天烏の呪い




 一方その頃――。

 屋敷に残った蘭子は、私的な空間である二階の客間にいた。

 咲とさくらが出払った後、手持無沙汰に部屋を歩き回ったが、それにも飽きると諦めて長椅子に腰を下ろした。焦れったいことこの上ないが、今自分にできるのはひたすら待つことだけだった。

 卓上には、咲から返還された野茨のロケットペンダントが置かれている。

 元は花澄が所持していた「当主の証」である。咲が個人的に入れていた静の写真は抜かれており空っぽだった。

 蘭子はペンダントを手に取ると、蓋を開けた。

 そこに変装した父と花澄の手が写った写真を、小さく折り畳んで入れた。

 この奇妙な写真を納めておくのに、これが一番相応しい場所に思われた。花澄こそが、父が望んだ正統なる娘であり、綾小路家を継ぐ者だった。決して自分ではなかったのだ。

 ペンダントの蓋を閉め、蘭子は静かに首にかけた。

 ぎゅっと握りしめると、ペンダントから五年前に起きた火事の余熱が伝わってくるようだった。

 蘭子は今、無性に寂しかった。悲しかった。

 自分は綾小路家の後継ぎになれなくても良かった。伯爵の地位もいらなかった。

 ただ叶うならば、生まれながらに父に愛されたかった。我が子であると認めて欲しかった。父が花澄に与えた愛情の、百分の一でも預かれたなら、どんなに心救われただろうに……。

 だが、今となっては永遠に叶わない夢である。

 

 カーテンを閉めていても、差し込む陽光に赤い陰りが見え、夜が近づいてきているのがわかる。

 外は燃えるように真っ赤な夕焼けなのだろう……と思ったその時だった。

 ガシャーンと盛大な音を立てて窓が割れ、黒い影が室内に飛び込んできた。

 蘭子は反射的に立ち上がった。

 カーテンのおかげで硝子の破片は飛んでこなかったが、彼女は胸のペンダントを握りしめたまま、二三歩後ずさった。

「何者」

 影がゆらりと立ち上がった。

 その男には、確かに見覚えがあった。忘れようにも忘れられない美麗な容貌と、冷たく冴え冴えとした眼が蘭子を拘えた。飛び込んで来たのは鷹丸だった。

 彼の左手には、黒く細長い剣のようなものが握られていた。

 刃はレイピアのように細く直刀だが、鍵山のような尖りやギザギザがついていて先端は曲がって鉤針かぎばりのような形をしている。持ち手の部分ははさみと似た二つの穴が開いており、そこに人差し指と中指を通していた。

「鷹丸……」

 その名を呼ぶと、鷹丸は少し嬉しそうに目尻を下げた。

「おうよ、あんた様。久しぶりだな」

 窓を割って入ってきたことと、武器らしき不穏な鍵剣の存在を除けば、彼は前に会った時と何も変わらないように見えた。

「あなた、どうして、そんな……」

 屋敷に来るなら、どうして玄関から入って来ないのかと続けたかったが、蘭子の問いは上手く声にならなかった。

「やっと入ることができたぜ。これまで屋敷内のあんた様を感知できなかったということは、婆さんの能力は『隠蔽』か? なんにせよ、もう意味はねえがな」

 ひょいと小首を傾げながら、鷹丸は蘭子に向かって大股で近づいてくる。

 長い腕が伸びてきたかと思うと、身構える間もなく、蘭子の視界はくるりとひっくり返った。音もなかった。あっという間の出来事だった。蘭子の視界には、天井のバカラのシャンデリアが映った。

 蘭子の首には鷹丸の右手が絡みつき、彼女は呆気なく元いた長椅子の上に押し倒されていた。

 あまりにも速かった。悲鳴を上げる暇もなかった。

 床ではなく、スプリングの効いた長椅子の上なので痛みはない。

 首を押さえつけられているが、息苦しくはない。

 だが、鷹丸の突然の無体に蘭子は当然抗議の声を上げた。

「な、何をするのです。離しなさい!」

 せいいっぱい睨みつけると、鷹丸は息もかかるほどに顔を近づけてきた。

 その口端は軽く反り上がって、微かに笑みを浮かべている。だが、眼が全く笑っていない。蘭子の胸のうちに恐怖が躍った。心臓の鼓動が早くなる。

 ドスッと何かが刺さるような音がした。

 鷹丸が鍵剣を離し、蘭子の頭の少し上に突き立てた。

 上から、どこか惜しむような声が降ってきた。

「まさか外来種の血が入っていたとはなあ……。道理でわからなかったわけだ」

「が、外来種とは、な……」

「あんた様を守護してた婆さんのことさ。隠していた、と言ってもいい。俺たちには俺たちの約定があってな。外来種とその係累は、神代かみよの頃からみなごろしと決まっている。この国では生かされない。あんた様も運がなかったな」

 どこか同情するように囁いて、鷹丸は右手にぐっと力を籠めた。

 片手で易々と首を絞められ、気道を押された蘭子は悶絶した。

「あ、うっ……あっ」

 首を振り、身を捩って抵抗するが、当然男はびくともしない。

 息苦しさから、蘭子のまなじりに薄らと涙が浮かんだ。

 鷹丸は自分を締め殺す気でいる。殺される理由もわからないまま、自分は死ぬのか。こんなところで……? あまりにも理不尽に……?

「た、か……まる、何故……」

 せめてその理由を知りたいと、必死に言葉を紡ぐ。

 鷹丸は蘭子を、瞬きもせず見つめた。彼は彼なりに、その鋭い眼で蘭子の価値を測っていた。殺すのは一瞬で済むが、時游民の血を引く「真穏者」には、今生なかなか出会えるものではない。生殖に適齢した若い女ともなれば尚更だ。

 やはり惜しいと思ったのか、鷹丸はふむと唸った。さらに顔を近づけると碧眼に滲む水滴をべろりと舐め取った。蘭子の口から、ひっと新たな悲鳴が漏れた。

「いや、殺すのは勿体ねえな。あんた様は、生まれながらに和合している。この国に仇なすことはないだろう。女の真穏者は優秀な母胎になる。天鳥の子を産ませた方が役に立つな」

「あま……がらす?」

 その不思議な名を呼ぶと、首を絞める手が少し緩まった。

 彼は何を思ったか蘭子のドレスに手をかけると、引き千切る勢いで肩から引き下ろした。胸元は下着ごとはだけられ、豊満な白い乳房がまろび出た。

「な、何を」

 間髪入れず、蘭子の口に男の長い指が差し入れられた。

 指は咥内をぐりぐりと探ったあと、舌をぎゅうと挟んで摘まみ上げた。

 狼藉を働きつつも、男の声は至極冷静だった。

「舌を噛むなよ。すぐに終わる」

「あうっ、んっ」

 苦しがる蘭子が、指に歯を立てて強く噛んでも無駄だった。

 鷹丸は露わになった豊かな乳房に、顔をうずめた。

 途端、左の乳房の谷間の方に激烈な痛みが走った。

 ぐいぐいと胸に鋭い歯が食い込んでくる。鷹丸に噛まれている。それは焼きごてを押し付けられたような熱さだった。熱い。痛い。溶ける。拷問なのかと思うほど、それは苛烈な愛撫だった。

「んーっ、んーっ!」

 蘭子は指三本を突っ込まれ、まともな声を出せないまま絶叫した。

 痛みから、しきりに身を捩ったが、男は容赦しない。

 鷹丸は、暫く蘭子の胸を噛み続けた。

 やがて目的を達したのか、満足そうに喉を鳴らし、噛んだ箇所を丁寧に舐めた。蘭子の口から指を引き抜くと、顔を離し、はだけたドレスを元通りに直した。

 突然脱がされたと思ったら、また着せられてしまい、蘭子はわけがわからない。

 鷹丸は意中の女への刻印を終えると、ニヤリと意味深に笑った。突き刺した鍵剣を引き抜き、蘭子の頬をさらりと撫でると立ち上がった。

 その美しい貌に、欲情の色はなかった。乳房を噛むという無体を働きつつも、さらなる狼藉に及ぶ気はなさそうだ。そもそも彼に、本当に殺意があったのかどうかもわからない。

「あなたは……妾に何を……」

真人壊乱マーキングだ。これであんた様は生涯、天烏以外の族の加護を受けられねえ。前向きに考えるなら、最強の守護鳥しゅごがらすがついたってことだな。いっそこのまま祝言でも挙げたい気分だが、仕事の途中だからな。さて、今頃だが報告だ。花澄の正体がわかったぜ」

「えっ……」

 蘭子は噛まれたあたりを押さえながら、なんとか身を起こそうとした。

 しかし、真人壊乱とやらの作用なのか力が入らず、再び長椅子に倒れ伏してしまう。視界が霞み、頭がぼうっとする。熱が出てきたのかもしれない。

「少し寝てろ。俺の真髄液が入ったからな。真人ならこの時点で死んでる。あんた様には耐性があるだろうが、細胞が慣れるまでは時間がかかる」

「か、花澄……と言いましたね。彼女、を……見つけたのですか」

「ああ。花澄は特殊失踪人、儡霧らいきり真神者しんじゃだ。傀儡の操術を得意とする闇族やみうからの一派だな。真人を盾にして滅多に表に出てこねえが、やっと本体が現れた。天烏とは同胞はらからであり、兄弟でもあり、まあ……敵だな」

 敵という部分で、鷹丸の声は急に低くなった。

「……か、花澄も人外……? 時遊民だったのですね……」

 激しい眩暈を覚えながらも、かろうじて蘭子は問うた。

「時游民てのは、真人どもが勝手につけた名称だ。俺たちは真神者と呼ぶ」

 鷹丸がそう言った瞬間、まるで呼応するように庭の方からドーンと大きな音がした。

 少し遅れて振動が伝わり、新館もガタガタと揺れた。

「鵄丸だな。俺も行くか」

 鷹丸は鋭い眼を好戦的にぎらつかせ、さっと窓に駆け寄った。

「ここで待ってろ。花澄を連れてきてやるよ」

 そう言い捨てると、鷹丸は再び鍵剣を携え、躊躇うことなく窓から飛び降りた。

 

 

 

 ドーンと派手な音を立てて崩れたのは、綾小路邸の周囲に張り巡らされた塀の一部だった。

 逃げる狭霧と夜霧を追って、鵄丸の金剛羽根がぶつかった結果、コンクリートに大穴を開けたのである。

 地球上で、一番硬い物質である金剛石ダイアモンドの羽根を以って斬り裂けないものはない。

 ましてや時速百キロを越える速さで走り、攻撃を加えればその破壊力は計り知れない。

 鵄丸が追うのはただ一人、狭霧である。連れの夜霧は、端から眼中にない。

 彼の仕事は、相棒の鷹丸同様、綾小路花澄、則ち狭霧を捕らえて、生きたまま依頼人の元へ連れていくことだった。

 ビュンと風を切って、長針が飛んできた。

 姉を狙う天烏を止めようと、夜霧が平行して追いすがってくる。

 足を狙って放たされた鋭い投擲とうてきを、鵄丸は一回転して難なく躱した。

 だが、夜霧は諦めない。

 さらに二投、三投と飛んでくる針に、鵄丸も応戦せざるを得なくなった。

 翼の腕を大きく降ると、烈風が巻き起こり、夜霧を襲う。

 鋭い真空刃は夜霧の脇腹を切り裂き、背後の庭園の薔薇をもばっさりと刈り取った。

 風に煽られて舞い散る真紅の花弁の下で、逃げ遅れた庭師が腰を抜かしている。

 彼には、鵄丸も夜霧も飛び回る黒の残像にしか見えず、一体何が起きているのかわからない。

 しかし、人ならざる者の戦いに巻き込まれれば命はない。

「行かせないよ!」

 長針を握った夜霧が、一際高く飛び上がった。

 キーンと耳をつんざく音がして、針の先端が鵄丸の金剛羽根に突き刺さる。

 針が金剛を貫通するはずはない。夜霧もそれは百も承知だ。

 右翼を止めておいて、もう一方の手で鵄丸の左足に長針を突き立てる。

 今度はブスリという音がし、針は太ももを貫通した。腕と違い、足は金剛に変化しない。そう踏んでの決死の攻撃だった。

 鵄丸が思いっきり腕を振った。右翼に弾かれてバランスを崩し、夜霧は地面に叩きつけられた。

 土や花弁に塗れたが、すぐに飛び起きる。

「むっ」

 鵄丸が低く唸った。

 足に刺さった長針を、血肉ごとすぐに引き抜く。

 じんと微かな痺れを感じた。長針には神経を侵す毒が塗ってあるようだ。

 だったら、あとものの数分で足は痺れて走れなくなる。

 鵄丸は、右足で強く地を蹴った。

 再度懐に飛び込んできた夜霧の肩を掴むと、勢いよく投げ飛ばす。

 少年の身体は予想外に大きく飛び、数十メートル先の旧館の一階にぶち当たった。

 窓硝子が割れ、騒々しい音が響き渡る。

「……しまった」

 少し悔やむように鵄丸は一人ごちた。屋敷の中にはまだ真人がいるはずだ。

 彼らを巻き込むのは本意ではない。躊躇っている暇はなかった。

 鵄丸は旧館に向かって、暴れる水牛のごとく猛突進した。

 

 

 ここで天烏が現れるなど、到底予期せぬ事態だった。

 狭霧は逃げながらも、後方を何度も振り返った。

 ついてきているはずの夜霧の姿がなかった。

『……夜霧? 何処なの?』

 精神感応テレパシーで呼びかけても返事がない。

 慌てて戻ってみれば、薔薇の咲き乱れる庭園で弟と天烏の男が激しく打ち合っているのが見えた。

 恐らくは自分を逃がすために、必死に足留めしているのだろう。

 けれど、彼女にもわかっていた。夜霧の持つ長針はこの戦いには不利だ。

 何本か打ちこめたとしても長針に塗られた神経毒は、敵を殺害するには至らない。戦いが長引けば長引くほど、夜霧の命が危ない。

 狭霧は新館の壁を一気に駆けのぼり、屋上へ向かった。新館がこの辺りで一番高い建物だった。

 屋根から嚆矢を射るしかない。キクを殺したように、一撃必殺で弟を襲う天烏の首を射るのだ。

 しかし、屋根に登った彼女を待っていたのはまた新たな敵だった。

 先回りした鷹丸が、ニッと冷酷な笑みを浮かべて、狭霧の前に立ちはだかった。

「お前は……」

「考えることは同じだな。なんとかとからすも高いとこに登りたがる」

 そう言うやいなや、鷹丸は鍵剣を振りかざし、狭霧に飛びかかってきた。

 狭霧は嚆矢を射ることを諦め、大きく跳躍した。

 繰り出される鍵剣をひらりと避け、鷹丸の肩を蹴る。

 武器が使えないからには、ここは体術で凌ぐしかない。

 狭霧は鋭い蹴りを入れた。鷹丸の腹に当たり、一瞬怯んだ隙に拳を叩きこむ。肉と肉がぶつかり、鈍い音をたてる。

「くそっ」

 それなりの効果があったのか、殴打された鷹丸が舌打ちした。

「女はやりにくいぜ」

 間髪入れず鍵剣を繰り出してくるが、どういうわけか急所の喉や胸は狙ってこない。

 刃は狭霧の四肢や衣服を掠める程度で、どこか故意な鈍さがあった。手加減されているのだろうか。狭霧は静かな怒りを覚えながらも、尚も鷹丸の胸に蹴りを叩きこんだ。

「てめえ、ふざけんな!」

 流石に我慢ならなかったのか、数発入れたところで狭霧の頭部に衝撃が走った。

 返しとばかりにドンと頭突きされ、狭霧は大きく撥ね飛ばされた。

 彼女は屋根の斜面をごろごろと転げた。そのまま地上に落ちる寸前でくるりと身を撓らせると、すぐ下の三階の窓を足で突き破って屋敷の中へ飛び込んだ。鷹丸もすぐにその後を追った。

 

 旧館一階の厨房では、夕食の準備のため火が起こされていた。

 君塚と和田がせっせと調理に勤しんでいたところに、突然の轟音が響き渡った。

 「庭の方からだ」と騒いで、いくらもしないうちに、今度は厨房の窓硝子が勢いよく割れた。

 旧館は大きく揺れ、料理人たちはその衝撃で壁に、或いは床に叩きつけられた。

「な、なんでえ。地震か?」

 床に倒れた君塚がなんとか起き上がると、すぐ近くに転がった黒い塊がむくりと身を起こした。天狗の面を被った黒装束の少年だった。起き上がった少年はそのまま脱兎の如く、廊下へ飛び出していく。

 バリンとまた騒々しい音がして、別の窓硝子が破られた。

 今度入ってきたのは、腕に翼のようなものを生やした大男だった。

「……は? はあああああ!?」

 その異形の姿に、君塚は腰を抜かさんばかりに仰天した。一体何が起きているのか。大男は厨房の人間には目もくれず、ざっざっと室内をおおまかに横切ると同じく廊下へ出て行った。少年に追いついたのか、廊下の方から、カキンカキンと金属がぶつかり合うような激しい音がした。

「……い、今のはなんだ」

 恐怖に慄きつつも、そこで君塚は気づいた。何か焦げ臭い匂いがする。振り返れば、調理の途中だった鍋がひっくり返り、油が床に散乱していた。

 鍋の近くには和田が倒れていた。倒れた拍子に頭を打ったのか、血を流している。

「和田!」

 君塚は驚き、和田に駆け寄った。抱え起こして肩を揺さぶるが、ぐったりとして意識が戻らない。

 厨房内にぶすぶすと煙が上がり始めた。油に火が移ったのだ。

 君塚は慌ててコンロに飛びついて火を消そうとした。しかし、時すでに遅かった。床の油のせいで、どんどんと炎が燃え広がっていく。

 これはだめだ。逃げるのが先決だ。

 混乱しつつも、君塚は和田の肩を持ってずるずると引き摺った。裏口の戸を足で蹴って開けた。

 さっきの化け物みたいな連中は、廊下の方へ行った。今度鉢合わせしたらどうなるかわからない。裏口から外へ逃げるしかない。

 和田を引っ張り出すのには時間がかかった。ヒイヒイ言いながら、なんとか背中におぶって外に出たところで、門の方から駆けてくるさくらの姿が見えた。

「さくら!」

 君塚が叫ぶと、さくらも気づいたのか手に持った殿春を大きく振った。

「料理長、いいところに! 助けてください。咲が……咲が怪我をして」

「馬鹿野郎、それどころじゃねえ。化け物みてえなのが飛び込んできて和田が……あと火事だ。火が出た。早く逃げろ」

「えっ。なんですって」

 駆け寄ってきたさくらも、旧館から上がる火の手と和田の怪我に気づいた。

 慌てて、彼女も和田の肩を支える。

「料理長、邸内にはまだ人が残ってるのですか。お嬢様は?」

「そんなのわからねえよ!」

 その時、またドーンと大きな音がした。

 新館の方から新たな白煙が上がる。

 あちらでもボヤが起きているのかもしれない。

 三人でなんとか正面玄関の前に来たところで、扉が開いた。中から家令の西田が飛び出してきた。顔面蒼白である。

「ひいいいいい! た、助けてくれえ!」

 庭園にいたらしき庭師も奇声を上げながら、命からがらというていで逃げてくる。

「ど、どうなってんだ? 地震台風竜巻火事がいっぺんに来たのかよ」

「わかりません。一体何が起きているのか……」

 旧館の一階は既に炎に包まれている。

 上階まで火が回って燃え落ちるのは時間の問題だった。

 邸内の様子はわからないが、もしや中で鵄丸たちが戦っているのだとしたら……?

 さくらは心底ゾッとして、門の外を殿春で差した。

「とにかく今は逃げましょう。早く!」

 自分は負傷した咲のために、助けを呼びにきたのだった。

 それが屋敷に戻れば戻ったで、新たな怪我人と火事だ。

 医者に加えて、消防車も呼ばなくてはならない。さくらと君塚は和田の身体を支えながら、敷地の外へ避難を始めた。

 

 

 邸内では、人ならざる者の激闘が続いていた。

 旧館の一階の渡り廊下では鵄丸と夜霧が、そして新館の三階では鷹丸が狭霧を追っていた。

 野外では大柄な天烏が有利だが、室内では小柄な儡霧の方に分があった。

 鵄丸は巨体ゆえに思うように金剛の翼を振るえず、夜霧のすばこしい動きに翻弄されていた。

 それは翼を持たない鷹丸も同じだった。

 狭霧を追って三階に飛び込んだが、彼は章浩の寝室に入ってすぐに気づいた。

 暗い室内から、微かだが異臭がする。かび臭い、腐った粘液のようなものが鼻をついた。目には見えない、何か鋭い罠が張り巡らされている気配がした。

 彼は、試しに鍵剣を壁に向かって投げつけてみた。

 それはピンと張りつめた何かにバンと弾かれて、鷹丸の方へ真っ直ぐ跳ね返ってきた。

 次に、彼は近くにあった椅子を投げてみた。木製の椅子は空中でバラバラに切り裂かれ、粘着質の糸にぺたりとついてぶら下がった。

「……人形剛糸にんぎょうごうしか」

 呟いた鷹丸の声には、その術をどこか懐かしむ響きがあった。

 彼は儡霧の、それも女の真神者が駆使する術に関しては知識と因縁があった。

 あまりに細く緻密な殺人糸が、彼のゆく手を幾重にも阻んでいた。逃げる狭霧が張ったものに違いない。その糸は鋭く剛力で、無理に通ろうとすれば自分の肉が裂かれる。狭ければ狭いほど効力を発揮する術で、鍵剣では斬り裂くことができない。

 鷹丸は仕方なく、章浩の部屋を通るのを諦めた。

 なんとか屋敷内に入った姉弟を外に引き摺り出したいが、どこに潜んでいるかわからない。鷹丸は窓から再び外へ飛び出した。探すとしても、別の入口から入るしかない。

 

 

 夜霧は、疲弊していた。

 襲ってくる鵄丸とは、持てる限りの力で戦った。

 何本もその巨躯に長針を打ち込んだにも関わらず、彼が倒れることはなかった。

 殴りつけてはそれの倍殴り返され、顔面を殴打された衝撃で天狗の面も割れかけていた。

 パチパチと火が爆ぜる音がする。

 彼らの背後にも炎が迫ってきていた。

 このままでは渡り廊下も燃え、やがて新館にも火が移るだろう。

 ……そろそろ決着をつけないとまずい。

 夜霧は最後の力を振り絞って、泰然と構えた鵄丸に再び飛びかかった。

「くらえっ!」

 その足が、鵄丸の顔に当たろうとしたその時だった。

 渡り廊下の天井が、突然ずぼっと抜けた。踏み抜いた足がそのまま夜霧の頭部を思いきり蹴り飛ばした。

「あ、う……」

「お、大当たり」

 闖入者は鷹丸だった。蹴った勢いで、一気に中に飛び込んでくる。

 夜霧の首根っこをむんずと掴み、そのまま全体重をかけて廊下に叩きつける。ドシンと凄まじい音がした。

 天井のみならず、廊下の床までも踏み抜いて、鷹丸は夜霧をやっと屈伏せしめた。

 思いきり踏みつけたあとで足を離すと、すかさず鵄丸がその両腕を捩り上げた。

「くっそ、手間取らせやがって……」

 鷹丸は大きく息をつき、手の甲に滲む血を舐めた。

 風のように邸内を走り回るうちに、彼も手足に無数の切り傷を負っていた。

 狭霧によって屋敷のあちこちに張られた人形剛糸が、彼の皮膚を切り裂いていた。

 これは鵄丸と合流した方が早いと踏んで、音がする渡り廊下での戦いに乱入したが、ちょうど穴を開けた天井の下に夜霧の頭があったのは幸いだった。

 鵄丸が、夜霧の身体を軽々と持ち上げる。

 鷹丸は、長針が何本も突き刺さったままの鵄丸の足をしげしげと眺めた。

「あー、お前も随分射られたな。毒も塗られてんだろ。大丈夫か」

「歩ければいい」

 鵄丸は夜霧を吊るしたまま、いかにも面倒くさそうに答えた。

 彼がそう言うなら、たいしたことはないのだろう。

「さて、火も回ってきたな。時間がねえ。で、こいつは片割れか。こいつで花澄をおびきよせられるか?」

 鷹丸は夜霧の髪を掴むと、ぐいっと上を向かせた。面の下から、ううっと呻き声がした。

 頭を蹴られたものの、どうやら意識は失っていないようだ。

「おい、てめえ。さっさと姉だか嫁だかを呼びな。女の方に用があるんだからよ」

 鷹丸は凶悪に凄んでみせたが、しかし夜霧は天狗の面の下で乾いた笑い声を洩らした。

「へへっ……嫌だといったら?」

「そのふざけた面を剥ぎ取って、ツラの皮も剥いで、頭の頂辺から足の先までみじん切りだな。てめえらには色々と因縁があるからな。儡霧の男をぶっ殺せるなら、それに越したことはねえんだよ」

 鷹丸は夜霧に関しては、容赦する気はさらさらないようだ。

 見下ろす鷹の眼はより凶悪さを増し、今や抑えきれない殺意から金色の光を放っていた。

「ったく、殺す方が百倍楽だってのに。誰だよ、真神者を生け捕りなんて依頼を引き受けたのはよ」

「……お前だ」

 鷹丸の理不尽なぼやきに、鵄丸は思わず突っ込んでしまった。

 

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