2.出会い




 ざわっ、と風が騒いだ。ただそれだけだったが、違和感を感じて少女はふと足を止める。今、何かが聞こえなかっただろうか。


 「どうしたのかしら……?」


 明るい栗色の瞳を揺らして、少女が山道から細く伸びる獣道の先に目を凝らす。確か、先ほどこちらの方角から何か聞こえた気がしたのだ。

 いぶかしげな声に反応したのは、渦を巻く小さな風だった。ひゅうひゅうと唸りながら、風はやがて一匹の白い鼬へと姿を変えた。


「――彩花あやか

「山の様子がおかしいの。なにかあった?」

「犬神だ。仲間と喧嘩して深手を負った犬神がこの先に倒れている」

「急いで、白藍はくらん。手遅れにならないうちに」


 急いた少女の声に応え、白藍と呼ばれた鎌鼬かまいたちは細く入り組んだ獣道に入り込む。夕暮れにはまだ時間があるが、山に入ればそれなりに暗い。薄暗い山道で姿を見失わないよう必死に目を凝らしながら、少女は白藍の白い体躯を追った。


 しばらくして、1人と1匹は少し開けたところへ出た。見れば、大きな木の下に横たわる赤銅しゃくどう色の大きな体躯と、その傍でくるくる回る白藍の姿がある。


(――なんて、ひどい)


 力なく大地に倒れ伏す犬神を見て、彩花は絶句した。地面に溜まっている血だまりを見る限り、かなりの深手を負っているようだ。

 他者が近づいても唸り声ひとつあげないところを見ると、おそらく意識を失っているのだろう。しかし薄暗さの中でも鮮やかさを失わない赤銅の被毛は、血に濡れてもなお美しさを保っている。そこに無意識のうちに生にしがみつこうとする意志の強さが見て取れた。


「教えてくれてありがとう、白藍。すぐに治療するわ」

「またあいつに怒られるぞ。『あやかしなんて倒すものだ、癒すものじゃない』ってな」


 少しうんざりした表情を浮かべながら、白藍は彩花の行く手をさえぎる。一応彼なりに心配してくれているのだろう。

 それでも、彩花は目の前に傷ついた妖がいることを放っては置けなかった。ましてや、自分にそれを癒す力があるなら、なおさらのことだ。


「大丈夫よ。すぐるさんに何を言われても気にしないわ」


 その名を聞いた途端、苦虫をかみつぶしたような顔をする白藍に、彩花は苦笑する。それでもまだ言葉を継ごうとする白藍をどうにかなだめ、出来るだけ刺激しないようそっと虫の息の犬神に歩み寄った。


「ひどい傷……私一人の力じゃ癒しきれないかもしれない。ちょっと、白藍は離れていてちょうだい」


 少し難しい顔をした彩花を見て、白藍はすぐに距離をとった。彼は彩花が次に何をするのかを知っていた。それに巻き込まれてしまわないよう、少し距離を置いたのだ。


 白藍が安全なところまで移動したのを見届けた彩花は、犬神の傍へ近づいた。深く息を吸ってから拍手かしわでを打つと、あたりの空気が清浄なものへと変わる。そっと犬神のそばへかがみこみ、いちばん深い傷に手をかざすと、彩花は静かに目を閉じた。

 次にこぼされた言葉は先ほどの声音と一変してかたく澄みきり、空気を切り裂くように響きわたるものだった。


「――大城山に宿りたる神に伏して願い奉る。その温かな伊吹で流るる血を止め、諸々もろもろの傷、引き裂かれた爪痕を癒し給え。彼の者に再び力強き生をたまわり給え」


 言葉と共に、青白い光が彩花の身体を包み、指先から傷跡へ向けて放たれた。ふわりと犬神のからだを包み込んだ優しい光はたゆたうように揺れ、少しずつ傷跡を癒す。だんだんと流れる血の量が減り、大きくえぐられた傷口はゆっくりと塞がれていく。

 

 その代わりに、まるで何かに耐えるように少しずつ彩花の表情がゆがみ始めた。妖である犬神を回復させるとき、少女の生命力そのものが少しずつ削り取られていくためだ。彼女が死んでしまうほどに生命力を奪われないのは、この山にいる神の力を借りているからに過ぎない。それは異なる力で相手を癒すゆえの代償だった。


 じっとりと皮膚にまとわりつく汗がうっとうしい。重たくなっていく頭のすみでもそう明確に感じられるようになって来たころ、ようやく目の前の獣がちいさく身震いした。相手が意識を取りもどしたと知るやいなや、彩花は霊力を送り込むのをやめ、大きく後ろへ下がって犬神と距離を取った。


 ぐるる、と呻いて目を開けた犬神は、人間の匂いがすると分かるが早いか身を起こし、牙をむいて唸った。ぶわりと膨らんだ赤銅色の毛は逆立ち、紅緋べにひの瞳は獲物に狙いを定めるようにしっかりと彩花を捉えている。


 荒れ狂う獣の本性の色を隠すことなくまっすぐ向けられ、彩花はごくりと息を飲む。こんな強い意思を宿した瞳は今まで見たことがない。決して犬神の気迫に怯えたわけでもなく、屈したわけでもないが、それでも目を離すことが出来なかった。


(動揺したら、一瞬で殺される)


 彩花は必死で揺れる気持ちを押し隠し、目の前の獣を見返す。これまでにも似たような状況に陥ったことはあった。こういうときはあまり相手を刺激せず、頃合いを見計らって早めに立ち去るのが得策だと、経験上よくわかっていた。


「まだ静かにしていたほうがいいわ。あまり動くとせっかく閉じた傷口が開いてしまうから」

ね、人間。今すぐ頭から喰らってやろうか」


 頭に響く低音。同時に喉の奥で鳴らされる唸り声は明らかにこちらを威嚇している。いったい、何度こんな台詞を聞いてきただろうか。並みの妖より強い力を持つ妖たちでさえ人を恐れ、害される前に食べてしまおうという考えをもつものが多い。目の前で牙を向いてこちらを睨む獣も、そのつもりのようだ。


「またか。なんで妖ってみんなこう、恩知らずばっかなんだろうなァ。危ないから彩花、下がっとけ」


 今にも飛びかからんばかりに身を低くする獣の様子に、あきれた様子の白藍が前へ滑り出る。だが彩花は首を振ってそれを制した。いくら手負いだとは言え、目の前の妖は犬神だ。まともにやりあえば、白藍は負けてしまうだろう。

 ここは一か八かでも、賭けてみるしかない。精一杯口端に笑みを浮かべ、静かに一歩前へ足を踏み出すと、少女は声高に言い放った。


「あら、傷を癒した命の恩人にひどい言い草ね。気高き犬神ともあろうものが、恩を仇で返すつもり?」

「なに……?!」


 ふっ、と身を浮かせた獣がそのままの姿勢で動きを止める。まさか彩花の口からそんな言葉が飛び出すとは思っていなかったようだ。だが身体の傷がおおかた治っていることに、それを否定できずにいるらしい。


(もう動いても大丈夫そうだわ)


「喧嘩っ早い、秋津色の犬神さん。それだけ動ければ大丈夫。今日はもうねぐらに帰って、ゆっくり休むといいわ」


 驚きと困惑で固まったままでいる犬神に、彩花は笑いかけながら身を翻し、もと来た獣道のほうへと向かう。そうして、すっかり暗くなってしまった獣道を、再び白藍の案内で引き返していったのだった。

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