4.草原と日向ぼっこ
少女が犬神を連れて行ったのは、三本杉から少し登ったところだった。緩やかな斜面に広がる日当たりのよい草原は大岩の次に気に入っている場所だ。
「こんなところがあるのか……」
「いい所でしょう? お昼寝にもってこいなのよ」
「ああ、気持ちよさそうだな」
柔らかく笑ってあたりを見まわす犬神に、彩花は満足げに頷く。
一面を緑で彩る草は青々としていていいにおいがするし、寝転がる場所さえ選べば草は最高のクッションになってくれる。まだ夏ほどは日差しが強くなりすぎていない今の時期、ひなたぼっこをするにはうってつけの場所だった。
「じゃあ、あの、犬神の姿に戻ってもらってもいい……?」
あまりずうずうしく言い過ぎるのも気がひけて、少しばかり控えめにお願いをしてみる。すると、犬神はその言葉に頷きかけ――はたと困った顔をした。
「その、すまないが……手を離してもらえるか? にぎられたままだと戻れない」
「え? わっ、ごめんなさいっ!」
指摘されてはじめて、彩花は手を握ったままであることに気付いた。
慌てて手を離すと、犬神はそっと身を引いて距離をとる。それで、今までどれだけ犬神と近い距離にいたのかが分かり、少女は思わず赤面した。
(私ったら、なにやってるの……!)
改めて思い出してみて、自分がどれだけ浮かれていたのかを気付かされた。穴があったら入りたい。犬神と目をあわせられないままでそう唸っていると、上から笑い声が降ってきた。
「ふむ。見ていて本当に飽きないな。表情がくるくる変わって愛らしい」
「……っ?!」
「ほら、また変わった。百面相とはよく言うが、本当に百ほど出てきそうだ」
(愛らしいとか百面相だとか……褒めてるのか褒めてないのかどっちなの?!)
彩花の表情を見て楽しんでいるらしい犬神の言い様に、またもや動揺させられる。佐京のように明確にからかう意図があると分かっているのならまだ返しようもあるのだが、どうもこの犬神は純粋に思ったことを口にしているだけらしい。
おかげでどう返せばいいのかさっぱり分からず、その一言一言に翻弄されてばかりだった。
「さて、そろそろ本題に移ろうか」
ひとしきり笑い終えたところで、犬神はそう切り出した。もう一度、あの犬神の姿が見られる――そう思っただけで、嬉しさと期待が入り混じってじわりと胸に広がる。犬神の言葉に、彩花は逸る心を抑えて頷いた。
「いくぞ」
短くそれだけ言うと、犬神はすっと目を閉じた。
ゆらりとその身体から立ち上ったのは
人間の口から吐き出されるその声は明らかに人間のものではなく、彼が人間とは異なるものなのだと改めて認識させられた。
やがてあたりに響き渡った声に応えるように、焔がぶわりと膨れ上がった。焔に包まれていた犬神の身体の輪郭はその中で形を変え、四本足の獣へと変化していく。やがて焔が勢いをなくして消えうせると、待ち望んだ犬神の姿があった。
「やっぱり綺麗……!」
元の姿に戻った犬神を見て、彩花はほうと感嘆のため息をもらす。あの時は木がさえぎっていてあまり太陽の光は直接当たっていなかったが、今回は違う。初夏の昼過ぎの日差しは強すぎず弱すぎず、ちょうどいい具合だ。光の下で踊る被毛は視覚化された妖力の色合いと重なって次々に色を変える。まるで、本当に燃えているような色だと思った。
『この姿の俺を見て逃げなかった人間は初めてだ』
犬神の美しさにすっかり見とれている少女に向かって、苦笑混じりの声が言う。いつの間にか朱色の瞳に見つめられていて、心臓が少しだけ跳ねた。驚きと、喜びと、そしてほんの少しだけの寂しさが瞳に浮かんでいた。
きっと大体の人が怖いと思って逃げ出すだろう。彩花とて、一番初めにあったときは恐怖感が全くなかったと言えば嘘になる。だが相手が危害を加えないと分かっているならば、逃げる必要などない。
『もちろん、綺麗だなどとたわけたことを言う人間もな』
「冗談でもお世辞でもないわよ。本当に、とっても綺麗なんだから」
『こんなところまで連れ出して、本来の姿に戻ってほしいとせがむ娘が冗談やお世辞を言うわけがないことぐらい、俺にもわかっている』
嘆息と共にそう言われて、彩花は呆れられただろうかと心配になる。だが何処かしら嬉しそうな犬神の様子に、それが杞憂だということが分かった。
『これで満足したか?』
「ええ、すごく満足よ。でも……あのね、あとひとつだけお願いがあるの」
『何だ?』
(見ているだけじゃなくて触りたい、って言ったら、怒るかしら?)
先ほどよりもさらにずうずうしい願いに、言葉を継ぐのはためらわれた。それでも、あのちらちらと色を変える被毛に触ってみたい、という望みは諦めることが出来ず、思い切って伺いを立ててみることにした。
「あの、触ってみるのは駄目……?」
『――は?』
「だ、駄目ならいいの! でも、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいから、触ってみたいな、って……」
彩花が必死の態で頼み込むと、今度こそ犬神は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして固まった。どうやら言われたことをうまく飲み込めないでいるらしい。それもそうだろう、犬や猫を触ってみたいとでも言うかのように、犬神の身体に触ってみたいなどという人間は今までいなかったはずだから。
彼が言われたことを理解できるまで辛抱強く彩花が待っていると、ややあってから犬神は確かめるように先ほどの言葉を聞き返してきた。
『毛に、触りたいのか……?』
「そう! あなたの毛を触ってみたいの!」
『触ってもあまりいい代物ではないと思うが……まあ、触ってみたいと思ったならそうするがいい』
少女の熱意におされたのか、犬神は最終的にその願いを聞き入れた。まさか許されると思っていなかった彩花は喜びに胸を膨らませながら、いそいそと犬神のほうへと近づく。だがいざとなるとどう触ればいいのかが分からず、少しためらった後にそっと手を伸ばした。
まず手に触ったのは、少し硬めの毛の感触。ちくちく刺すとまではいかないが、想像していたよりもずっと硬い。続いてそこに手をうずめると、硬い毛の下に生えた柔らかな被毛がそっと指を包み込む。それはなんともいえない心地好さだった。
やがて伸ばされた手は一つから二つに増え、それに伴って犬神と彩花の距離はさらに縮まっていく。
硬い毛の下に手をうずめればふかふかと触り心地のいい犬神の被毛は一度触ってしまうと離れがたく、とうとう体がほとんどくっつくぐらいまで距離は近くなる。また、先ほどよりもずっと間近で見る被毛は半ば透き通っているようにも見えて、遠くで見ているよりもさらに綺麗だった。
『ず、ずいぶんと気に入ったようだな……?』
「ええ、とっても気に入ったわ! だってすごく触り心地がいいんだもの」
「うむ。気に入ったならそれはいいが……」
いつまでたっても離れようとしない少女を見て、犬神はためらいがちに訊ねる。その声からは困惑の様子がありありと伺えるが、すっかり夢中になってしまっている彩花は全く気付かない。そうして、ほくほく顔の少女は心ゆくまでそのさわり心地を楽しんだのだった。
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