15.取引

 水城神社が人々の喧騒と神楽で満たされている頃。一人の少女がうんざりとした表情で、二階の自室の窓から神社の様子を眺めていた。少女にとって、一年のうち、嫌いな日の一つがこの「七夕祭り」である。毎年巫女候補に選ばれては、恥をかかされプライドを傷つけられるための日。自分とあの少女の力の差を嫌というほど見せつけられるためだけの。


「どうして彩花なの……? 私のほうが、あの人にはふさわしいはずなのに」


 小さなときから坂木家当主の娘として、常に一番であれと育てられてきた。他の二家の娘たちと同じように持って生まれてきた特別な力を磨き、容姿を磨き、勉学に励んだ。丁寧にくしけずられた艶やかな黒髪。小さめの、ぽってりとした桜色の唇。日焼けもシミもなく、滑らかできめ細やかな肌。そのどれをとっても、町の女たちの右に出る者はいない。勉学とて同じである。ただ「特別な力」だけは。この力だけは、どれほどたゆまぬ努力と研鑽を積んでも、一向に能力が開花することはなく、せいぜい強い妖の存在をおぼろげに感じることができるくらいだった。


 けれど少女は、それこそも努力すればいつか、と信じていた。その希望が完全に打ち砕かれたのは、一五歳になった秋のこと。水城家当主の婚姻相手が決まったのだ。圧倒的な全会一致で選ばれたのは、玖珠木家当主の娘、彩花だった。


 町の旧家である三つの家に生まれた当主の娘に求められること。それは、水城神社の神主と婚姻を結び、次代の神主になるべき子供を産み育てることである。それこそが、三つの家の娘たちの存在価値であり、義務であった。そして、選定条件はただ一つ。三人の娘たちの中で一番「特別な力」を持っていること。ただその一点において、彩花は生まれつき圧倒的な力と才能を持っていた。


 物心ついた時から、そのことは嫌というほど言われてきたし、見せつけられてもきた。彩花と優が結婚すれば、水城神社は安泰だと。数代弱くなり続けてきた力もこれで復活するだろう、と。己の両親にすらも、お前にもっと力があればと何度言われたことだろう。そうやって、屈辱にまみれる中、坂木里花は必死で努力し続けた。それだけが自分に求められるものであり、存在意義だった。諦めてしまえば、そこでもう自分は用済みだといわれてしまう気がしたのだ。


 それなのに彩花は違った。優と結婚などしたくない、こんな力もいらない。そう言って首を振るばかりで、何の努力もしなかった。里花と鍔木春花が力を伸ばすための修行を課せられたのに対し、彩花に課せられたのは力を制御し、抑えるための修行だった。それすらも嫌がり、暇を見つけては山で一日を過ごし、傷だらけになって帰ってくる彩花を、里花は心の底から軽蔑していた。


 だがすべては無駄だったのだ。彩花が花嫁に選ばれてから、「特別な力」そのものを里花は否定するようになった。妖も、町を守る神様の存在も、「特別な力」のことも。すべては大人たちの作り上げた勝手な幻想で、最初から彩花を優の結婚相手に選ぶための方便だと、そう思い込むことにしたのだ。そうしなければ、彩花を否定できなかった。ずるをしたんだろう、と。己の実力ではない何かを使って、優を籠絡したのだろう、と。彼女をそうやって詰れば、少しだけ劣等感が消える。そうやって彼女を否定することでしか、もはや己の矜持を保てなくなっていた。


 けれど、それでも。時々思うのだ。


「私にもっと、力があれば……」


 ぽつりと口から洩れた言葉。それは常に里花を縛り、呪うものだった。「特別な力」さえあれば、彩花などに負けはしない。優の婚姻相手も、里花のほうがふさわしいと、そういわれるはずだ。力さえあれば。あんな何の努力もしない女に、勝てるのに。


『――あの女に勝ちたいか』


 ふと耳へと忍び込んできたのは、低く唸るようなささやき声だった。はじかれるようにして顔を上げると、背後に何かの気配がした。真夏なのに、どこか冷たささえ感じさせるような、何か。振り返って目を凝らすと、黒いもやもやしたものが部屋の中にいた。


「あなたは、だれ」


 震える声で、誰何する。「見える」力はわずかにあれど、里花は妖を退ける力を持たない。普段町は結界に守られていて、直接妖と対峙することはない。ゆえにこうやって直接言葉を交わすことは初めてだった。決して動揺を気取られてはいけない。昔そう教わった事を思い出し、里花はぐっと唇をかみしめて黒いもやと向き合う。


『お前と同じ、水の力を持つものだ』

「……ここへ、なにをしにきたの」

『お前の声に惹かれてやってきた。力がほしい、と。そういったな』


 言葉を交わすうちに身を突き刺すような恐怖感は少し和らぎ、思考も回るようになった。いったいこの妖は何のために里花の元へとやってきたのか。それを見定めなければならない。


『僕なら、お前に力をやれる。あの女に打ち勝つ力を』

「ほんとうにできるの? どうやって?」

『お前にわが一族の刻印を授けよう。そうすれば、あの女に勝てるだけの力がお前に宿るだろう』


 くくく、と笑う声。その言葉に、里花は大きく目を見開く。力をくれる、などと。そんな都合のいい話が降ってわいたのだ。それも、彩花に勝てるだけの力をくれるという。どうして。いったい何のために。その疑問は里花の表情に現れていたらしい。再び笑い声が聞こえると、黒いもやはさらに言葉を継いだ。


『勘違いするなよ。人助けではない。この町に入り込んで、ある悪い妖を退治するためにお前の協力が必要だ。言ってみれば、取引だな』

「悪い妖?」

『そいつは、もう少しで僕のものになるはずだった“武器”を奪って逃げた。力の使い方を誤り、故郷を焼け野原にした裏切り者だ』

「裏切り者……」


 憎々しげに吐き捨てられた言葉に、里花が反応する。ひどいことをする妖だ、と思った。なにより、そんな力を持った妖が町にいる、ということが恐ろしいと思った。故郷を焼け野原にしたということは、この町も同じようにできるということに他ならない。だから、この妖に協力をしなければいけないのだ。決して彩花を見返す力のために協力をするわけではないのだ、と里花は自分に言い聞かせる。悪い妖を退治するため。その代わりに、力が手に入るだけ。ただ、それだけだ。


「いいわ。私にできることなら、あなたに協力をしましょう。何をすればいいの?」

「名を明かせ。それが、力を得るための契約になるだろう」

「私は坂木里花。坂木家の一人娘よ」

「坂木里花――我と同じ水の力を持つ娘よ。汝が力を望むならば、この契約を受け入れよ」


 ざざあ、とどこかで水音がした。どこからやってきたのかもわからないまま、突然里花は水の中へと抱き込まれる。不思議と冷たくはなく、息も苦しくはない。蒼く光る水の向こうがわ。今までぼんやりとしか見えていなかった黒い影は、姿かたちを変えていた。


『汝、我の目耳となり、手足となれ。さすれば、黒き牙、黒き爪がお前に力を与えよう――』


 大きく裂けた口からのぞく、4本の鋭い牙。地を踏みしめる四肢には、黒く光る大きな爪。全身は紫を帯びた黒の被毛で覆われ、頭には尖った耳、尻には太い尻尾がある。里花は似た生き物を知っていたが、同じというにしては大きさが違いすぎた。自分の身の丈ほどもある、大きな体躯。その、妖の名は。


「我は犬神――黒犬族の長、黒嵐。娘よ、力を望み、わが名を呼べ」

「こ、く、らん……黒嵐!!」

「正しく契約は結ばれた。力はお前のものとなり、身を助けるだろう」


 黒嵐の言葉とともに、体を包んでいた水はしゅるしゅると縮んで小さくなり、まめつぶほどの大きさになった。蒼く光る宝石のような粒はあっというまに里花の右の二の腕へと吸い込まれ、溶けて消えてしまう。何が起こったのだ、と袖をめくって確認してみれば、水面に揺らめく波紋のような、黒い流水紋が刻まれていた。


「ほんとうに、契約が結ばれたんだわ……」


 信じられない、といった風に、里花は呆然とつぶやいた。いままで妖と言葉すら交わすことのなかった自分が、妖と契約を結ぶなど。それは、本来力のある者にのみ許されるものだ。もう手に入れられないと、諦めていた力。彩花に対抗できるだけの、特別なもの。


「みてなさい、彩花……絶対に、勝ってみせるんだから……!!」


 神社のほうをひたと見据えて、里花がつぶやく。その様子を、少し離れたところで黒犬が見ていた。くつくつ、くつくつ、と。馬鹿にしたように、黒犬は笑う。少女は、何も知らないまま。ただ己が手にした力に酔いしれていた。


『さあ、飛焔。手駒はそろった。最後の戦いを始めよう――』


 ぱたり。満足げに尻尾を一振りすると、黒犬は空高く駆け上がり、姿を消したのだった。

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風の歌がきこえる さかな @sakana1127

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