5.まどろみと目覚め
「……い、そろそろ起きてはくれないか?」
「……ん……」
温もりに包まれた心地好いまどろみの途中、何か冷たいものに揺り起こされて彩花は寝ぼけ眼で辺りを見回した。太陽が明るく照らしていたはずの草原は様変わりしていて、すっかり夕闇に包まれ始めている。いつもの彩花なら少し急ぎ足で山を降りている時間だった。
(あれ、私なにしてたんだっけ……?)
回らない頭で必死に考える。たしかこの草原に来て、元の姿に戻った犬神に被毛を触らせてもらって、それから――。
「私、もしかして寝ちゃってた……?!」
記憶を辿ってひとつの答えにたどりつく。その言葉に、傍らの犬神は大きく頷いた。なぜか、ものすごく犬神の顔と彩花との距離が近い。その理由を考えてから、先ほどの冷たい感触は犬神の濡れた鼻面に揺り起こされたからだったのかと気付いた。
「ああ、気持ちよさそうに寝ていたぞ。起こすのは忍びないと思ってそのままにしていたんだが、さすがにこの時間になるとそろそろ山を降りないといけないだろう?」
犬神と言葉を交わすうち、だんだんと頭の中が晴れていく。もふもふした毛のさわり心地にだんだん眠くなってきた彩花は、やがて犬神に抱きつくようにして眠ってしまったらしい。そして動けなくなってしまった犬神はどうにも出来ないまま、彩花と共にいてくれたということだった。
「ご、ごめんなさい……!!」
「謝ることはない。こちらとてこんなにゆったり日向ぼっこしたのは久方ぶりだったし、何より可愛い寝顔が見られたからな。それで十分だ」
(か、可愛い……っ?!)
返ってきた言葉に、思わず彩花は言葉を失った。遅れて頬が熱くなってくるのを感じ、思わず目を伏せる。今が日暮れでよかったとこれまでにもなく感謝した。
どうしてこう、妖というものはそろいもそろって口がうまいのだろうか。至極真面目で嬉しそうな顔をしているところから見て、冗談やからかいの類ではないのだろうが、だからこそどう返事していいのか分からない。
「ん? どうした? 俺が何か気に触ることでも言ったか?」
少女の困惑した顔に、犬神が気が付く。怒っているのではない。ただ、言われ慣れていないのでどう反応をすればいいのかわからない。それだけはきちんと伝えておきたくて、彩花はためらいながら口を開いた。
「そんなことはない……けど。あなた、ちょっと気軽にいろいろ言いすぎじゃない?」
「ふむ、俺は思ったことを口にしただけなんだがな。嫌だったか?」
「そりゃ、嫌ってことはないけど……!」
「だったらいいだろう。それに、いろいろ言うとくるくる表情が変わるお前を見ているのも楽しい」
最後の止めに、少女は返す言葉を失った。どうやら佐京と同じく、この妖にも口では勝てないことを、彩花は早々にして悟ることになった。
「そろそろ山を降りねば危ない時間ではないのか?」
「そうだわ。大変、早く山を降りないと日が暮れちゃう……!」
西を見るとすっかり太陽は明るさを潜め、空には一番星が輝き始めている。完全に日の光がなくなるまでに山を降りなければまずい。いくら彩花が妖と言葉を交わせる能力があったとしても、夜の山を一人で歩くのは危険すぎる。友好的な妖の数より、その高い霊力に狂わされ彩花を喰らおうとする妖のほうが多いからだ。
「一人で人里まで帰るのは危ない。ふもとまで送ってやろう」
「ごめんなさい、でも……言葉に甘えさせてもらおうかしら。白藍がいれば、あなたに迷惑をかけずに済んだんだけど」
自分の行動が結果的に迷惑をかけることになってしまい、彩花は申し訳なさでいっぱいになる。護衛の真似事など、本来であれば犬神に頼むべきではない。しかし、それ以外に安全に山を下りる方法がないことも、またよくわかっていた。その思いを知ってか知らずか犬神はそういえばと言葉を返す。
「確かに今日はあの白い鎌鼬がいないな。いつもお前のそばにいるものと思っていたが……」
「今日はこの山の大神様にお使いを頼まれていて、少し遠くの山へ出かけてるの。けっこう距離があるから、明後日まで帰ってこれないと思う」
「そうか。ならばなおさら丁重に送っていかねば」
「ありがとう。よろしくお願いします」
心優しい犬神に精一杯の感謝の気持ちを込めて一礼する。その動作に頷いた犬神はぶるっと身体を震わせる。そこにはもう獣の姿は何処にも見当たらず、かわりに紅い髪の青年が立っていた。
(あっ、元に戻っちゃった。山を降りるまでの間、もうちょっと見られるかなって思っていたのに……)
「こちらのほうが歩きやすいから――ああ、そんな顔をしないでくれ。また今度犬神の姿になってやるから……」
犬神が人間の姿になった途端、つい残念そうな顔をしてしまったのが分かったのだろう。子供をなだめるような口調に彩花は少し拗ねそうになったが、それよりもまた犬神の姿を見に来ていいと言われたことに反応してしまう。
「……ほんとに? またここに来てもいいの?」
「いつでも訊ねてくるといい。当分俺はこの山にいることになりそうだからな」
「ありがとう! 絶対にまた来るわ!」
自分でも相当現金だと思ったが、それですっかり彩花の機嫌は直ってしまった。また犬神の姿を見られる。そう思っただけで心はうきうき弾むのだから、仕方がないだろう。
「うむ、やっぱりそなたの表情は愛くるしいな」
「人間の姿でそれを言われると余計に恥ずかしいから、できたらやめてほしいんだけど……?」
「そうか? 俺はただ思ったことを言っているだけ――」
「それが恥ずかしいの! ほら、もうさっさと行くわよっ」
「わかったわかった、そなたの言うとおりにしよう」
照れ隠しにさっさと歩き出す彩花の後ろから、笑いをこらえた声が追いかけてくる。そうして二人は山道を歩き出したのだった。
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