5.再会

 次の日、前日と同じように彩花は山の中にいた。学校は息が詰まるところでしかなく、いつも終わるとすぐにこの山へ向かう。小さいころから慣れ親しんだ山の中にいるほうがずっと楽で心も安らぐのだ。


 目指すのは、山の中腹にある大岩。雨風にも負けずどっしりと居を構える大岩に登ると、彩花の住む町一体を見下ろすことが出来る。それでいて、木々に囲まれているそこは木陰になると同時に彩花の姿を隠してくれる。大岩は、誰にも邪魔されることなく一人の時間を楽しみ、時には妖たちと言葉を交わし、心から笑っていることが出来る数少ない場所だった。

 山に時折入る大人たちよりもよっぽど山を熟知しているため、短い時間で大岩までたどり着くことは容易い。慣れた足取りで山道を登り、ものの十五分もしない間に彩花は目的地へとたどり着いた。


 さあ、今日はここで何をしようか――そんな風に胸を躍らせて、大岩へすばやく登る。だが大岩の上にたたずむ見慣れない人影を見つけて、彩花の顔に浮かんだ笑みは一瞬にして消え去った。


「誰……?!」


 警戒の色を強めて、目の前の人影に誰何すいかする。あいにく今日は白藍が近くにおらず、身を守る術は己の力しかない。この山の妖たちは顔見知りも多く、率先して彩花に危害を加えようというものは少なかったが、全くいないわけでもない。

 おまけに、人の姿を取れる妖はごく一部の力が強い妖に限られる。天狗か、狐か、むじなか、それとも――いつでも飛び掛ってこられたらよけられるように神経を張り巡らせ、身構える。

 そのとき、背を向けていた人影が人の気配に気付いたらしく、こちらを振り返った。


(なんて綺麗な色……まるで焔みたいだわ)


 彩花は息をするのも忘れて、目の前の男を見つめた。

 太陽の光に透ける髪は見事な夕焼けの色。風に揺れて肩から零れ落ちる少し硬そうな毛はちらちらと光って、まるで燃えているかのようだ。同じくしてこちらを見つめる双眸そうぼうもまた、燃え盛る焔の色をしていた。奥に秘められているのは屈強な獣だけが持ちえる野生の色で、それがさらに瞳を鮮やかに見せる。その色に、彩花は強く惹かれた。

 今まで、こんなに心が奪われるほど綺麗な色は見たことがなかった。訳の分からない感情が身体の中で荒れ狂い、彩花を翻弄する。早く目を離さないといけないのに――そう思っても身体は言うことをきかず、その場を動くことが出来ない。


(妖に魅入られるって、こんなことを言うのかしら)


 ただその美しいあかに目と心を奪われる中、そんなことを思った。一体どれほどの間、彩花と男は見つめ合っていただろう。ふと覚えた既視感に、必死で記憶の糸を手繰る。燃え立つような秋津の色。それを見たのはいつのことだったか。

 蘇ってくるのはまだ新しい記憶――血溜まりと言霊、手負いの獣。


「あなたは昨日の……?!」


 そう呟いた瞬間、目の前の男は表情を揺らす。彫りの深い精悍せいかんな顔つきは明らかに驚きと困惑の色を浮かべていたが、伏せられた耳と尻尾を見る限り彩花に危害を加えるつもりでないことだけは読み取れた。


「――昨日は、世話になった。深く感謝する」


 やがてぽつりと零された言葉に、今度は彩花が驚いた顔をした。昨日とはあまりにも違う様子だったことがまずひとつの理由だったが、それ以外にもあった。今まで助けた妖たちからこんなにまっすぐお礼を言われたことは一度もなかったのだ。


「傷の具合はもうすっかりいいの?」


 どう返すべきか少し迷ったあと、彩花はそう訊ねる。すると、こくりと目の前の男は頷き、何を思ったのかおもむろに着物のあわせを肌蹴た。いきなり晒された裸身に、彩花は言葉なく瞠目どうもくした。露わにされた上半身はしっかり鍛えられていて、かなり筋肉がついている。あれほどひどかった傷のほうは昨日の彩花の手当てでほぼ治せたらしく、ほとんど傷跡は残っていない。けれどうっすらと肌を彩る怪我のあとは妙に肉体を艶かしく見せ、それを自覚した彩花は唐突に恥ずかしくなって目をそむけた。


「す、すっかり、いいみたいね……っ! もうわかったから……!!」


 真っ赤になって顔を背けながら、それだけを口からようやく搾り出す。あんなにまじまじと異性の身体を見たのは初めてで、猛烈に恥ずかしい。まるで体中が燃えるような感覚に陥り、うるさいほどに鳴る心臓はなかなか押さえることが出来なかった。


「おまえ……熱でもあるのか?」


 ぎゅっと目をつぶってその熱をやり過ごそうとしていた彩花の頭上から、突然心配そうな男の声が振ってきた。何でこんなに近くまで、と考える暇もなく、頬に何かが触れる。驚いて閉じていた目を開くと、離れていたはずの男が気遣わしげに彩花を覗き込んでいた。


(いつのまに……っ!!)


 夕焼け色の瞳に彩花の顔が映りこんでいるのがわかるくらいまで顔を近づけられて、いよいよ心臓は速さを増していく。おまけに先ほど頬に触れたのが男の手だったことが分かり、さらに身体の体温が上がった。これ以上近づかれたら、どうにかなってしまう――そう思って、思い切り男を押しのけようとした、そのとき。

 突然目の前の男が消えた。遅れて届いたのは、空気を切り裂いて鋭く唸る風の音。


「彩花、怪我はねェか?! 来るのが遅れて悪かったッ!」

「白、藍……?!」


 名を呼ぶと、見慣れた白鼬しろいたちの姿が現れた。怒りに燃える白藍が見据える先には、風で吹っ飛ばされたらしい男がきょとんとした顔で尻餅をついている。なぜ自分が白鼬に攻撃されたのか、どうしてこんなにも彼が怒っているのか、いまいち理解できないでいるらしい。


「てめェ、彩花に手ェ出しやがって……!! 昨日は見逃してやったが、今日はそうもいかねェぞ! 目に物見せて――」

「白藍!! 私は、大丈夫だから……っ。何もされてないのよ? ただ、昨日のお礼を言われただけなの!」


 激昂し、今にも男へ飛び掛りそうな勢いの白藍に、彩花はあわててそういった。 その言葉に振り向いた白藍はしばらく彩花と男の二人を交互に見比べていたが、ややあって大きくため息を着いた後、大人しくなった。


「……本当に何もされてないんだな?」

「されてないわ。少し話をしていただけ」


 もう一度確認するような目で見つめられ、彩花はしっかり頷いてみせた。決して嘘はついていない。何もされてはいないのだから。思いのほか距離が近くて戸惑ってしまった、ただそれだけだ。


「そうか。なら勘違いして悪かったな、犬神の」

「よくわからないが、勘違いだったのならいい……」


 頭を下げられた男は表情を弛め、白藍の言葉にすんなり頷いた。そうしてはだけていた着物を手早く着なおすと、無駄のない動作で立ち上がる。


「先ほどは驚かせてすまなかったな、妖を従える娘御。俺はそろそろ失礼しよう」


 そう告げるが早いか、大きく身をぶるっと振るわせた男は一声吼える。長身の男のかわりに現れたのは、彩花の身の丈は優に超える大きな犬の姿だ。

 それを見て、彩花はほうとため息をついた。頑強な体躯を覆う被毛は先ほどと変わらずちらちらと輝いていて、陽の光が当たるたびにその色を変える。これまでにも犬神を見たことは何度かあったが、こんなに美しい獣を見るのは初めてだと思った。


(まだもうちょっと、見ていたい)


 そんな思いに駆られ、身を翻して姿を消そうとしていた犬神に声をかけた。


「ねえ! あなた、名前はなんて言うの?」

「俺の名前……?」


 声をかけられるとは思っていなかったのだろう、驚いたような顔をした犬神がこちらを振り返る。けれど何度か口を開こうとしては止め、ややあって目を伏せながら返ってきた返事は、完全に感情を排した声だった。


「名は……捨てた。今の俺はただの犬神だ。それ以上の名は持ち合わせていない」


 それだけを言うと、彩花が返事を返すまもなく犬神は身を閃かせ、木々の向こうへと消えていったのだった。

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