6.嫉妬と確執(1)
暗く不気味な山道も、二人で歩くと楽しい道へと早変わりする。そんなこともあるのだと彩花は今日改めて知った。人里近くまで来るにはかなりの距離があったはずだが、彼と話しているとあっという間だった。
「あの……そろそろ街にも近くなってきたし、ここら辺で大丈夫よ」
そう彩花が切り出したのは、山を降りて街の光がだいぶ近くなってきたところだった。
「ん? まだ街についてはいないのだろう? 遠慮しなくとも、街の入り口まで送るぞ」
「心配しなくてもいいわ。もうすぐ水城神社の加護する土地に入るから、妖に襲われることもないし」
むしろ、あなたが襲われるかもしれないから心配です、とはあまり言いたくない。しかしこれ以上犬神をこの土地に近づかせたら、そういうことだけ変に聡い優に気付かれるかもしれない。妖嫌いの彼のこと、妖と彩花が並んで歩いているところなんて見られた日には、間違いなく問答無用で退治しようとするだろう。
「ふむ。ならば俺はここまでで帰るとしよう。ちょうど迎えも来たようだし、よかったな」
「迎え、ですって……?!」
彩花の言葉にあっさり頷いた犬神にほっと安心する。だが、彼の次の言葉は彩花を酷く驚愕させた。迎えが来た――それが意味することは、一つしかない。考えるより先に言葉が浮かぶ。振り返る間も惜しんで彩花は叫んだ。
「お願い! 早く逃げて!! あの人が到着する前に……っ」
「――無駄だ!! 逃がしはしないッ!!」
犬神が彩花に返事をする前に、もう一人の男の声が飛び込んでくる。彩花の良く知った、鋭く耳を打つ声。同時に空気を切り裂いて飛んでいくものがあった。横をすれすれに通り過ぎた飛来物はまっすぐに犬神へと向かっていく。彩花が防ぐ間もなく犬神の四方を囲ったそれは細かな光の牢壁を作り、抵抗できずにいる妖を縛り上げた。
「なっ?! ぐ、ああああ……ッ!!!」
「やめて! この妖は何もしていないわ! お願いだから――」
「いいや、やめないよ。妖の分際で君と一緒にいた。僕にとってはそれだけで退治に値する妖だ」
彩花の言葉を強く遮り、優は冷たく言い放つ。その口調に、彼が全く聞く耳をもたないことが容易に分かった。どうすることも出来ないまま、ただ唇を噛みしめて優を見上げる。この状況で犬神に駆け寄れば火に油を注ぐことになるのは目に見えている。さらに優を激昂させてしまうことは、この状況において得策ではなかった。
(駄目。今ここで私があちらに近寄れば、きっと取り返しのつかないことになってしまう……)
今すぐに犬神のもとへ駆け寄りたくなる衝動をぐっとこらえて、強くこぶしを握りしめる。そうでもしていないと、自分の感情を抑えられなかった。
彩花は酷く後悔した。半ば白藍といる感覚で共に街まで近づいてきてしまったこと自体がまず間違いだったのだ。甘く見るんじゃなかった、もっと早くに別れればよかった。そう悔やんでももう遅い。
「すぐに調伏などしてやるものか。たっぷり、いたぶってやる」
彩花の目にも映るくらいに近づき、優は結界に囚われた犬神を憎々しげな目で真っ直ぐ睨み付ける。すうっ、と印を結んだ指を振り上げると途端犬神の顔が苦痛に歪んだ。男はそれを楽しむかのように口元をゆがめて笑い、さらにきつく犬神を縛り上げていく。
犬神は必死に結界から逃れようとするが、かえってそれが苦痛を生み出す結果になっていた。みしみしと骨が軋む音が彩花の耳にも届く。ここは神社にも近く、優の力は神の加護を受けてずいぶんと増している。対する犬神は手負いで妖力も弱まっている。どう見ても優のほうが有利な戦いだった。
「彩花、そこでこの狗が退治される様をしっかり目に焼き付けておくといい。そうして、もう二度と妖と仲良くするなんて考えは起こさないことだね」
「あなたはどこまで酷い人なの……!!」
「酷い? 心外だなあ。僕はただ、街や人に近づく妖を退治しているだけだよ。立派に神主の勤めを果たしているじゃないか」
くくっと喉を鳴らして笑う優に、彩花はいっぱいの涙を浮かべながら叫ぶ。お願いだから、結界を解いて、犬神を開放して。切に願う少女の願いは、彼には全く届かない。
「勤め? 何の害もなしていない妖を殺すことが神主の勤めなの?!」
「害をなしてからでは遅いんだよ。やられる前にやる。それが鉄則だろう」
「そんなの――」
「さあ、論議はここまでだ、彩花。そろそろいじめるだけも面白くなくなってきたからね。言ったとおり、この妖には消えてもらおう」
一方的に会話を終わらせて、優は息も絶え絶えな犬神のほうへと向き直る。そうしてもはや抵抗する気力すらなくなった妖を調伏するための言霊を静かに唱え始めた。
ああ、もう駄目だ。助けられない。そんな絶望が彩花を襲う。己の無力さを呪っても、うかつさを悔やんでも、この状況は一変しない。
(どうすればいいの……?!)
この絶望的な状況で、犬神を救う方法。どう行動すればあの結界を解き、優の力を押さえ込むことが出来るのか――必死で考えを巡らせる彩花の脳裏に、一人の妖の姿が浮かぶ。困ったときにいつも手を差し伸べてくれる彼なら、この願いが届くかもしれない。本当はこんな手を使いたくなかったが、犬神を救うにはこれしか思いつかなかった。
――もしも彼に、この声が届いたなら。
『伏して助力を願い奉る。大城山を統べる神の
彩花の言葉と優の言霊が終わるのは、ほぼ同時だった。
放たれた光に目を焼かれないようかたく目を閉じた彩花の耳に、ガラスを打ち砕いたような音が鳴り響く。果たしてそれは結界が破られた音か、魂が崩れ行く音か。その場にいる者たちに結果を知らしめたのは、あたりの空気を一変させる美しい鈴の音と男の声だった。
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