淫らに狂い咲いて

 


  篠突しのつく雨の中、小石川の綾小路邸はしいんと静まり返っていた。

 使用人たちは皆午後は休みを貰い、夕方までに自宅に帰っていった。

 咲もさくらと共に一旦は荷物を持って屋敷を出たものの、彼女と別れて数時間後、裏口から密かに戻ってきていた。今夜、蘭子たちが屋敷に戻ってこないことはわかっていた。

 彼女は外から気づかれないように、新館の部屋のカーテンを全て締めきった。電気はつけず、室内の灯りは蝋燭のみにした。咲は今夜、鏑木を密かに邸内に呼んでいた。

 彼と密会し、二人きりの濃密な時間を過ごすつもりでいた。鏑木は好色な誘いに乗ってきた。

 咲は、長いこと一階の客間の壁に寄りかかり、何事かを思案していた。

 思索に耽るうちに、何度も切ない溜息をついた。これから起こる男女のめくるめく邂逅かいこう、鏑木と繰り広げる罪深い所業の数々に胸が高鳴るのを感じた。背徳の味は、たまらなく甘美だった。

 ゴロゴロと遠雷の音が聞こえてくる。春の夜は、久方ぶりに荒れそうだった。

 

 やがて玄関の方から、コツコツとドアを叩く音がした。

 待ちわびていた者の訪れに、咲は目を開き、いそいそと玄関に向かった。扉を開けると、そこには鏑木が立っていた。

 鏑木は、濡れた傘を扉に立てかけるとすぐに中に滑り込んだ。

 咲は首だけ出して外を見たが、いつものロールスロイスの影はなかった。

「こちらへは徒歩でいらしたのですか。警備員には見つかりませんでしたか」

「ああ、運転手は日比谷で帰した。ここへは円タクで来たよ。最も、変なところで降りてしまって少し迷ったが……。君も、今時分はここにいないことになっているんだろう?」

「ええ、お休みをいただいておりますので。私は銀座の船橋呉服店にお邪魔している手筈に。あそこの店主は私の後見人ですから。勿論、口裏は合わせてありますわ」

「船橋呉服店……か」

「ご存知なのですか、かの店を」

 咲は悪戯っぽく笑った。だが、鏑木は首を軽く横に振った。

「いや、知らないな。そうか、店主も共犯とはね。君もなかなかの策士だな」

「全ては鏑木様をお慕いするゆえですわ。この狂おしい胸の内をお分かりになって」

 咲は奥へと目配せした。扉をしっかり閉めると、内側から鍵をかけた。鏑木は満足そうに頷いて咲を抱き寄せ、歌うように囁いた。

「気儘な独身の夜もあと僅か。今夜も銀座で飲み明かすつもりだったが、突然の雨に降られてしまってね……。たまたま、そうたまたまこの近くを通りがかったのだよ。今宵は雨宿りさせてもらいたい」

「まあ、白々しい。……さあ、客間にお入りになってください。肌寒いので暖炉に火を入れました」

 咲はするりと鏑木の腕から逃れると、茶を淹れるため渡り廊下の先の厨房へ向かった。

 

 鏑木は客間に入るとコートを脱ぎ、ソファに腰を下ろした。

 電気はついておらず部屋は暗かったが、咲の言う通り別の光源が用意されていた。大理石で造られた暖炉には、赤々と炎が燃えていた。

 くべられた太い薪がパチパチと爆ぜる中、鏑木はこれから味わう美しい獲物を夢想し悦に浸った。咲の柔らかな唇、ぴちぴちとした肌を思うだけで喉が鳴った。

 束ねられた黒髪を解き、スカートを下ろしてすっきりと伸びた両足を暴き、緊張の汗で湿ったシャツを剥ぎ取って一糸纏わぬ身体にする。心ゆくまで快楽を貪りたかった。

 ここが鏑木の自宅や、場末の旅館であったらここまで燃えはしない。女主人の留守中に、その館で不実の行為を愉しむことが、より背徳を煽るのだ。

 やがて、咲はいつものように茶器一式を乗せたワゴンを押して入ってきた。

 鏑木に背を向け、カップに熱い紅茶を注ぐと静かに手渡した。

「どうぞ、お体が温まりますので」

 鏑木は受けとった飲み物を一気に飲み干した。悠長に味わって飲んでなどいられなかった。

 鏑木の手からカップが落ち、絨毯の上をころころと転げた。それが合図だった。

「咲、会いたかった……」

「ああ、鏑木様。いいえ、今はあなたの御名おんなを、惟光様と呼ばせてくださいませ」

 咲は感極まったように声を震わせ、鏑木の胸の中に飛び込んだ。

 彼女は、もはや交わした視線だけで淫らな思惑に合意した。自らの豊満な胸に鏑木の頭を押しつけ、何度もこすりつけた。少女の清純と淫欲は、易々とその一線を乗り越えて交ざり合った。

 娘の大胆さに驚きつつも、たがが外れたらしき愛の求めに鏑木も応える。

 服の上から両乳房を掴み、ぎゅうと揉み上げると咲は甘やかな悲鳴を洩らした。

「惟光様……あっ、んっ」

「咲、咲……なんとい」

 二人は抱き合ったまま、何度も情熱的な口づけを交わした。

 卑猥な粘膜が離れてはぶつかり、やがて忍びこんだ舌と舌が絡まって透明な唾液が糸を引いた。

 戯れは徐々に激しさを増していき、とうとう鏑木は咲をソファの上に押し倒した。

「……あっ。だめ……やだっ」

 下から秘めやかに上がる嬌声は、言葉通りに男を拒んでいない。

 蠱惑こわく的な笑みを浮かべ、足をばたばたと振り、少女は鏑木を押し返そうとする。その形ばかりの抵抗は、いかにもか弱く、明らかな婀娜あだに満ちて、男の劣情を喚起させた。

「いけませんわ、惟光様。お嬢様の留守中に……このような淫らなこと。ここで一線を越えてしまっては、申し訳が立ちません」

 鏑木は咲のスカートをまくり、柔らかなな太ももに手を這わせながらハハと一笑に伏した。

「ハッ、あんな女どうでもよい。結婚したところで、どうせ夫婦の苦楽は共にできまい」

「……あら、それはどういう意味です」

 興奮の荒い息を吐きながら、咲も鏑木の胸元のタイを緩め始める。

「この世の中は、常に不合理な不条理に満ちている。不慮の事故に、不幸な病気。時には、犯罪被害に遭うこともあるかもしれん。だが、来たるべき偶然とは、すなわち必然ではないかね」

 そううそぶきながら、鏑木は咲の太ももに爪を立て、黒のストッキングをびりりと引き裂いた。

「あんっ、ひどい……」

「こんなもの後で何枚でも買ってやる。もう我慢できん。今宵、お前を我が物に……」

 鏑木は慣れた手つきで咲の靴を脱がし、ストッキングをするすると剥ぎ取っていった。

 曝け出された白い太ももに顔を埋めて何度も口づけ、今度は制服のシャツのボタンを外し始める。咲は鏑木の頬を愛しげに撫で、顔を近づけて唇への情けを乞うた。

 また口づけた。一つ、二つ。激しい。若さゆえの激しさか、女ゆえのさがか。

鏑木はくつくつと笑いながら、愛欲の沼に溺れつつある黒檀の瞳を覗き込んだ。

「咲……私は君の正体を知っているぞ」

「えっ」

 驚きの声を上げた咲に、鏑木は勝ち誇ったように言った。

「今こそ全てを暴き、君を名実ともに丸裸にしてしまおうか。君の本当の名は、綾小路花澄。蘭子の異母妹で、綾小路家の正統な後継者だ」

「……惟光様、まさか、そんなことは」

 やんわりと、しかし懸命に否定する咲に、鏑木は尚も意地悪く囁く。

「今更隠しても無駄だ。というより、蘭子さんも勘付いているだろうよ。君の正体が知れるのも時間の問題だ。……しかしなあ、私は君に同情しているんだ。本来ならこの家も財産も全て君のものになるはずだった。それなのに母親は死に、家は燃やされ、家督はその資格のない異母姉に簒奪された。私はいつだって君の味方だよ。なんといっても君を好いているしね」

「惟光様……」

 咲はうっとりとその名を呼び、彼の左手を手に取ると音をたてて何度も口づけた。

「手を組もうじゃないか、咲。蘭子さんとの結婚はもはや止められないが、婚姻後に君は名乗りを上げるといい。身の安全は、私が保証しよう。一騒動になるだろうが、何も心配しなくていい」

「あら、ご結婚はされるのですね。私はあくまであなた様のお妾、二号ということですか?」

 咲は悲しそうに眉を顰めた。やはり、蘭子が鏑木の妻になるのは口惜しいようだ。

「違う。遠からず、君が綾小路家を継ぐことになる。蘭子さんを片付けた後で、君こそが晴れて私の妻となる。横領された財産を取り戻し、二人で末長く幸せに暮らそうじゃないか。まさにめでたし、めでたしだ」

「片付ける。……つまり、お嬢様を殺すおつもりで?」

「人聞きの悪いことを言わないでくれ。あの人の身に何が起きたとしても、それは不慮の事故だよ事故。元から決まっていた事故ではあるがね」

 鏑木の悪の囁きに、咲は娼婦もかくやという淫靡いんびな笑みを浮かべた。鏑木はそれを「だく」の意味に受取ったのか、咲の手をぎゅっと握りしめた。

 咲は嬉々として鏑木の頬に口づけ、言祝ことほぐように言った。

「ああ、嬉しい。やっと、やっと、私に真実の心を開いてくださいましたのね。ということは、お嬢様は選ばれし四人目なのですね」

「……ん。四人目」

 咲は意味深な微笑を浮かべたまま、尚も重ねて問う。

「いいえ、惟光様。本当は五人目なのではなくて?」

「……何。それはどういう意味だ」

 鏑木が咲の言うことを理解できないまま、尋ね返した次の瞬間だった。

 馬乗りになっていた鏑木の身体が、ぐらりと大きく揺れた。彼は糸を切られた人形のように、背中から床に転げ落ちた。

「なっ……」

 何が起きたのかわからず、仰向けになったまま鏑木は目を白黒させた。

 それを横目に、咲はゆっくりと上半身を起こした。

 鏑木も床から身を起こそうとするが、手先は小刻みに震えるばかりだ。絨毯に爪すら立てられない。全身からどっと嫌な汗が吹き出し、ぞわぞわと悪寒がした。

 弛緩しかんする口からはだらしなく唾液が溢れ、絨毯に染みを作った。

 咲は床に落ちた男の全身をゆっくりと眺め、感心したように呟いた。

「思ったより効き目が早かったわね。三十分はかかると思っていたけれど」

「さ……き、何を……」

「ねえ、惟光様。肝心なことをお忘れですわ」

 咲は妖しい笑みをたたえたまま、ゆっくりと時間をかけて衣服の乱れを直した。ソファに座り直すと破り捨てられたストッキングを拾い、靴を履いた。

「どんな花にもすべからく棘があるものです。例え、それが雑草じみた野生の花だとしても。いかがでしたか、本日のハーブティーは。少し苦かったでしょうか。用いたハーブは、どこにでも生えているとても綺麗な花ですの。朝鮮朝顔、根には少々困った成分があるのですが」

「咲。これはっ、これは、どういうことだっ……」

「何って、お薬ですよ。あなたの夢見を少し悪くするお薬です」

「く、薬……」

「あなた様が気づかなかったのも無理はありません。これまでも、カルモチンを始め色んな薬を少量ずつお茶や食事に混ぜておりましたから。私の愛情溢れる味付けに慣れていただくために、ね。ええ、見ていてとても面白かったですよ。薬によって、あなたは饒舌になったり、眠ってしまったり……」

「なん、だと」

 鏑木は目を見開き、驚愕した。その声はひどくかすれていた。

 咲が自分に薬……いや、毒を盛っていた……。その事実が信じられなかった。

「この屋敷に来て以来、私はあなたが口にするものに全て細工をしていました。料理を作った君塚料理長には、何の落ち度もありません。彼ら料理人に害が及ばなかったのは幸いでした。

 しかし、お嬢様の機敏さ、聡明さは想定外でした。お嬢様の舌は繊細で、最初にお出ししたコンソメスープからして、異変に気づいてしまわれた。あの時は本当に焦りました。ですからその後は危険ではありますが、あなたのお皿のみに毒を入れました」

「お、お前は……一体」

 その言葉を待っていたように、咲はソファからすくっと立ち上がった。

「愛しい愛しい鏑木男爵様。誠に忌まわしい限りですが、あなたが私に惹かれるのも無理はありません。私はあなたの因業いんごう、むしろあなたの分身そのものですから」

「因業……」

 咲は鏑木の足元に立つと、右手を胸に当て、左手でスカートの裾をつまみ上げた。

 彼女は舞踏会でダンスを踊る姫君のように、優雅にお辞儀をしてみせた。

「私、天誅に参りましたの。お父様」

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