2.人間の来訪者

 ふと、来訪者の気配に意識が覚醒した。


 心地好いまどろみから一気に変わり、警戒の色をたたえて身体を起こす。知っている気配ではない。だがどこか覚えがある気もする。いったいこんなところまで足を運ぶ変わり者は誰だろうか。

 くん、と入り口の方向へ鼻を向ける。瑞々しい森の匂い、少し甘く香る腐葉土の匂い、芳しい杉の匂い――それに混じるのは、ひどく異質な人間の臭い。


(俺を、退治しにきたのか)


 犬神は低く唸りながら思考を巡らせた。だが、よくよく気をつけてさぐってみると、人間はたった一人でこちらへ向かってきているようだった。単なる迷い人なのか。それともよほど自分に自信のある奴なのか。どちらにせよ、自分を傷つけるなら叩きのめすだけだ。たかが人間一人、持っている力など知れている。そう片付けて、どんどん近づいてきている人間の気配をうかがった。


 そのとき、ふと独特の甘い芳香が犬神の鼻を掠めた。清々しく涼やかなのに、それでいて花のような甘さを持つ霊力の匂い――それに気付いた途端、体中の血が沸き立つような感覚に陥る。背中の毛が逆立ち、喜びにも似た戦慄が背筋を走った。自分は、これを良く知っている。否、どうして忘れることなど出来ようか。それは紛れもなく自分の命を救ってくれた少女のものだった。


(……どうして、こんなところに)


 自分でもよくわかるほど、思わぬ来訪者にうろたえる自分がそこにいた。一体誰にこの場所を聞いたのか。なぜここまできたのか。どうして一人でいるのか。あのお目付け役のような妖はどこにいるのか。様々な疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡るが、どれもろくに答えを見つけられなくて、混乱は深まるばかりだった。


「あの……っ!」


 どうしよう、と狭い穴の中をうろうろ歩き回っていると、突然透き通った少女の声が響いた。どうやら自分がうろたえている間に入り口まで到着したらしい。


「わたし、山のふもとの町に住んでる彩花っていいます! あの、犬神さんはいらっしゃいますか……?」


 耳朶を震わせるその声は紛れもなく、彼女のものだった。遅れて視界に飛び込んでくるのは、暗闇の中に浮かぶ髪の長い人間の姿。耳が、目が、鼻が、あの少女の来訪を告げている。


『――いいかい? 決してどんなことがあっても人間に関わってはいけない。彼らは自分たちを傷つけ、死に追いやる存在なのだから。これは犬神の掟だよ』


 まだ自分が幼かったころ、自分にそう言い諭していたのは母犬だった。何度も何度も、人間と関わってひどい目にあった同胞の話を聞いた。今も、彼女に近づいてはいけないと犬神の本能が警鐘を鳴らしている。しかしそれに抗ってまで強く彼女に惹かれる自分がいた。あの少し勝気な瞳に、芯の強そうな表情に、すらりと伸びやかな身体に。何よりも自分を惹きつけて止まない、独特の甘さを放つ霊力――彼女の、全てに。


 身体の奥底から湧き上がる熱が彼女を欲する。こんな激情は知らない。故に、魂すら揺さぶるその感情が一体何なのか犬神は理解することが出来ず、ただ困惑するばかりだった。その間にも、娘は一歩ずつゆっくりとこちらへ近づいてきている。


(掟に逆らってもいい。彼女ともう一度会って言葉を交わしてみたい)


 胸を焦がす想いに逆らえず、ためらいながらも人の姿に変わる。普段洞穴の奥で休んでいる分には、犬神のままの姿でいたほうが治りは早い。わざわざ人の姿を取ったのは、彼女を驚かせないようにするためと、妖力を極力抑えるためだ。


 準備を整えると、できるだけ音を立てないように気をつけながら犬神はそっと足を踏み出す。

 少しずつ、自分と彼女の距離が縮まっていく。

 あと二歩踏み出せば彼女に触れられようかというくらいに近くなったとき、ようやく犬神は口を開いて呼びかけに答えた。


 その声にさっと顔を上げた少女の顔には驚きと喜び、そして少しだけ失望の色が浮かんでいた。

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