3.婚約者
体に取り込まれてしまった妖力を
そんなことを考えながら、彩花が禊を始めようとしたときだった。白藍が急に唸り声を上げ、つむじ風になったかと思うと姿を消した。
「――まずい、あの男がきた」
風に乗ってきた声を耳が捉えたころには、川岸の砂利をふみしめる音が彩花にも聞こえていた。川中の彩花は逃げる暇もなく、その男と対面することになった。
「また、妖の傷を癒してきたんだね」
一週間ぶりに会って開口一番言うことがそれだとは、なんともこの男らしい。わざわざ会わないように神社から離れた川を選んだのに、という文句は心の中にしまいこみ、彩花は川岸へ立っている男――
「この霊力は私の力です。どう使おうが、私の勝手でしょう」
「でも、いずれ君は僕の妻となる人だ。だから、僕にも口を出す権利があるとおもうのだけれど――」
「ならば、私が妻となってから口を出してください。そのときは、私もきっちり優さんの妻としての責務を果たします」
一歩も退かない覚悟でそう言い返すと、優はしぶしぶといった態で引き下がる。 いったい何度このやり取りを交わしただろうか。そのたびに頑として彩花は優の言葉を突っぱねてきたが、いい加減うんざりしていた。
彩花が意志を曲げないことを示すと、優は一応自分の意見を引っ込めはする。だが、ため息をついてこう言い添えるのは忘れないのだ。
「相変わらず強情だね。妖なんて倒すもので、助けてやるものじゃないのに」
「私にとっては助けるべき対象で、分かり合える存在です。小さいころに妖に襲われて苦手になったからって、あなたの勝手な価値観を私に押し付けないで」
「僕が妖を苦手? まさか。ただ、存在が疎ましいだけだよ。きみこそ、変な思い違いをしないでくれないか」
「だったら、誤解されるような言動を慎んだらどうなの。たかだか一匹の妖を助けたくらいでわざわざ町外れまで文句を言いに来ないでくれる? わたし、あなたのくだらない小言に付き合うほど暇があるわけじゃないのよ」
そこまでを一気に言い切って、少し離れた川岸で棒立ちになっている男を睨む。言葉を重ねるごとに声音がとげとげしくなっていくのを抑えられなくて、彩花は早く優が立ち去ってくれることを切に願った。
(お願いだから、これ以上神経を逆撫でしないで。これ以上、幻滅させないで)
ぎゅっと唇を引き結び、なにも言わなくなった彩花を見て諦めたのだろうか。優は大きく嘆息した後、しっかり禊をするように、とだけ言い残して踵を返し、去っていった。
その姿が完全に闇に消えるまで、彩花はじっと後姿を見つめていた。
「やっといなくなったみてェだな」
優の気配がなくなったのを察知したのか、しばらくしてから白藍が姿を現した。 あの男が来ると彼が逃げるのは、隙あらばこの鎌鼬を退治しようとするからだ。私の大切な友達だから手を出さないで、という彩花の言葉にも耳を持たず、彼は白藍に多大な敵意を抱いている。
「わざわざここまで出向いて小言を言いに来るなんて、本当に暇な人ね」
「あいつは心配なのさァ。いつか、お前が妖にさらわれてっちまうんじゃないか、ってな。」
「まさか。私をさらおうなんて酔狂な妖はいるはずないでしょ。神前で婚約の儀式を行って、契りを結んでるのよ? そんなことしたら、神様にたてつくも同然なんだから」
二年前、町のしきたりにより、水城神社の神主である水城優の花嫁として選ばれ、彩花と彼は神前で婚約の儀式を挙げた。結婚は彩花が十八歳になるまで行うことが出来ないため、婚約の儀だけでもということだった。
その儀を行った者は、神の前で結婚することを誓ったも同然だ。だから、それを破って他の人と結婚することは許されない。たとえ、それが人間ならざるものであったとしても。
それでも、白藍はどこか遠い目をして彩花の言葉を笑い飛ばした。
「妖には酔狂な奴が多いからなァ。ま、気をつけるこった」
「いっそ妖の花嫁にでもなれたらいいのに。そっちのほうが、ずっと楽しそうだわ」
「妖は総じて情が深い。彩花の婿には妖のほうが合ってるかもしれないなァ」
「そうね。旦那と『妖を助けるな』って喧嘩することもないし、楽かも」
「違いねェな!」
そういって顔を見合わせた二人は大きな声で笑った。
――誰か、私をさらっていってくれればいいのに。
最後にもう一度、ぽつんと呟かれた言葉は風に乗って川を渡り、山のほうへと消えていった。
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