石に深く感謝した。


「ありがとうございました、雫石姉さん」

「礼にはおよばへん。大体な、お狐様がついていながらなんちゅう有様や。どうせ大甘狐はんのことやから、彩花にちょおっと強う言われただけで大人しく引き下がったんやろ。ええ加減、猫っ可愛がりするんは自分の妹までにしときはったらええんや」


 深々と頭を下げた彩花の頭をにっこり笑って一撫でした後、雫石は情けない顔のままたたずむ銀星に向き直った。美しい笑顔のままに狐へ向かって放たれた声は先ほどより明らかに低く、全く目が笑っていない。

 そういえばこの二人ってあんまり仲良くないんだった、と彩花が思い出したときにはもう遅く、いつもの応酬が始まっていた。


「う、うるせえ! お前はいっつも二言も三言も多いんだよ!」

「あーあ、負け犬はんの吼える姿はみっともないわあ。吼えるんならもう少し可愛く吼えよし」

「あいっかわらずムカつくなあお前! つーか俺は犬じゃねえ、お狐様だっ!!」

「はん、大したことも出来ないくせに態度だけは一人前以上? お狐様が聞いて呆れるねえ」

「てめーだってえらそうな態度だろうがー!!」


 突っかかる銀星に、それを華麗に受け流して皮肉る雫石。いつもの通り、雫石の圧勝だ。山の者たちに聞くと、百年前から似たような喧嘩を繰り返しているらしい。銀星にも少しは進歩があってもいいものなんだけどな、と二人の喧嘩を見るたび彩花は思うのだった。

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