6.後悔

 ――眠れない。


 壁に掛かる時計に視線を投げかけると、短針は二を指している。横になったのは確か十二時を過ぎたころだったから、二時間ほど横になったままぐるぐると思考を繰り返していたらしい。


(このまま横になっていても眠れないわね、きっと)


 いつまでたっても寝付けない自分を持て余した彩花はとうとう眠るのを諦め、ゆっくりと起き上がった。

 真っ暗な部屋は窓から零れる月の光に照らされて、案外明るい。彩花はその光に導かれるように窓辺へ近づき、音を立てないようにそっと戸を開け放つ。ひんやりとした初夏の風が頬をくすぐり、火照る身体の熱を奪っていくのが気持ちよかった。


「どうして、あんなことを訊いてしまったんだろう……」


 まだ、あのときの声が耳にしっかり残っている。一切の感情を排したような――否、全ての感情を封じ込めようと必死にもがいていた声が耳にこびりついて離れない。


『名は……捨てた。今の俺はただの犬神だ。それ以上の名は持ち合わせていない』


 立ち去る間際に一瞬だけ見えた瞳には、寂寥せきりょうと悲哀の色が濃く浮かんでいた。それを見て酷く後悔したけれど、言ってしまった言葉は取り消すことが出来なかった。


 (昨日、深手の傷を負っていたことと関係がある……?)


 ふと頭に浮かんだ疑問に、彩花は思考をめぐらせた。確か、白藍は仲間と喧嘩した犬神、といっていたはずだ。何か、名を捨てなければならないほどの出来事が仲間内であったのかもしれない、と思った。


「――彩花。お前、何て顔してるんでェ」

「白藍……」


 ひゅう、と彩花の髪を揺らして白藍が肩に舞い降りる。いつもなら真っ先に気付くはずの親友の気配なのに、今日に限って声をかけられるまで全く気付かなかった。


「昼間の犬神のことか」

「ち、違うわよ。ただちょっと、寝付けなくて外の空気を吸っていただけなの」


 とっさに口をついて出た言葉はあまりにも言い訳めいていて、説得力が全くない。案の定、やっぱりなァ、と低く笑って呟いた白藍には全てお見通しのようだった。


「ここらじゃ見かけない顔の犬神だったなァ。しかも、相当力の強い犬神だ」

「そうね。今まで見た中で一番綺麗だったわ」

「犬神は力があるほどそれが表に現れる。そう思うのも無理はねェだろうよ」


 取り繕うのをやめて素直に本音を零すと、白藍は彩花の言葉にゆっくり頷く。別れ際の声以上に焼きついて離れないのが、犬神の美しい体躯だった。しなやかな身体に鮮やかな被毛、意志の強そうな双眸――どうしてこんなにも気になってしまうのか分からないけれど、いつまでたってもその姿は脳裏から消えてくれなかった。


「どうしてあんな酷い傷を負っていたのかしら……力の強い犬神なんでしょう?」

「複数の仲間にやられたんだろ。いくら強くても、束になってかかられりゃひとたまりもないさ」

「でも、名前まで捨てなきゃいけないなんて……」


 それは想像できる範疇を超えていた。仲間に瀕死になるまで攻撃されて、名前も捨てなければならなくて――いったい、あの犬神はどれほど重いものを背負っているのだろう。


「ッたく、そんなに気になるんだったら本人に聞いてみりゃいいじゃねェか」

「そんな……傷をえぐるような事、出来るはずないでしょう」

「まァ、難しいか。でも、話聞いてみるだけでも何か分かるかもしれねェだろ?」

「それは……そうだけど……」

「決心が着いたら行ってくればいい。あの犬神は三本杉のそばの洞穴をねぐらにしてるって話だ。行けば会えるだろうさ」


 そういって、白藍は山の西側の方へと目を向けた。白藍の動作につられて彩花もその方角を見たものの、さすがに夜なのでその姿は見えない。三本杉――昼間彩花がいた大岩よりも少し山頂に近いところに生える一際大きな三本の杉を総称して、山の者たちは三本杉と呼ぶ。

 もしもあの犬神が仲間から追われてこの山にやってきたのだとしたら、身を隠すには適当だといえる場所かもしれなかった。あのあたりには力の強く好戦的な妖はあまり居らず、縄張りを争って無駄な戦いを起こす危険性もない。偶然見つけたのか、誰かに教えてもらったのか。どちらなのかは分からないが、そこならしばらくの間誰にも邪魔されることなくゆっくり身を休めることが出来るはずだ。


(――もう一度、会ってみたい。あの犬神と、話してみたい)


 そんな思いが胸の中をよぎる。会って何を話したらいいのかは分からない。けれど、このままで終わらせるのはいやだと思った。


「私、会いに行ってみる」

「そうか。まァ、頑張るこったな」

「うん……白藍、ありがとう」


 精一杯の感謝の気持ちを込めて肩の上の鎌鼬を撫でると、気持ちが良かったのか白藍はうっそりと目を細めた。どんなときも傍にいてくれて、いつも彩花を助けてくれる存在――上から甘やかすでもなく、下から慕うでもなく。白藍は人と妖の壁を越え、対等に接してくれる唯一無二の親友だった。


「さァ、もう寝たほうがいい。明日も早ェんだろ?」

「……学校なんてなかったらいいのに」

「そればっかりはどうにも出来ねェな。観念して大人しく通っとけ」

「もう! 人事だと思って……!」


 苦笑しながら自分をなだめようとする白藍に、彩花は頬を膨らませてみせる。学校へ行くより、妖たちと話していたほうがよっぽど楽しいのだ。自分も妖だったらよかったのに、と何度思ったことだろうか。けれど、こればかりはどうにもならなかった。


「分かったわ。大人しく寝て、ちゃんと学校へ行く。でも授業が終わったら、すぐに帰ってきてやるんだから」

「あァ、それがいい」


 ちょっと拗ねたように言うと、白藍は優しく笑って頷いた。まったく、いつまでたっても白藍にはかなわない。


「俺がいなくても、ちゃんといい子で寝るんだぞ」

「い、言われなくても寝るわよ。子ども扱いしないでちょうだいっ」

「おう、その意気だ。そんだけ明るい顔ができれば上出来さなァ。じゃ、おやすみ、彩花。また明日な」

「うん……また明日ね、白藍。おやすみなさい」


 彼なりのやり方で元気付けようとしてくれる白藍に感謝しながら、彩花はそっと窓の戸を閉めた。しばらく彼と喋っていたおかげでだいぶもやもやした気持ちがなくなった気がする。これなら少しは眠れそうだと布団の中にもぐりこみながら思った。


(――明日、学校が終わったら三本杉のところへ行ってみよう)

 

 そう心に決めて、目を閉じる。先ほどまでまったく眠れそうにないと思っていたのに、実際はまぶたを下ろすとすぐ心地好い眠気が彩花を眠りの淵まで導いたのだった。


「――吉と出るか、凶と出るか。さァて、どっちだろうなァ」


 だいぶ明るい顔になって部屋の中へと消えていった彩花の後姿を見送りながら、白藍はぽつりと呟いた。犬神があまりにも気になるようだったから、それなら会いに行けばいいと提案してみたものの、今までにない様子の彩花に少なからず対応を決めかねていた。


 白藍と出会った当初から、あまり彩花はひとつのものに固執する性質ではなく、どちらかというと無関心を示すことの多い少女だった。それは人に対してはもちろんのこと、妖に対しても同じらしく、自分が助けた妖にも必要以上の関心を示すことは少なかった。

 ただし、今までにも多少ばかりの例外はありえた。それが今の白藍と彩花の関係であり、山に棲む三匹の妖と彼女の関係だ。あの犬神も、例外になったのかもしれない。


 しかし自分や山の妖たちのときとは何か違う気がした。はっきりと分かるものではない。ただの漠然とした勘に過ぎなかったが、なぜか外れてはいないような気もした。それが、彼女にとって吉となるのか、凶となるのかは分からない。


 それでも、と白藍は思う。もしも、人間の勝手なしきたりに未来を奪われ、自由に空をはばたくための羽をもぎ取られてしまった彼女に、新たな翼を与えてやれるのなら。


「俺ァ、お前に幸せになって欲しいんだ、彩花……」


 寂しさと空しさ、そして少しの希望が込められた呟き。それは窓の戸を隔てた彩花に届くことなく、優しく吹き渡る風と共に消えていったのだった。

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