4章 ふたりの境遇
1.大神
次の日、彩花は日の出前に起きだし、川で禊を済ませた。小袖と
柚良に会うのは優との婚約の儀以来だ。できる限り失礼のないよう、思いつく限りのことはしなければと気合を入れて支度を済ませた。
白藍は日が真上に上りきったころ迎えに来た。いつもとは違い、
普段とは違い少し緊張をしながら、彩花は白藍とともに山道を登ってゆく。彼の話によると、犬神と彩花が呼ばれるのはこの山の神域と呼ばれる場所で、柚良の許可がなければだれも立ち入れないところだという。慣れない緋袴につまづかないよう足元に注意を払いながら、頂上近くにあるという神域を目指して歩を進めていった。
やがて山道が途絶え峠に差し掛かった後、周りにひやりとした霧が立ち込めてきた。これが年中神域を守っているという霧なのだろうか。そんなことを考えながら白藍の白い体を見失わないように一生懸命ついていくと、突然目の前がさあっとひらけた。
むせ返るような濃い緑と、空を彩る青。さわさわと枝葉を揺らす風は、目の前に広がる銀色の湖に時折さざ波を立てては消えていく。中央に浮かぶ小島には小さな社が静かに鎮座していた。
「――どうじゃ、気に入ったかの」
思わず目の前の光景に見とれて言葉を失っていると、ふいに鈴を転がすような声がふってきた。声の主の場所がわからず、彩花はきょろきょろと視線をさまよわせた。それらしき人影はない。一体どこに――そう考えてから、傍らの白藍が上を見上げて深く一礼しているのに気づく。その視線の先を追うと、大きな
結い上げてもなお少女と同じ身長ほどはある烏玉のつややかな髪に、大地色の大きな二つの瞳。肌は透けるように白く、寒椿色の着物がさらにその白さを際立たせている。背格好は彩花と同じくらいか、それよりもっと幼く見える。だが浮かべる表情はその印象を払拭してしまうほどに艶やかで大人びていた。
「綺麗なところであろう? わらわが一番好きな場所じゃ」
くふくふと笑う少女に、彩花はかろうじてうなずくことしかできなかった。存在を認識した途端、その神気の強さに圧倒される。白藍にならってぎこちなく足を折ると、目をつぶって深くこうべを垂れた。
「このたびはこちらへお招きいただき、誠にありがとうございました。ご挨拶が遅れましたことを深く――」
「ああ、よいよい。そんなにかしこまらずとも、普通に話してくれればよいのだ。堅苦しいのは好かぬ」
とん、と軽やかな音を立てて、柚良はふわりと彩花の前へと舞い降りた。まるで滑るように進み、しゃらりと
「柚良さま。お戯れはそこまでにされたほうが良いかと」
「おお、よくきてくれたの。日の高いうちにそなたを見るのは久方ぶりじゃな」
目を白黒させてうろたえる彩花とさらに近づいてくる柚良の間に割って入ったのは、低く涼やかな男の声だった。日光が苦手な色男の妖、佐京だ。彼ならこの場を何とかしてくれるに違いない、と彩花は安堵の息を漏らす。どうやら彼も彩花の緊張を察してくれたのか、柚良と彩花の間に入るようにして立ち止まった。
「人間にはいろいろとしきたりが存在します。神へまみえる際の手順、目上の者に話す作法――そういうものを上の方が無視をされると、下のものは困ってしまうのですよ」
「むぅ……じゃが、わらわはそのようなしきたりをよう知らぬ。それに堅苦しいのは嫌いじゃ。もっと気安く話したいのだ」
佐京は彩花が緊張してしまう理由をうまく伝えてくれると、目の前の少女はちょっとばかり身を引いてから難しい顔になった。まるで望むおもちゃがなかなか手に入らなくて、すねているような表情だ。どうやら何としてでも『気安く話したい』らしい。
「だそうだよ、彩花。そもそもしきたりを知らないのだから、それをすっ飛ばしても失礼にはならない。もうちょっと気楽にしていいんだよ」
「うん……頑張ってみる」
佐京にうながされ、ようやく彩花はほんの少しだけ肩の力を抜いた。なるほど、しきたりを知らないのであればそれをわざわざやる意味はない。目の前の神が気安く話すことを望むのであれば、逆にかしこまりすぎることが失礼になるだろう。そう納得できると先ほどの混乱はほとんどなくなり、落ち着くことができた。
「では改めてご挨拶を。お会いできてうれしいです、柚良さま」
「おお、わらわも会えてうれしいぞ。また一段と綺麗になったようじゃ。優なんぞにやるのはもったいないの」
「えと……はい。ありがとうございます……」
目を細めていたずらっぽく笑う柚良に、はにかみながらぺこりと頭を下げる。その横で彩花の心情を読み取ってか、これまでにないほど白藍と佐京は苦笑いをしている。
もったいないなら婚約を破棄させてくれないかな、とは口が裂けても言えない彩花であった。
「さて、最後の役者たちが到着したようだの」
彩花を伴って神域を巡り、あれやこれやと話す柚良の案内がひと段落したころ。突然真剣な顔で柚良が向き直ったほうへ視線をやると、神域を覆う緑の向こうから雫石と市伊、そして警戒の色を強く瞳に浮かべた飛焔が姿を現した。
(ほんとうにきれいな毛色だわ。いつみても燃えてるみたい)
風もないのに紅くちらちらと波打つ飛焔の被毛に、彩花はほうとため息を漏らす。周りの緑も手伝って、その色はさらに鮮やかさを増している。人型の彼も十分見目麗しい青年なのだが、彩花は元のすがたの飛焔のほうが好きだった。
「お待たせしました、柚良さま。こちらのものを案内してまいりました」
「市伊!」
彩花が飛焔に見とれているかたわら、ぱあっと表情を明るくさせて柚良が市伊へと駆け寄っていく。我に返った彩花が目を丸くしてみていると、先ほどの真剣な表情はどこへやら、目の前にいるのは市伊にきらきらとした目を向けてほおを紅潮させる少女だった。だが驚いているのは彩花と飛焔だけで、ほかの妖たちは平然としている。どうやらこれがいつもの光景であるらしい。
「彩花に神域を案内しておったのじゃ」
「ああ、山梔子を見にいっておられたのですか。どおりでいいにおいがしますね」
「今年も見事な花を咲かせておった。そなたの手入れのおかげじゃな」
「気に入っていただけたなら、それが何よりです」
まるで幼子が今日あったことを父母に話すように、それからそれからと言葉を継ぐ柚良と、それをやんわりととどめる市伊。いったいどちらが上であるのかを忘れてしまうほど、その距離は近いものだった。
いったいいつまで続くのかというやり取りが終わったのは、雫石がこほん、と小さく咳払いをした後だった。大地色の瞳がしまった、というように彼女を見やり、口をつぐむ。苦笑する佐京と白藍、怖い顔をする雫石、あっけにとられた彩花と毒気を抜かれた犬神の顔を順繰りに見て、柚良は多少気まずそうに居住まいを正す。まったく表情が変わらないのは市伊だけだった。
「少々話に夢中になってしまってすまんかったの。わざわざこちらまで出向いてくれた旨、礼を言おう」
「こちらこそ、挨拶もせずこの山へ居座ってしまって申し訳ありません。初にお目にかかります。南の赤犬族が長、飛焔と申します」
「かまわぬ。わらわがそなたをここに呼んだ理由はすでに市伊から聞いておるであろう? 話してくれるな、飛焔」
真剣みを帯びた表情の柚良の言葉に飛焔は深くうなずき、慎重に言葉を選びながら己の身の上を話し出したのだった。
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