めぐる因業




  鏑木の目は、再び驚愕に見開らかれた。

 咲の愛らしい唇から発せられる単語の数々は、あまりに不可解であり、理不尽だった

 鏑木はこれまで三回結婚したが、子供を持った覚えはなかった。彼にとって家族とは嗜虐しぎゃくし、搾取し、遠からず死に至らしめるものでしかなかった。元から我が子など望むはずもなかった。

 それなのに、先程まで性的に戯れていたこの娘は自分を父と呼ぶ。こんな馬鹿げた、狂気じみた事態が起きるなど夢にも思わなかった。

 咲は、鈴を転がすようにころころと笑った。

「ようこそ、絢爛狂気の夜へ。……ああ、愛しいお父様。やっと私は名乗りを上げられます。幼い頃より、あなたを一日たりとも忘れたことはありません。いいえ、私に流れる忌まわしい血が、忘れさせてはくれなかった」

「私は……知らん。お前など知らんぞ」

 鏑木は惑乱したまま、声の限りに叫んだ。

「では伊原静という平民の娘を覚えておいでですか」

「い、は、らしずか……」

「ええ。十七年前、鏑木家に行儀見習いとして上がった伊原呉服店の一人娘です。長い話になりますが、お薬が回りきって本領を発揮するには少し時間がかかりますの。折角、念願の親子の対面が叶ったのです。私の身の上話に、しばしお付き合いくださいませ」

 そう言うと、咲は蕩けるような甘い声で話し始めた。

「今は昔のことです。鏑木男爵という貴族の家に、伊原静という娘がやってきました。鏑木家に入った静は、華族の礼儀作法を習いながら、細々と雑用をこなしておりました。彼女は、屋敷内では女中の扱いではありませんでした。親が決めた婚約者がおり、伊原家は鏑木家に金銭を支払って、嫁入り修行の名目で預けたのです。

 さあ、若く美しい娘が凋落ちょうらくしつつある華族の家にやってきました。ここからはどこにでもある話です。当時十八歳だった跡取り息子の若君は静を見初め、言い寄って我が物にしようとしました。しかし、婚約者に貞潔を誓った静は、若君を断固として拒んだのです。若君は激怒し、静を部屋に引きずり込むと散々に陵辱しました。先代の鏑木男爵は目を患っており、病院と屋敷との往復でこの陰惨な事件に暫く気づきませんでした。肉欲を持て余した若君の暴虐は続き、静は監禁されて外に助けを求めることもできず、地獄のような日々が続きました。

 しかし、やがて事件は発覚しました。父の男爵に横暴を追求されると、若君は静から誘惑されたと言い張って、さらに酷い暴行を加えました。彼女を半死半生の目に遭わせて屋敷から追い出したのです」

「どうしてそれを……。まさか」

「ええ、そのまさかです。伊原静こそが、私の母。あなたに人生を狂わされた最初の女です。さて、ここからはあなたの知らないその後です。

 静は、命からがら家に逃げ帰りました。が、その腹には既に悪魔の爪跡、因業の種が芽吹いていました。彼女は妊娠していたのです。静の両親、つまり私の祖父母は堕胎を試みましたが、暴行を受け弱りきった身体で堕胎は命にかかわることでした。結局彼女は誰にも祝福されないまま、実家でひっそりと私を産みました。

 子を産んだことはやがて婚約者に知られ、当然結婚は破談になりました。醜聞を隠すため伊原呉服店は移転を余儀なくされ、次第に没落していきました。私は静の私生児として、下町の長屋でひっそりと育ちました。私を養子に出して再婚する手もあったでしょうに、母はそうはしませんでした。母はとても慈悲深く優しい人でした。こんな形で生まれた因業の私を、憎むことなく愛したのです。つましい生活でしたが私は幸せでした。ですが、その幸せな生活も長くは続きませんでした。私の何げない一言のせいで、母が死んでしまったからです」

 咲はそこだけは悲哀に顔を曇らせて、一旦言葉を切った。堪えきれない激烈な怒りが、彼女の小さな身体をぶるりと震わせた。

「……私が五歳の時です。私は何げなく母に父のことを尋ねました。近所の子供たちは、貧しくとも皆両親が揃っていました。なのに、自分には母しかいないことが不思議だったのです。父が欲しかったわけでもないのに、会いたいとすら言ってしまいました。

 その頃、新聞に鏑木男爵と十三銀行の頭取の娘との結婚記事が載りました。それを母も読んだのでしょうね。母は意を決して、かつての修羅の家、鏑木家に向かったのです。その先にさらなる地獄の門が開いているとも知らず……。

 あんなに酷い目に遭ったのに、母は愚かにも信じていたのです。あなたが実の子である私にだけは、誠意を見せてくれるだろうと信じていたのです」

 そこで鏑木も、当時のことを思い出したようだった。何度も荒い息を吐きながら、ニタリと血が滴るような残虐な笑みを浮かべた。

「ああ、あの頃か……。そうだ、あの頃は長年の借財にまみれ生活が立ちゆかなくなっていた……。華族の体面も保てなくなり、宮内省からは隠密に爵位返上を求められ、私は破滅寸前だった。そんな私を……あの女は強請ゆすろうとした。だから……相応の罰を与えたのだ。……当然の報いだ」

「愚かな。母は私を認知してもらいたい一心で行ったのに。ただ、私に父がいることを知らせたかっただけなのに。認知されれば、私は鏑木の姓を名乗ることができます。それだけで良かったのです。家督相続も財残分与も母は望んでいなかった。鏑木家の貧窮ぶりはよく知っていたはずですから」

 咲はそこで長椅子から立ち上がると、燃え盛る暖炉の前まで歩いていった。

 薪の入った箱から、鉄製の火かき棒を引き抜くと、鏑木の元へ戻り鼻先に突きつけた。火かき棒を握った右手は、興奮から微細に震えていた。

「母が私のことを切り出す前に、あなたは獣の如く襲い掛かった。おそらくは逃げようとした母を、このような棒状の物で滅多打ちにした。何度も何度も打ち据えた。母がどれだけ泣き叫んで許しを乞うても、あなたは止めなかった。力の限りに打ち据えた挙句、動かなくなった母を、生きたまま川に放り込んだのです。

 その頃、私は祖父母たちと長屋で母の帰りを待っていました。朝になり、再び夜が来ました。私はひたすらに母を待ち続けました。しかし、待てど暮らせど母は帰ってきませんでした。三日後、墨田川の下流に水を吸ってぶくぶくに膨れた女の死体が浮かびました。身体には無数の傷と抵抗の痕があり、殴られた顔は腫れあがって判別がつかない状態でした。女の肺には大量の水があり、直接の死因は溺死でした。母は溺れて死んだのです。川の中で意識を戻し、溺れてもがいてどんなに苦しかったことでしょう。川べりに打ち上げられた遺体には、粗末なむしろがかけられて、そこから裸足の足がにょきりと飛び出していました。駆けつけた祖父母は、無惨な亡骸なきがらを抱きしめて号泣しました。娘を殺した犯人はわかっていましたが、彼らにはどうすることもできなかった。相手が華族であるがゆえに……」

 やるせない怒りを込めて、咲は言い切った。

 法では裁けないゆえに、彼女は私刑で実父に復讐を試みたに違いなかった。

「お父様、あなたは本当に救いようのない方です。母を殺した上、知らぬとはいえ実の娘に欲情なさるとは。過去の三人の妻も散々虐待した挙句、財産目当てに殺したのでしょう。それでもまた同じことを繰り返そうというのだから、もはや病気ですね。治る見込みのない不治の病です。これは、天誅以外に効く薬はありません」

「それでここへきたのか……綾小路家に」

「ええ。四度目の結婚を知りまして。これ以上犠牲者が出るのは忍びなく」

「おのれ……おのれぇ……。知っていたなら生かしておかなかったのに……」

 怨嗟の声を上げながら、鏑木は何度もパチパチと瞬きをした。

 目の前の娘に怒り、限りなく殺意を覚えつつも、段々と意識が朦朧としてきた。

 視界が真っ白になったかと思うと、真っ黒になり、曖昧に灰色になってはぐるぐると渦を巻く。暖炉の炎がぐにゃりと歪んだかと思うと、幾つもの火の玉となり、鏑木の周囲を回り始めた。嵐のような狂躁きょうそうが、目前に迫ってきていた。

「はっ……なんだ、これは……なんだ……。あれっ」

 囈言うわごとを繰り返しながら、鏑木は溺れるように手足をばたつかせた。

 逃げたかった。一刻も早くこの場から逃げ出したかった。しかし、身体は痺れたままで全く動かない。

 鏑木の足掻あがく様を、咲は嘲笑った。

「お父様。私をご覧になって」

 反射的に、鏑木は咲を見上げてしまった。

 次の瞬間、咲の首がパキンと音を立ててもげた。

 床の上にごろりと落ちた少女の首は、数回跳ねた後、鏑木から数センチと離れない面前で止まった。首だけでも意識があるらしく、長い睫毛を瞬かせ、憐みを込めて見つめてくる。残された身体の切断箇所から鮮血が飛び散り、雨あられと鏑木に降り注いだ。

「ひぎゃああああああああっ」

 鏑木はあらん限りに絶叫した。

 首を失った咲の身体は、どういうわけか直立不動のままで倒れなかった。

 その身体はズズズ……ときしむような音をたて始めた。赤黒く骨の覗いた切断面から肉が盛り上がり、また新たな首が生えてきた。首は轆轤ろくろのようにギリギリと回転しながら、徐々に肉を盛り上げ、やがて薄い皮膚をまとい、髪を生やした。今度生まれてきたのもどうやら女のようだった。その日本髪に鏑木は見覚えがあった。顔の眼球部分はぽっかりと穴が開いていて、どす黒い血液と黄色い膿がどろりと溢れ出した。

「……静っ、静なのか」

 半狂乱になりながら問いかけると、目の前の咲の首がくすりと笑う。

「ああ、いよいよ始まったのね……。さあ、お父様。狂瀾怒濤きょうらんどとうの舞台の幕が上がりますわ。汚物は汚物でも、役名を与えられた以上はしっかり演じていただかないと。歌い喚いて、踊り狂って、どうぞ存分にお愉しみになって」

「静、静……。地獄から蘇ったのか、うわああああ、来るなあ、来るなああああ」

 眼球を失った静は、鏑木によたよたと近づいてくる。

 彼女は鏑木に倒れ込み覆いかぶさると、そのおぞましい顔をぬうっと近づけてくる。

 あと少しで唇が触れあうというところになって、静は急に動きを止めた。

 顔がぷうと風船のように大きく膨らんでいく。肉や骨や血管が弾け、透けた皮膚はビニールのように薄く伸び、日本髪もあっという間に解けてざんばらになった。

 長い髪が、矢のように落ちて鏑木の全身に絡みつく。髪がもぞもぞと動き始めたと思ったら、それは無数の蜈蚣むかでだった。蜈蚣は鏑木の身体を這い回り、服の中に潜りこんで皮膚を噛み、毒液を注入した。鏑木はあまりの痒さに、皮膚を掻き毟った。

「うあっ、うあっ……」

 動けない鏑木を蹂躙せんとする影が、いつの間にか増えていた。

 同じく眼球を失った第二の犠牲者、平田有紀子が現れたかと思うと、手に持ったペンチでしたたかに鏑木を殴りつけてきた。爪を一本一本丁寧に剥ぎ、指先を丹念に潰していった。

 痩せ細った第三の犠牲者、秋田未藤が骨と皮だけの手で鏑木の頭を押さえつけ、鼻と口と耳に熱いタールを流し込んだ。タールは、鏑木の脳髄をじりじりと焼いた。鏑木は熱と臭気で窒息し、大きく咽せながらタールを何度も吐き出した。それでも未藤は車にガソリンを注入するが如く、淡々と鏑木にタールを注ぎ込んだ。

「ひあ……熱い、熱い、熱いいいいい……」

 第四の犠牲者、植松千尋も現れた。

  花柄の清楚なワンピースはあちこちが無残に切り裂かれ、傷口からぴゅうぴゅうと血を噴いている。彼女だけは天真瀾漫に微笑みながら、鏑木の下半身に手を伸ばした。愛おしそうに男の股間を撫で摩ると、ナイフを振り上げ一気に男根に突き刺した。そのままぐりぐりと掻き回し、ねじり切る。目だけは潰さずに残しておいた意味を示すように、切りとった醜穢な肉塊を見せつける。

「あっ、ひ、あぐっ……やめ、やめ……てくれぇ……」

 一体自分に何が起こっているのかもわからないまま、地獄の狂騒が続く。

 鏑木の目に絶望が浮かび、タールが入り混じった涙が滂沱ぼうだと溢れだす。許しを乞う声が、途切れ途切れに洩れる。

 女たちの復讐は止まらない。

 生前、彼女たちは泣きながら鏑木に許しを乞うた。

 何故、自分を打つのかと。どうかやめてくれと。お願いだから許して欲しいと。

 けれど、鏑木は哀願する女たちを許さなかった。岩をも蕩かす美貌を前にしても、彼の心は鋼よりも岩よりも固かった。彼は加虐を心から愉しみ、目の前の美を憎んだ。優しい心を、粉々に打ち砕かずにはいられなかった。

 父がもがき苦しむ様を見て、咲の首はごろんごろんと転がりながら、絶え間なく嗤い続けた。

「うふふふふ……あははははははははははははは!」

 鏑木は最後の力を振り絞って、縋りつく亡者どもを突き飛ばした。

 よろよろと立ち上がり、壁に手を這わせる。指の先端は全て欠けており、彼は血みどろの手を茫然と見つめた。頭が割れるように痛かった。入りこんだ虫たちが脳を散々に喰い荒らし、キュルキュルと音をたてて髄液を啜っていた。鏑木は自ら壁にぶつかっていき、ガンガンと頭を打ち付けた。

「死ねっ、死ね……死ねぇ!」

 耳から飛び出した無数の虫を踏みつけて殺しながら、彼は叫んだ。

 何故、切り刻まれた身体が動くのかわからないまま歩いた。しかし、どれだけ歩いても歩いても、部屋の出口には辿りつかなかった。

「何故だ、どうしてだ……」

 背後から静が追い縋ってきて、背中に火かき棒を打ちおろした。

 鏑木は、再び床に倒れ伏した。

 静は何度も何度も、容赦なく、精密な機械のように一定の速度で鏑木を打った。

 悪鬼たちの顔が、先代の鏑木男爵になり、お遊戯会で夜毎に辱しめた仮面の男女へと変わっていった。彼らはけたたましく哄笑しながら、総出で鏑木を打った。衣服を剥ぎ取り、無遠慮に肌をまさぐり、鏑木の心身を犯し抜いた。

 ぐき、べき、ばき、ぐしゃ、びちゃ……。

 鏑木の肉は割れ、白い神経が露出し、四肢の骨は粉々に打ち砕かれた。それでも残酷なことに、肉体はすぐに再生し、再び打たれては壊されるのだった。

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