3.三度目の出逢い

 意外にも、真っ暗な洞穴の中は乾いていて暖かかった。一歩踏み出すたび、足の下で小石が音を立てる。洞穴に響く音はそれだけだった。


(犬神さん、いないのかしら。でも、佐京さんは一日中洞穴に篭っているだけだって言っていたし……)

 

 呼びかけても答えが返ってこないもどかしさに、彩花は落ち着きなく視線をさまよわせた。入り口から遠ざかるにつれて光は少なくなり、あたりは暗闇が支配していく。つい先ほどまで光の下にあった目が暗さに慣れるまで、もう少しかかりそうだった。


「犬神さん、いないの……?」


 声が震えてしまわないよう、か細げに聞こえないよう、できるだけ細心の注意を払ってもう一度呼びかけてみる。いつ何時でも、妖に自分の恐怖を見せてはいけない。その姿勢は物心ついたときから妖と接してきた彩花が自然に身につけたことだった。どんなに仲が良く心を許している妖でも、ほんの些細なことで本能に従うままの獣に変わることはあるのだから。


 呼びかけてから何も反応がないまま時が過ぎる。ここには居ないのだろうか。そう諦めかけたとき、ふっと間近で紅色の光が灯り、人影が浮かび上がった。


「――犬神は俺だ。人間の、娘」


 低く深く響く声に、心臓が飛び跳ねた。おそらく本能的に一歩下がったのだろう、足元の砂利が大きな音を立てた。懸命に耳を澄ませていたのに、全く物音など聞こえていなかった。


(こんな風に唐突に現れるとは思ってもみなかったけれど――でも、また逢えた)


 早鐘を打つ心臓を懸命に押さえながら、彩花はもう一度犬神に会えた嬉しさを噛みしめる。彼の姿を再び見られたことが嬉しかった。だが同時に、少しだけ失望もした。人の姿をしているときの彼の髪や瞳は、他の人間とは比べ物にならないほどに綺麗だ。だが彩花が心に思い描いていたのはあの美しい犬神の姿だった。もちろん彼は彩花を驚かせないように、と気を使ってくれたのだろう。それでも、あの犬神の体躯をもう一度見てみたかった、と思わずにはいられない。


「俺に会いに来た、といったな。彩花とやら」


 先ほどの言葉からあまり間を空けず、犬神は言葉を継いだ。名前を呼ばれて、再び心臓が小さくはねる。それからあわてて頷き、問いかけに答えた。


「ええ、会いにきたの。その……傷の具合が気になったから」

「傷の具合? 先日礼を言いに行った際に見せたはずだが」


 声の調子から、犬神が怪訝けげんそうな顔をしたのが分かった。しまった、そういえば見せてもらっていたんだったと思い出し、彩花は次に続ける言葉を必死で探す。


「そうだけど、でも……その、あのあと白藍に派手に吹き飛ばされたでしょう。怪我はなかった?」

「白藍? ああ、あの鎌鼬か。心配ない。怪我はしていない」

「そう。ごめんなさい、白藍、少し早とちりしがちだから……怪我がなくてよかったわ」

「あまり気にしなくていい。式に下った妖が主を護ろうとするのは当然のことだろう」

 

 式に下った妖――たしか、犬神は前も彩花のことを『妖を従える娘』とか言ってはいなかっただろうか。『式に下す』とは、ある程度力を持った妖を術式で縛り付け、自分の手先として使うことを示す。だが彩花は白藍にそんなことをした覚えは一度もない。もしも、彼が白藍を彩花の式と勘違いしているなら、それは訂正しておかなくてならなかった。


「ひとつ言っておくけど、白藍は私の式でもなんでもないわ。ただの友達よ」

「友達……だと? そなたは人間だろう」

「ええ、私は人間だし、白藍は妖だわ。でも、そんなことは関係ないの。私は私だし、白藍は白藍よ。お互い相手を認めているなら、ちゃんと友達にだってなれるわ」


 案の定信じられないといった風に呟く犬神に、少女はきっぱりと言い放った。人間だとか、妖だからとか、そんなものは関係ない。お互いを認め合う信頼関係があるなら種族なんて関係なく友達になれる。彩花はそう思っていた。


「そんなものは関係ない、か……面白いな」


 しばらく考え込んでいた犬神は、ややあってふと目元を和ませる。ふわりと柔らかく笑う表情に、今度は彩花のほうがどきりとさせられる番だった。


(あ、笑ったら目の色が少しだけ柔らかい色になるのね。この色はこの色でとても綺麗だわ)


 そんな発見まであって、少し嬉しくなる。この犬神と一緒にいるとそんな些細なところまでも発見になってしまい、なんだか宝物を探し当てている気分で楽しかった。


「そういえば、さきほどそなたは少しばかりがっかりしているように見えたが……何か俺は失望させるようなことをしただろうか?」

「えっ? あの、それは、その……」


 突然振られた話題に、彩花は頭が真っ白になる。相手に悟られるほど自分は不満そうな顔をしていたのだろうか。とっさにどう答えて良いか分からず口篭る。だが犬神はそれを肯定と取ってしまったらしく、少しばかり眉根を寄せて黙ってしまった。それを見て、彩花はあわてて口を開いた。


「ち、違うのよ。決してあなたが悪いわけじゃないの。ただ、てっきり私はあなたが犬神の姿で現れると思ったから、それで――」


 そこまで言ってしまってから、しまったと口をふさぐ。だが一度言ってしまったことはもう取り消せなかった。ここまでいうつもりはなかったのに、どうして言ってしまったのか。彩花が口走った答えにぽかんと固まっている犬神を見て後悔したが、もう遅い。しかし次に返ってきた言葉は、彩花が予想していなかった答えだった。


「犬神の姿が良かったのか?」

「このまえあなたの姿を見たとき、とっても綺麗だと思ったの。あんなに綺麗な夕焼け色は今まで見たことがなくて、というか、今まで見た中で一番綺麗な色で……それで、その」


 ――もう、どうにでもなってしまえ。

 そう観念して素直に答えたものの、自分でも分かるくらい頬が熱い。言葉を継ぐたびにどんどん恥ずかしさは増していき、最後は尻すぼみになってしまう。きっと顔が真っ赤になっているのは向こうからも見えてしまっているだろうが、彩花にそれを見えないようにする術はなかった。


「綺麗な夕焼け色、か……まさかそんなことを言われるとは思っていなかったな」


 恥ずかしくてうつむいた少女の耳に届いたのは、そんな言葉だった。少しばかりその声が弾んでいたと思ったのは、気のせいだっただろうか。思わず顔を上げると、嬉しそうに目を細める犬神の姿があった。


「では希望にこたえて、犬神の姿に――」

「あっ、ちょっと待って! どうせなら外に出てみない? あなたの毛、お日様に当たるとすっごく綺麗なのよ。こんな薄暗いところじゃもったいないわ!」


 そこまでを一気に言い切ると、犬神の目が大きく見開かれた。わがままを言いすぎて怒らせてしまったのだろうか。そう思って様子を伺っていると、突然犬神は笑い出した。


「ふむ。こんなに面白い娘にあったのは初めてだ」

「ちょ、ちょっと、何がおかしいのよ……!」

「気に入ったぞ。望みどおり、外に出て犬神の姿になってやろう」

「ほんとにいいの?! ありがとう!」


 彩花は嬉しさのあまり思わず目の前の犬神の手を取り、ぎゅっと握る。まさか本当にその願いを聞いてもらえるとは思っていなかったのだ。嬉しくて、嬉しくて、仕方がなかった。


「じゃあ、外に行きましょう!」


 はやる心が抑えられず、取った手をそのままひいて、入り口目指して駆け出す。それに続き、犬神も手をひかれるがままついてきた。相変わらず楽しげな笑い声は後ろのほうから聞こえていたので、きっと手を握ったまま走ることを許してくれたのだろう。そうして二人は目的地を目指して走っていったのだった。

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