倒錯、恍惚、絶頂



「あ……、許し……て……くれ」

 白目を剥いて、途切れ途切れに呟く鏑木を、咲は長椅子に足を組んで座ったまま冷然と見下ろしていた。

 現実の鏑木は、数十分もの間、絨毯の上で海老のように丸まって転がっているだけだった。誰にも暴行を受けてはおらず、血一滴とて流してはいなかった。

 しかし、朝鮮朝顔の根が引き起こす強烈な幻覚は、彼の精神を何百回とえぐり、肉体を壊し、陵辱の限りを尽くしていた。恐怖と絶望の証拠に、鏑木は失禁し、脱糞し、全身はぴくぴくと痙攣けいれんを続けていた。

 咲は悶える父の姿に爛々と目を輝かせ、炎の如く燃える恍惚を、息せききって吐露した。

「……ねえ、お父様。私、わかりました。やっとわかりましたわ。これまで私は、自分を伊原静の子だと思っていました。誰の子でもない、母の子であるのだと。

 でも、それは間違っていました。私はまごうことなくあなたの子です。鏑木惟光の子です。あなたを虐げれば虐げるほど、私の心は艶々と色めきたち、沸騰するかのような歓喜で満ち溢れます。あなたが伊原静の腹に注ぎ込んだ悪意と害意の結晶が私です。私は悪の純血なのです。そのことを誇らしくさえ思います。……ええ、愉しいのです。悪道をくことが、悪行を成すことがたまらなく愉しいのです」

 その時、鏑木はゴホゴホと咽せ、大量の胃液を吐き出した。

 吐瀉物に毒の成分が混じっていたのか、彼の目に僅かに正気が戻った。

 それを見た咲は、嬉々と顔を輝かせた。

「ああ、お父様。愛しています。誰よりも愛していますわ。あなたは、鏡に映った私そのもの。愛しい私、あなたは私。自分を愛するからこそ、あなたを虐げずにはいられない。……なんて、なんて気持ち良いのかしら。こんなに素晴らしいものとは思わなかった。おそらくは、殿方と交わる歓びより上等ね……」

「……気狂いめ」

 鏑木はやっとのことで吐き捨て、弱々しく咲を睨みつけた。対する咲は、あくまでも冷ややかだ。その冷徹さは、母親には決してないものだった。

「あら、まだ一時間も経っておりませんのに豪気な方ね。絢爛狂気の幻想芝居はいかがでしたか。少し刺激が強すぎましたでしょうか。過去の暴虐を、少しは反省する気になりましたでしょうか」

「お前に……お前に、何が、何がわかる……。薄汚い売女ばいたどもに身上しんじょうを委ねなくては生きられなかった、私の何が……」

 しかし、咲は一切迷わなかった。同情の余地なく切り捨てた。

「わかりませんわ。売女と蔑む者に身を売る者も、また売女でしょうに。私があなたに仕掛けた罠も誅罰も悪行です。しかし、悪にも悪を誇る美学というものがあります」

「ぐっ……」

「そうそう、腹いせにルイを殺したのもお父様でしょう? お嬢様と諍ったあの夜に、革鞄にルイを詰めて持ち出したのですね。そして嫌がらせのため塀の外で殺した。最も、お父様とお嬢様の不和を呼んだのは私ですが……」

 咲は、そこで溜息をついた。決して悔恨からではなかったが、無関係の者を巻き込むのは、動物であっても本意ではなかったらしい。

「私も最初はルイで薬の効果を試すつもりでいたのです。しかし、あの子は賢くて、薬を仕込んだ餌を決して食べなかった。その賢さと、お嬢様への忠義心に免じて実験を諦めましたが、よもやあなたに殺されるとはね……」

「ハハ、犬如きに何を憐れむ。不肖の淫売が」

「ええ、憐れみなどしませんわ。同じ悪道ですから。ですが、あなたの成し得た悪ときたら、弱く無抵抗な女を虐待して金を奪い、畜生を殺して鬱憤を晴らしただけ。あまりに小者すぎて情けない……。

 要するに、悪は悪なりに哲学があるべきで、あなたの悪道は美しくないのです。 外面そとづらは良くとも内面が汚穢に過ぎて、害虫以下の反吐具合。前にも申し上げたと思いますが、私にとって『美しくないもの』は愛護の対象ではありません」

 咲は、そこで組んでいた足を解いた。

  制服のポケットからするすると赤の絹紐を取り出した。

 紐の両端を持り、ピシッと伸ばすと立ち上がり、鏑木にじりじりと近づいていく。

「さて、ここまで知られたからには、あなたを生きては帰せません。下手な憐れみをかけては、今度は私の命がありませんからね。では最終演技フィナーレと参りましょう」

 この期に及んで正気が戻ったのは、鏑木にとっては極限の不幸であり、咲にとっては至高の歓びに違いなかった。喜色を満面に浮かべた美しい死神を前にして、鏑木の眼に、現実の、本来の恐怖が浮かんだ。

 今こそ、彼の身に確実な死が迫っていた。

 それも血を分けた唯一の娘の手によって、完膚無きまでに滅ぼされようとしていた。

「とは言っても、あなたは腐っても高貴なお生まれ。血を流すのは無粋というものです。ならば、貴族に相応しい方法で葬って差し上げましょう」

「……何をする。やめろ。嫌だ、嫌だあああああ……」

「さあ、お父様。観念なさって」

 咲は笑いながら、仰向けになった鏑木をぐるんと引っくり返し、うつ伏せにした。

 その背中に馬乗りになり、容赦なく体重をかけると、哀れな男の口からは蛙を潰したような悲鳴が漏れた。

「……お願いだ。どうか……どうか許して……くれ。ひいいい……頼む。頼む!」

「それはできませんわ」

 遊山に出かけるような軽やかな声と共に、咲は鏑木の首に絹紐を巻きつけた。

 耳に顔を近づけ、どこまでも優しく囁く。

「だって私、あなたの娘なんですのよ。非情の血は争えませんの」

 咲は聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべ、握った紐に力を入れた。

 紐がぎりぎりと鏑木の首に食い込んでいく。彼はバタバタと暴れ、息苦しさのあまり爪で絨毯を何度も掻き毟った。

「うがっ……あ、ごっ……」

 窒息し、悶絶する鏑木の口から、吠えるような悲鳴が洩れる。咲は力を緩めない。尚も首を絞める。

 優雅に、気高く、貴族の誇りに満ちながら、どこまでも残酷に。

「ぐがっ……さ、き……ぎゃああああああ……」

 鏑木が断末魔の叫びを上げた瞬間、咲は一際淫らに喘いだ。

「ああっ……いいっ」

 天にも昇る快楽に包まれ、彼女は男に跨がったまま、生まれて初めての絶頂を迎えた。悪徳に耽溺し、毒々しい本性に居直って、呼吸するように悦楽を貪った。

 咲の悪道は、実父を誅することで結実した。

 

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