3.決断

「――これが、すべてだ」


 水を打ったように静まり返った中、飛焔はかみしめるようにそう締めくくった。

 誰も二の句が継げないまま黙っている。それほどに彼の生い立ちは壮絶だった。兄弟同然だったものに裏切られ、故郷は自分の力の暴走で失い、今もなお命を狙われ続ける。それはいったいどれほどの苦しみだろうか。


(彼にこんな過去があったなんて……)


 誰もが口を閉ざし顔を伏せる中、彩花もまた彼を直視できずにいた。初めて知る彼の過去。その背負うものの大きさに、話を聞くだけでも押しつぶされそうになる。追いつかない感情を必死で整理する少女の頭に浮かんだのは、以前彼が口にした言葉だった。


 それは彩花が二度目に飛焔と出会い、名を尋ねた時のこと。

『名は……捨てた。今の俺はただの犬神だ。それ以上の名は持ち合わせていない』

 その、本当の意味は。


「もしかして、あの時名乗るのを拒んだのは……」


 恐る恐る口を開き、小さな、けれどはっきりとした声で彩花は問いかける。その言葉に、傍らの白藍もまたはっと顔を上げた。知らないと言われたらどうしようかと思ったが、この時のことを飛焔も覚えていたらしい。ほとんど待たずに答えは返ってきた。


「ああ、『飛焔』も『火群』も、一族あっての名前だ。赤犬族が滅んだ今となっては、何も意味をなさないからな」


 瞳に何もうつさず、感情を配した声で飛焔は言葉を返す。その言葉の重さに、彩花は返す言葉を見つけられなかった。故郷を失くし、一族のものと両親を亡くし、友を失くし、名前すら失くした彼の手に、いったい何が残っているのだろう。

 だがそこまで考えて、彩花は彼の言葉の矛盾に思い当たった。それならなぜ、あの時自分へ名乗り、出自を明かしたのか。仕方なく、といわれてしまえばそれまでだが、なぜだかほかにも意味があるように思えてならないのだ。

 これ以上彼を追い詰めてはいけない。そう思いつつも、彩花は問いを口にせずにはいられなかった。


「じゃあなぜ、あなたは私に『飛焔』と名乗ったの」

「あの時は仕方なく……」

「名乗ったとき、あなたは名前だけでなく、はっきりと『火を統べし赤犬族の一族が長』と言ったわ。名前をいうだけでも、大丈夫なのに」

「それは――……」


 いつの間にか少女の瞳は、ひたりと真っすぐ飛焔をとらえていた。対して先ほどまで何の色も浮かんでいなかった男の双眸そうぼうはぐらりと揺れ、辺りをさまよう。その様子に、彩花は先ほどの自分の予想が正しかったことを確信する。決して『仕方なく』いったのではなく、何か明確な理由があるに違いない。そう信じて、静かに男の答えを待った。

 飛焔はというと、何か言いたいことはあるのだろうが、うまくまとまらないのだろう。顔を上げて口を開いては閉じ、またうつむくという動作を繰り返している。眉間には深いしわが刻まれ、喉の奥から時折うなり声が漏れる。尻尾は後ろ足の間でせわしなく小刻みに揺れていた。

 そんな彼に助け船を出したのは、この場に皆を集めた張本人だった。


「犬神よ。そなたはどちらの道を選びたいのだ?」

「どちら、とは……」

「この山にきて、そなたは何をしたい? 『飛焔』としての役目を放棄し、ただの犬神として安穏とこの山で暮らすのか。それとも彼のものから煙管を取り返し、『飛焔』としての役目を果たすのか。一体どちらを選ぶのじゃ」


 柚良の言葉に飛焔ははじかれたように顔をあげ、はっと目を見張る。女神は、口元を釣り上げて妖艶に笑っていた。絞り出すように犬神の口からほとばしったのは低いうなり声。しかしその声は、かすかな希望をはらんでいた。


「できるのか。あいつを、倒すことが」

「わらわは手伝わぬ。やるのはそなた自身ぞ」

「かまわん。もとより俺の手で解決すべきことだ」

「ならば、この山はそなたを受け入れよう。掟を破らぬ限り、そなたはわらわの庇護下にあり、守られる。なあに、黒犬の小童こわっぱなんぞ、取るに足りぬ」


 くふくふと笑う少女は目を細め、ふわりと袖をひるがえす。すっと差し出された白い御手はこうべを垂れた犬神の額に当てられ、指先が複雑な印を描く。なぞられたあとは一瞬だけ柔らかな黄金色の燐光を放ち、すうっと額へ吸い込まれていった。


「一つ、人へ危害を加えることなかれ。一つ、罠にかかった獣を助けることなかれ。一つ、みだりに殺生することなかれ。一つ、他山の妖のいさかいに手を出すことなかれ。一つ、われに背くことなかれ。汝、以上の掟を守れるか」

「飛焔の名において、決して破らないと誓う」

「では、咲耶柚良比売さくやゆらひめの名において、飛焔をこの山の妖として受け入れよう」


 ゆらり、と陽炎のような光が柚良と犬神を包む。その瞬間、彼を受け入れるかのようにざわりと風が駆け抜け、山梔子くちなしの甘い香りがあたりに満ちる。それこそが柚良の加護を受けたという、明確な証だった。


 だが神妙な面持ちで一同が見守る中、彩花だけはこの状況に全くついていけないでいた。一体なぜ、飛焔が煙管を取り戻すことと、柚良の加護を受けることがつながるのか。難しい顔で首をひねる少女の耳に届いたのは、くくっと小さく笑う声だった。


「彩花。何が何だかわからないって顔をしてるね」

「佐京さん」

「あいつは、黒嵐から安全に身を隠せる場所を探していた。それは逃げて安穏と暮らすためじゃない。力をたくわえて、もう一度あいつに一矢報いるためだ」

「今のままじゃ、太刀打ちできないから?」

「そう。煙管を奪われたあいつは力の大半を失ったんだよ。でも、柚良様の加護があれば話は別だ。あいつの弱点を補ってもなお、おつりがくるくらいに柚良様の力は強い。彩花は五行の相生相剋そうしょうそうこくの関係を知ってる?」


 五行――それはたしか、古い陰陽術の考え方である。だが彩花はそれくらいの知識しかなく、中身までは知らない。聞きなれない言葉に首を傾げる少女に対し、佐京は丁寧に説明をしてくれた。

 

 五行とはもくごんすいの五つの要素である。妖の力はすべて五つのどれかに属しており、その力関係は相生相剋であらわされる。

 曰く、相生そうしょうとは相手を生み出し強める働きを持つ。木は燃えて火を生み、火は物を燃やし灰(土)を生み、土は金属を生み、金属は空気を冷やし表面に水を生み、水は木々を潤し育む。

 曰く、相剋そうこくとは相手を弱め滅ぼす働きを持つ。木は土の養分を吸い取り、土は水を吸って勢いをなくし、水は火を消し止め、火は金属を溶かし、金属の刃物は木を傷つける。


「あいつの力は『火』だから、柚良様の『木』の加護で力を増す。これで雫石の『土』の力を加えれば負けなしだ。彼女が協力するかどうかはあいつ次第だけど」

「でも、柚良様は手伝わないって言ってたわ」

「飛焔から仕掛けたときはね。けど彼らが攻めてくれば、柚良様の庇護下の妖は等しく守られるし、その範疇はんちゅうにはあいつも入る。返り討ちにする際に、煙管を取り返したっていいわけだ」


 ちなみに僕らが協力するのもね、と片目をつぶって言い添える男の説明に、彩花は深くうなずき納得した。先ほど柚良も口にしたが、掟によりこの山の妖は他山の妖のいさかいに手を貸すことを禁じられている。特に友人である佐京は手を出したくても出せず、歯がゆい思いをしていただろう。だが飛焔が柚良の庇護下に入った今、これからは堂々と彼に手を貸すことだってできるのだ。


「ちょっと佐京はん、いらんこと言わんといてくれる? うちはあの駄犬に協力する気は全くないさかい。彩花を泣かした罰や」

「雫石姉さん! 私はもう気にしてないし、大丈夫だからっ」


 柚良と話す犬神を半眼で睨めつける雫石に、彩花は慌てて言い募る。あれは自分も悪かったし、飛焔にも余裕がなかっただけだ。すでに自分の中で整理はついていたのだが、怖い顔でわらう女郎蜘蛛にとってはそうでなかったらしい。


「へえ、雫石さんの前でそんなことをするなんて、あの犬もなかなか度胸がありますね。すこしだけ見直しました」

「はぁ? あんた喧嘩売っとるん?」

「いえ、事実を言ったまでですよ」

「それが喧嘩売っとるて言うねん!!」


 口が達者な彼女の、数少ない勝てない相手。市伊は振り上げられた手をひらりとかわし、飄々ひょうひょうとした態度で雫石を見下ろす。そのやり取りに彩花と佐京は顔を見合わせてくすりとわらう。

 そこへ飛焔とのやり取りを一通り終えた柚良が何やらわくわくした顔で近寄ってきた。傍らに付き添う犬神は先ほどの話が聞こえていたようで、ぺたりと耳を伏せて居心地悪そうな顔をしている。市伊がにっこり笑って柚良の頭をなでると、雫石はいよいよ眉間にしわを寄せて顔をそむけた。その間を白藍が仲裁しようとうろうろ飛び回り、彼に助太刀しようと彩花と佐京も輪に加わる。


 いつしか先ほどの重苦しい雰囲気は吹き飛び、穏やかな空気が流れていた。

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