2章 動き出す歯車

1.決意とためらい

 犬神に会いに三本杉へ行く――そう白藍に告げたとおり、彩花は三本杉を目指して山道を歩いていた。ただし、宣言してからすでに三日後だということが、少しばかり彩花の決心を鈍くしていた。


(初めて会ったときみたいに拒絶されたら……人間は嫌いだと突っぱねられたらどうしよう)

 

 そんな思いがぐるぐると頭をめぐる。彩花自身はもう一度会いたいという思っているが、果たして向こうはどうだろうか。傷を癒して、お礼を言われて、普通ならそれで終わりのはずだ。きっと、向こうだってそう思っているにちがいない。それでも、彩花は犬神にもう一度会いたいという思いを捨てきれず、山道を進んでいた。


(どれもこれも、あの馬鹿神主が悪いのよっ!!)


 ともすれば歩く足が遅くなる自分を叱咤しながら、彩花は心の中で一人の男に向かって怒鳴った。何かと理由をつけて彩花を神社へと来させ、様々な仕事を言いつけた、妖嫌いの婚約者に。彼に邪魔をされなければ、もっと早く来ることが出来たのに――文句を言っても過ぎた日は戻ってこないが、煮えくり返る腹の中を抑えるためには文句のひとつでも言わずにはいられなかった。


「やあ、彩花。今日はやけにご立腹だね」


 怒った顔のまま山道を進んでいく彩花を呼び止めたのは、若い男の声だった。聞き慣れた声に振り返ると、古風な和傘を差し、身には紺の着流しをまとった男がそこに立っていた。


佐京さきょうさん。あなたこそ、昼間から出歩くのは珍しいじゃない」

「久しぶりに可愛い娘さんが近くに見えたからね。これは挨拶しておかないと、って思ったんだ」


 ゆるりと青年がほほ笑む。整った顔と、どこか人を惹きつけてやまない笑みに、いったいどれだけの女が泣かされてきたことだろう。この青年の正体を知る彩花にとっては何も意味をなさないものだが、この青年はそのことを知っていてもなお表情は崩さない。


「相変わらず口がうまいこと。いつもそんな風に女の子を引っ掛けては泣かせているんでしょ」

「君も相変わらず口が減らないね。僕相手にそこまで言う女の子はそうそういないよ」


 親しげに彩花へ話しかける彼も、この山に棲む妖だった。白澤はくたくと呼ばれるこの妖に知らないものはない、といわれるほど知識が豊富な妖だ。ただ、彩花には持ちうる知識を使いあの手この手で女を落としては飽きると捨ててしまう、女泣かせの妖だという認識しかない。おまけにこの妖は大変太陽の光に弱い。こんな昼間に彼を見かけたのは初めてだった。


「こんな日中に出歩くなんて、どうしたの?」

「ああ……ちょっとね。昔の友人に呼ばれて、しばらく話をしていたんだ」

「昔の友人? この山にそんな妖がいたなんて」

「最近この山にきたんだよ。君も知っているはずだけど」


 質問したはずが、逆に聞き返されて彩花は答えに窮する。最近この山にきた妖で、彩花が知っているもの。そんな妖はいただろうか――そう思考を巡らせたところで、はたと気付いた。


「もしかして、秋津色の犬神?」

「ああそうさ。昔住んでいた山が彼の故郷でね。年も近かったし、割と仲が良かったんだ」

「そうだったの。じゃあ、三本杉の洞穴はあなたが教えてあげたのね」


 確かめるようにいうと、案の定佐京はすんなり頷く。これで彼があそこをねぐらにした理由に合点がいった。なるほど、この山に誰よりも詳しい佐京なら真っ先にあそこを勧めるだろう。


「怪我して行き倒れてたところを君が助けたんだって? 相変わらずお人よしだよね、君も」

「そういう性分なのよ。放っといてちょうだい」

「ふうん。まあ、いいけどさ。そういえば、君がここまで来るのって珍しいなあ。どうしたの?」


 なにやら意味ありげな顔で見つめられて、彩花は一瞬言葉を詰まらせる。この山で起こったことなら何でも把握している彼のこと、おそらく犬神と彩花の出会いや、大岩での出来事も知っているのだろう。別に隠すつもりがあるわけでも、やましいことがあるわけでもない。素直にあの犬神に会いに来たといえばよかったのだが、なぜか彩花はすっとその言葉が出てこなかった。


「今日は天気もいいし……少し、こっちのほうまで足を伸ばしてみようと思って」

「散歩、ね。まあ、気になるなら見てくれば? どうせ洞穴の中に一日中こもってるだけだから、あいつにとってもいい暇つぶしになるかもね」

「佐京さんって、天邪鬼顔負けの意地悪よね……」

「いやあそこまででも。褒めてくれて嬉しいよ」

「褒めてないっ!!」


 やはりこの妖に隠し事は出来ないらしく、案の定あっさり言いあてられてしまう。やられっぱなしはさすがに悔しかったので、苦し紛れにいやみを言ってはみたものの、こちらもするりとかわされて見事に完敗を喫することになった。


「甘いなあ。白藍にあいつの居場所を教えたの、僕だよ?」

「すっかりその可能性を忘れてたわ。そういう大事なことは先に言いなさいよ!」


 してやられたと唇をかむ彩花に、それはうれしそうに佐京は笑った。一度くらい、彼に口で勝ちたいと思っているのだが、年の功と知識の差は圧倒的過ぎて、今のところ全く勝てそうにない。


「この僕が言うわけないだろう。君を可愛がるのがひそかな趣味なのに」

「いじめるの間違いでしょ! というか趣味悪すぎるわ、この性悪男!」

「そうやって強がる君も可愛いよ。でも、僕としてはもう少しおとなしい娘が好みだなあ」

「誰もあなたの好みなんか聞いてない!」


 至極楽しそうに喉を鳴らして笑う佐京を、彩花が頬を膨らませて睨んだ。完全に遊ばれている、ということは分かっているものの、つい噛みつかずにはいられない。佐京のほうもそんな彩花の性分をよく把握しているらしく、彼と顔をあわせるとたいていこんなやり取りになってしまう。もっとも、言いたいことが気兼ねなく言えて会話が楽だと思うこともあり、なんだかんだ言いつつも彩花は佐京と話すのは嫌いではなかった。


「太陽の下にいるのもいい加減しんどくなってきたし、僕はそろそろ失礼するよ。今度は月が照らす時間に会いに来てくれると嬉しいな」

「夜に山へ入るのはお断りよ。あなたみたいな妖がたくさんいる時間だもの」

「それは残念だなあ。ま、賢明な判断だけどさ。それじゃあ頑張ってね。うまくいくよう祈ってる」

「い、いちいち一言多いんだってば!」


 最後までからかいたいらしい佐京に言い返してから、彩花は鼻息荒く背を向けた。目指すは三本杉の傍にある洞穴だ。後ろのほうからはまだ笑う声が聞こえている。半ばそれに背を押されるような形で彩花は目的地を目指し、迷いのない足取りで歩を進めていったのだった。

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