8.神社にて
「じゃあ、今日はここまでにしようか」
優が吹く神楽笛の音がやんだ。雑念を払い一心に舞っていた彩花の意識が、優の声で引き戻される。外を確認するとすでに太陽はしずみ、夜の帳が下りてきていた。じわりと浮かぶ汗と、肌に張り付く巫女装束はかすかな不快感を抱かせる。持っていた鉾鈴を慎重に置く。しゃらり、とかすかに響く鈴の音は、すっかり耳になじんでいた。
七夕祭りの巫女舞は、彩花が十の時から仰せつかっている役目だ。七夕祭りの一か月前、五人の巫女舞の候補者たちは水城神社に集められ、榊を手に持ち祈りを込める。神に祈りが届き選ばれた少女の榊はみずみずしく枝葉を伸ばし、それ以外の者が持つ榊は枯れ落ちる。いにしえから続く、古い古い巫女選びの方法だった。選出の儀はだれが見てもよいとされ、毎年大勢の町の人たちの目の前で行われている。そのため、ずっと選ばれ続けていることに対して彩花に何か言う者はいない。何かと言いがかりをつけてくる同級生の少女たちでさえ、このことについて文句を言う者はいなかった。
「君の舞はいつみても美しいな。柚良さまでなくとも、君を選ぶ気持ちがわかるよ」
「それは……どうも」
「舞うときのひたむきなまなざしの、その一片だけでも僕に向けてくれたら嬉しいのだけど」
この男のこういうところが嫌いなのだ。舞の練習の前、ほんの数ミリほど男を見直した気持ちをばっさり投げ捨て、優の台詞を右から左へ聞き流す。歯の浮くような美辞麗句は聞き飽きた。彩花の気持ちをこれっぽっちも理解してくれないくせに、僕のことを好きになって、という。どうせ家が決めた結婚なのだ。優の事を好きにならずとも、結婚はとりおこなわれる。それなのに、わざわざ好きになってという男の気がしれなかった。
「明日もまた同じ時間に来ます。今日はありがとうございました」
「外はすっかり暗くなっているし、家まで僕が――」
「いいえ、結構です。それより、このあと神社の書庫によって帰りたいのだけど」
「今日は遅いし、帰ったほうがいい。明日練習前においで。鍵は開けておいてあげるから」
「……はい」
本当は一刻も早く書庫へ行きたかったのだが、優の言うことにも一理ある。それに明日昼間から行けば、門限を気にすることなく調べ物ができるだろう。そう思ったので、彩花は反論することなく素直に頷いた。だが再三の家まで送るという申し出はきっぱりと断り、門の外へ迎えに来ていた白藍を伴い、帰路に着いたのだった。
次の日、彩花は太陽が昇るとすぐに家を出た。舞の練習は夕方5時からなので、十分余裕はある。神社の書庫は広く、膨大な量の書物が収められている。今日一日で目当てのものが見つけられるかどうかも怪しく、時間はいくらあっても足りなかった。
今日、練習前に書庫へ行くことは優以外の誰にも告げていなかった。いつも一緒にいる白藍にすら、このことは言っていない。もっとも、わざわざ彩花が「練習に一人で行く」と告げたことから、何かしらの違和感は感じ取っていることだろう。彼の優しいところは、彩花が一人で動きたいと思ったときに、口を挟まずそっとしておいてくれることだ。彩花が納得し、気持ちの整理がついた時に白藍へ話をするまで、何も言わずに待っていてくれる。それが本当にありがたかった。
まだ人もまばらな朝の町を、水城神社目指して歩く。彩花を取り巻く様々な事象の真実が知りたい。そう思うと気持ちがはやるのを抑えられず、自然と神社へ向かう足は早くなった。
息を弾ませて大きな鳥居をくぐると、道の先に道を掃き清める人の影が見え、あわてて彩花は歩を緩める。それがだれなのか、近づかなくともわかった。待ちきれず急いできてしまったことを悟らせたくなくて、できる限り息を整えてから、平静をよそおってゆっくりと神社の中へ入る。
「おはよう、彩花。早起きだね」
「おはようございます。約束通り、書庫に行ってもいいわよね?」
「もちろん。練習まで好きにみていいよ。目当てのものが見つからなかったら、明日もまたおいで」
「……あ、ありがとう……」
てきぱきと話を進める優に、ためらいつつ彩花が礼を言う。朝とはいえすでに気温は高く、彼の額と首筋にはうっすらと汗が浮かんでいた。きっと優は彩花が朝一番に来ることをわかっていて、わざわざここで待っていてくれたのだろう。普段こういうところを掃き清めるのは、この神社に二人ほどいる神職見習いの青年の仕事だ。神主である優が行っているところはほとんど見たことがない。悔しいけれど、彼は彩花の性格をとてもよく把握していて、どう行動するかを予測して動くことが多い。それは彩花にとって煩わしいことの一つでもあったが、同時に助けられることも多かった。
いつもなら余計なことをしないでと突っぱね、お礼も言わずにさっさと神社の中へ入る。そんな行動をとることが多い彩花だったが、今回の件に関しては素直になってみようと決めていた。自分が彼に対して
「……どういたしまして、彩花」
少しばかり間を置いた後、優はふわりとうれしそうに笑み崩れる。昨日お礼を言ったときもそうだったが、彩花は彼のこんな表情をついぞ見たことがない。いつも自分に対してえらそうに説教をしたり、怒ったり、あきれたり。そんな表情ばかりだ。今までそれが彼の性格だと思って諦めていたけれども、昨日彩花のお礼に驚き戸惑う彼を見て、本当は違ったのだと悟った。今まで優が見せていた面は、彩花の頑なな態度が引き出したものだったのだ、と。
だから、というわけではないけれど。こんなにうれしそうな表情をしてくれるのであれば、ほんのちょっぴりだけ素直になってもいい、と思った。彼の嬉しそうな表情は、決して嫌いではなかったので。
「そっ、それじゃ、またあとで……っ」
「うん。時間になったら呼びに行くから、それまではゆっくり調べ物をしておいで」
いってらっしゃい、と手を振る優に見送られながら、彩花はその場を後にした。少し耳と頬が熱くなったのを極力意識しないよう、神社の書庫を目指して足早に進む。彩花を目で追うときの、そのまなざし。彩花を見送る、低くて柔らかな声。そこにとろりと甘い響きがあるのに気づいてしまって、赤面してしまうのを止められなかった。今まで目を背けていた事実――彼は異性であり、自分の結婚相手なのだ、と。そのことを、意識してしまうのには十分で。
「……っ、何考えてるのよ……!!」
耳にこびりついて離れなくなった甘い響き。ぶんぶんと首を振って頭の中から追い払おうとしても、いつまでたっても消えてはくれなかった。今まで自分がどれだけ優から目を背けてきたのか。彼の事を見ようとしていなかったのか。そのことをむざむざと思い知らされた気がして、ちくりと罪悪感で胸が痛む。
この結婚は、全ては父親が家を盛り立てるために仕組み、優が彩花の力を欲した為だとばかり、思い込んでいたから。少しでも彼の事を見ようとしていれば、それが全くの思い違いだとわかったかもしれない。なぜ彼がここまで自分にこだわり、執拗に口出ししようとするのか。その理由を、彩花は今まで全く理解していなかった。
面と向かって言われたわけではない。自分の思い過ごしかもしれない。そう片づけてしまうのは簡単だった。けれど、すこし彩花が彼に向き合うだけで喜びに満ち溢れるまなざしと、甘い響きのこぼれる声を聴き、思い違いで済ませられるはずがない。
ばたり、ばたり、と荒く床板を踏み抜きながら書庫に向かい、扉を開く。全く目の前の書物に集中しようと思っても、思うように頭が回らない。結局ほとんど目当ての書物を見つけられないまま、彩花は夕方までの時間を過ごしたのだった。
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